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又造が住む集落に、四十歳くらいの音吉という男がいた。
山仕事を生業にしている。
鉄柵場で働いている。
ある日曜日の朝、早く起きた。
裏山の奥に山菜取りに出かけた。
昼飯を入れた籠を背負った。
「それじゃ、おっかあ。行って来るぞ。今日は仕事は休みじゃけん。ゆっくりしてくるからな」
「お前さん、沢の奥に湯が湧いているじゃろ。そこに浸かってくるとええぞ」
「おおそうじゃ。タオルを一枚持って行くとするか。いいことに気がついたな、おめえ」
「おらは畑で芋の種でも植えてるから。ひとりでも大事じゃ」
初夏になっている。
谷間からは、ウグイスの鳴き声が聞こえる。
ほーほけきょけきょけきょ。
「うまく鳴くもんじゃわい。おおいい声だ、いい声だ」
音吉は、独り言をいう癖がある。
聴き惚れている。
地下足袋で、砂利の多い山道を踏みしめながらのぼって行く。
二十メートルくらい先で、道が左に曲がっている。
なぜか気になって、ふと前を見た。
太くて長いシッポが、ちらっと見えたように思った。
足を速めた。
その場所に来た。
辺りを見回す。
「何だ。気のせいか。何にもいないぞ。俺もやきがまわったか」
左足の地下足袋の爪が、ふたつ外れている。
「これじゃ、歩くのにあぶないわい」
しゃがみこんで、直した。
道の左側に籠を置いた。
ざくざくざく。ざくざくざく。
人が近づいてくるぞ、と音吉は思った。
しゃがんだままでいた。
地面を見つめたままでいる。
脇を通って行く。
ぷうんと、いい香りがした。
「なっなんだ。これは、一体」
小さな声でいった。
人が通り過ぎた。
前を見た。
あでやかな着物を身につけた若い女が、背中を見せて歩いていく。
高級草履をはいている。
「ははあん。これは。キツネかタヌキのしわざじゃ。どれ、せっかくだから化かされてやろう」
籠に左手をのばした。
すぐ隣に置いたはずであった。
ほんの二尺くらいである。
とどかない。
音吉は不審に思った。
もう一度試みた。
手がとどかなかった。
まるで籠が蜃気楼のようであった。
音吉は、その場で腕を組んで目をつむった。
「落ち着け音吉。お前は化かされておるのじゃ」
独り言をいった。
懐から火打石を取り出した。
カチンと音を立てた。
ピリッと、その場の空気が破けた音がした。
道端で物音がする。
クマザサの中に何かが見えた。
二頭のキツネがおにぎりを食べている。
音吉は怒らない。
じっと見つめている。
「そうか、そうか。腹が減っているのか。お互い様じゃ。食え、食え」
微笑みながら食べっぷりを見ていた。
時々、音吉の方を気にしている。
音吉に敵意がないのを確かめると、全部平らげてしまった。
「やれやれ、これで俺は昼飯をどうしたもんじゃのう」
音吉は、そこから引き返すことにした。
数日後。
音吉は、鉄柵場で仕事をしていた。
太い杉の丸太を三本のせた籠が、ワイアの滑車をたよりにすべりおりて行く。
ミシミシミシミシ。
ワイアは、その重みでたるんでいる。
二度目にすべりおりるまでには暇がある。
音吉はそう思った。
山際にのぼって、タバコを一服ふかした。
ワイアは、左肩のすぐ上にあった。
立ち上がろうとして、ワイアをつかもうとした。
ドンと後ろから、何かが音吉にぶつかった。
音吉は三メートルくらい山を転げ落ちた。
ワイアが音を立てて動きだした。
「あれっ、おかしい。休み時間のはずだ」
思わず声が出た。
音吉は自分が危ういところで、災難をのがれたことを悟った。
あのまま手でワイアを掴んだままだったらと、ぞっとした。
体が震えてきた。
音吉がいた場所に、キツネが二頭いる。
すすきのように細い目だ。
「何を考えておるんじゃ、俺は。おかげで助かったんじゃないか」
大声をだした。
音吉はキツネに向かって、なんども頭をさげた。
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2011年05月12日
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水晶玉の中が、次第に暗くなってきている。
風が吹き荒れている。
今まさに、闇が支配しようとしていた。
夜叉が勢いづいている。
「それほどに妻が可愛いというのか」
「あっ、はい」
「助けてほしいか」
「はい。是非とも」
「そうか。わかった」
「ありがとうございます」
「その代わり、お前の命と引き換えじゃ。それでも良いか」
哲夫は一瞬ためらった。じっとして考えている。
「それみろ。やはりわが身がかわいいのじゃ、あっはっはっ」
「わかりました。差し上げましょう」
哲夫は観念した。家の守り本尊のカラス天狗様とご先祖様の霊に救いを求めた。
一心に祈っている。
夜叉が両腕で短刀をもって近づいてくる。
哲夫の急所を一突きにしようとしていた。
父、三郎は幽体離脱してから、哲夫のもとまで急いだ。
途中、京で有名なお不動様に立ち寄った。
ほとんど瞬間移動するので、距離は苦にならないが、疲れはする。
三郎の魂魄は、京の母の占い部屋の天井付近にいる。
見下ろしている。
玄関を入った所に若い女がいた。
三郎には正体が見えていた。
白い煙となって、水晶玉に入りこんで行く。
哲夫が諦めかけた時、父の声が聞こえた。
「てつお、助けにきたぞ」
「おとうさん」
哲夫は目をかっと見開いた。
「おのれ、この卑怯者め」
両手を合わせて刃を受け止めた。
左にねじった。
夜叉がよろめいた。
哲夫の光のオーラが燃えさかる。
夜叉に衣に火がついた。
衣を脱ぎ捨てて裸になった。
老いさらばえている。
両手で前をおおう。
「くそっ。助っ人が現れたか」
突然雷光が走った。
夜叉の体を直撃した。
「むっ、むねんじゃ」
一筋の煙の筋となって消えて行く。
辺りが明るくなってくる。
雲間から青空がのぞきはじめた。
ふっとお姫様が現れた。
巨大なお釈迦様の掌にいる。
「ありがとうございました。これで成仏できます。どうぞ、奥さまとお幸せに。さようなら」
三郎が玉から抜け出た。続いて、哲夫が出ようとしている。
玄関付近で物音がした。
若い女の皮が、鬼の体から脱げ落ちて行く。
食魂鬼があらわれようとしていた。
占い料金の代わりに、魂を食らうのであった。
たちまち牛くらいの大きさになった。
路地を突き進んでくる。
柱や壁がバリバリと音を立てて壊れる。
ぐおおっと、うなっている。
金棒を右手に持っている。
黒いカーテンを引きちぎった。
占い部屋がパアッと明るくなった。
鬼は目がくらんだ。
鬼の耳に聞き覚えのある呪文がとどいている。
「おっおのれええ。またしても」
金棒をブンと振りまわした。
不動は、刀剣を持ったままで飛び上がってさけた。
すわったままでいた初老の女の左頬に当たった。
頭は粉砕され、脳漿や血が辺りに飛んだ。
皮一枚で、髪の毛が付いた頭の一部が首から垂れさがっている。
不動が刀剣を鬼の頭上に振りおろした。
ぎゃああっ。
頭頂部を顎まで切断された。
どしんと路地に転がった。
体がけいれんしている。
哲夫の意識が戻った。
体をベッドから起こした。
「てつお」
父の声が耳元でした。
「この水晶玉を病院まで持ってきてくれ。俺は玉の中にとどまる。急いでくれ、母さんが心配している」
哲夫は頭が重かった。まるで二日酔いのようであった。
玄関の戸を開けた。
辺りが白々としていた。
時計を見ると四時をさしていた。
深呼吸をした。
五月の爽やかな空気が肺に流れ込んできた。
心が、充実感でいっぱいになった。
物書きのKが、店先で八十歳になる竹職人と話している。
「わしの話は、これで終わりじゃ」
「ありがとうございました。これ、些少ですが」
封筒に入れて差しだした。
「いらんと言いたいが、お気持ちじゃからな。有難く頂戴しよう。お線香の上等なのを買わせてもらおう」
「どなたかの菩提を弔うのですか」
「むろん、ご先祖様じゃ。父と母と祖父と祖母、そして夜叉になり果てた姫御の菩提を弔っておるのじゃ」
「ええっ、それでは、あなたは」
「そうじゃ。わしが哲夫だ。さっき茶を入れたのが、真理子じゃ」
Kは、Т橋を渡って旅館に向かっている。
川面が夕陽をあびてきらめいている。
怒り、悲しみ、喜び、楽しみ。
人の感情は、何と不思議なものだろう。
俺などまだ未熟者だ。それが分かっただけでも、ここに来た甲斐がある。
Kは、衷心からそう思った。
夕陽に向かって両手を合わせた。
涙が自然とあふれてきた。
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