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掛け軸

 Sは、ふらふらしながら大通りから路地に入った。
 足元が暗くなった。
 街灯がないのだ。
 ちぇ、まったく泣かせやがるぜ。
 いつものことだが、目が慣れるまでに時間がかかるのだ。
 少し先にポリバケツがあった。
 わきに、白い物が見えた。
 なんだ。気持ち悪いな。びっくりさせやがら。
 どうせ犬か猫だろう。
 Sは小石を拾い上げて、闇に向かって投げた。
 カーンと響いた。
 足元がおぼつかない。
 路上に転がってしまった。
 白い物が、ふわりと飛んだように見えた。
 通りすぎてから、ちらっと視線を走らせたが、何も見えない。
 気のせいか、それとも歳だからか。
 ぶつぶつ言いながら、歩きつづけた。
 
 月明かりに照らされて、アパートが見えた。
 Sは鳶職だ。
 やれやれ、今日もおわりか。仕事がきつかったな。
 右肩がはれ上がっているのが、服の上からでも分かった。
 深夜である。
 音を立てずに階段をのぼる。
 カタンカタン。
 うしろで、かすかな下駄の音がした。
 ふりむいたが、誰もいない。
 おかしなことばかり、今日は起こるな。
 Sは、部屋の前に立った。
 ふっ。
 誰かが、後ろから息を吹きかけた。
 おしろいの匂いがした。
 ちぇっ、いまいましい。どうせ誰もいないんだろう。
 ばかばかしくて、つきあってらんねえや。
 鍵を穴に差し入れて、まわした。
 ドアが開いた。
 手前が台所だ。その向こうに四畳半の部屋がある。
 奥が、ほの明るい。
 小玉電球が、つけっぱなしになっていた。
 布団が敷きっぱなしになっている。
 ごろりと横になると、Sはいびきをかきはじめた。
 夢を見た。
 アパートの自分の部屋だ。
 台所で、女が立ち働いている。
 背中を向けているので、顔が見えない。
 Sは起き上がるとするが、目玉ばかりが動いて、からだがまったく動かない。
 白い煙が、台所から畳をはってきた。
 布団のわきで、天井に向かって上昇しはじめた。
 女の姿を形づくった。
 あんたがほしい。
 ほしい。
 ほしい。
 女の口は、動いてはいないのだが、意思は伝わってきた。
 布団のまわりを歩きはじめた。
 風にふかれて、流されているようだった。
 
 チュンチュン。チュンチュン。
 すずめが鳴いている。
 窓の外が白々としていた。
 床の間の掛け軸が、枕もとに落ちていた。
 山水図だった。
 Sは老眼鏡をかけると、じっと見つめた。
 縦に長い白いシミのような物が、目をひいた。
 虫めがねをその上にかざした。
 白い着物を身に付けた女の絵だった。
 赤い口紅をしている。
 女の顔がちょっと動いて、にっと笑った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 翌日の朝早く、恵子は東京に着いた。
 新宿駅前は、乗降客で混雑していた。
 ふらつく足取りで、長い階段をおりる。
 なんども、人にぶつかった。
 その度に、倒れそうになるのをこらえた。
 夕べから、何にも食べていなかった。
 バッグをひとつ持っているだけだ。
 頼る人が、ひとりいた。
 草津でいっしょに踊っていた綾だ。
 十歳年上だった。
 ずっと田舎にあきたらずにいた。
 「いつかきっと、新宿K町で踊るんだ」
 それが、彼女の口癖だった。
 東口で降りた。
 大きなテレビ画面がビルに設置されていた。
 恵子は、もの珍しそうに見入った。
 立っているのが辛かったので、しゃがみこ
んだ。
 ひょろ長い男が、寄って来た。
 「ねえ、お茶飲まない」
 青白い顔している。
 恵子は、無視した。
 男は、あきらめない。
 恵子のまわりを、ぐるぐるまわった。
 タバコを吸っている。
 恵子の顔に吹きつけた。
 ふいに、亮を思いだした。
 「何するんだ。この野郎」
 恵子は、大声を出した。
 男は、一瞬驚いてあとずさった。
 次の瞬間、恵子の手をつかんだ。
 「おい、おれをなめんじゃねえ」
 バチッ。
 男のはり手が、頬に当たった。
 恵子は、思わず頬をおさえた。
 「こらっ、たくや」
 女の声がした。
 男が、急におとなしくなった。
 「へい、あねさん」
 「おめえ。なんてことする。この子、あたし
の知り合いなんだぜ」
 「すみません。知らなかったもんで」
 ぺこぺこ頭をさげている。
 背を丸めて、遠ざかって行こうとした。
 「待ってろ。用事があるんだから」
 綾が、命令した。
 
  
 
 JRの駅前。
 恵子は、携帯を手にもって、亮からの連絡を
待っていた。
 足元が寒いので、あたりを歩きまわっている。
 木枯らしに雪がまじっていた。
 思わず、コートの襟を立てた。
 深夜になっていた。
 アパートを出てから、二時間。
 いくら遅くったって、もうアパートにたどり着い
ているはずだ。、あたしがいないのに気付けば
必ず電話かメールをよこしてくれる。
 そう信じていた。
 なかなか連絡が入らない。
 時間だけがたっていく。
 女の、ところか。
 脳裏に、女を抱いた亮の姿が浮かんだ。
 この頃、恵子は、勘がするどい。
 相手のこころの動きがよく読めた。
 歯ぎしりして悔しがったが、それも一瞬の
出来事だった。
 上りの最終列車の発車時刻がせまっていた。
 本当に裏切られたら、相手がだれであれ、
許せなかった。
 二度とつきあうつもりはなかった。
 亮であってもだ。
 覚悟だろうか。女の意地と呼んだらいいだ
ろうか。
 恵子には、親譲りなのか、そういった性分
を持ち合わせていた。
 本当の母だって、捨てたのだ。
 発車十分前。もう余裕は、ない。
 この街をでよう。
 数年間、命がけで生きてきた。
 それは、それでいいじゃないか。
 恵子は、心の中で叫んでいた。
 入場券を買って、落ちつき払った態度で、
改札口をとおった。
 高架橋を越えて、ホームに急ぐ。
 ホームに、ベルが響きわたっている。
 「この列車は、高崎行き最終電車です」
 訛りのある男の声を聞いて、恵子はほっと
した気持ちになった。
 
 
 
 
 
 
 

新生 その8

 聞き覚えのある前奏が、はじまった。
 一郎がレコードに耳を傾けだしたのがわかっ
て、一美は口をつぐんだ。
 用があるふりをして、ドアから出た。
 ドナウ川のさざ波か。なつかしいな。
 妻と、ヨーロッパに一度だけ行ったことが
あった。
 旅先での想い出がよみがえって来て、胸が
いっぱいになった。
 コーヒーをすすった。
 いっぱいのコーヒーと古典の名曲。まったくぜ
いたくな時間だな、と思う。
 時計を見た。
 店が忙しくなっているだろう。早く帰らなくては。
 残ったコーヒーを全部すすった。
 立ちあがって帰ろうとした。
 閉じたドアの外で、一美が電話の最中だった。
 田中からだった。
 株価が上昇しているから、買ってはいかが
ですかといった話で、一美に対する気遣いが
すこしも感じられなかった。
 一美は、田中に失望した。
 一郎は、ソファにすわった。
 聞いていないふりをすることにした。
 トントン。
 ドアが開いて、一美が入ってきた。
 和服にきがえていた。
 一郎は、立ちあがって、
 「これで失礼いたします。ありがとうございました」
 と、言った。
 一美は、
 「もう少し、わたしのためにお時間をさいていただ
けないでしょうか」
 一美にしては、率直な物言いをした。
 「わかりました」
 一郎のそばにすわった。
 何を言いだすのだろうか。一郎はみがまえた。
 旦那さんを失くされた四十路の女性だ。ここは、
繊細な女心を、じっくり勉強してみるか。
 浅はかな考えで、動いて来た自分をふりかえるい
い機会でもあった。
 一美の言葉を待った。
 「一郎さん、こんな私で良かったら・・・・・・」
 手にしたハンカチを、膝の上で両手でもんだ。
 一郎は、一美の手をとって、
 「奥さん、いいんですよ。無理なさらなくても。
さっきお話したように、このままでもいいのじゃ
ありませんか。もうしばらく、ご自分に猶予をお
与えになっても」
 と、自分の想いとは、正反対のことを言ってし
まった。
 「いいえ。もう、じゅうぶんです」
 ドナウのさざ波が、大きくなって、一美の心を
大きく揺さぶっている。
 亡夫の思い出も、田中に対する一時の気の
迷いも、すべて過ぎ去ったこととして、忘れよう
としていた。
 一美は、自分を慕ってくれる一郎に、自分の
未来をたくそうと決めていた。 
 
 
  
 

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