玄関脇でタバコを吸っていた運転手は、恵
子が出て来るのを見ると、車を移動した。
自動で後部座席のドアを開けた。
恵子は、勢いよくすわった。
「やっぱりあなたのいう通りだったわ」
「すみません」
「いいえ。あなたは正直に説明してくれたん
だから、責任はないわ」
「もう、帰りますか」
「明日は仕事だし。そうします」
「もしよければ、私の会社の近くに知ってい
るスーパー銭湯がありますが。そこは、泊りも
ОKですよ」
「泊れるんですか」
「ええ。ここから。それほど離れていません」
「じゃあ、折角来たんだから、そこで今晩過
ごすことにします」
「わたしも、仕事が終わったら、そこでひと風
呂浴びようと思っているんです」
恵子は、だまったままで、バッグからタバコを
とりだした。
「あっ、すみません。車内は禁煙なんで」
恵子は、イライラしてきた。
気の合った友がいないのが、辛かった。
今夜は、誰かとおしゃべりをして、ストレスを
発散させたかった。相手はだれでも良かった。
綾がいるが、この時刻だ。
夫のいる身でもある。
無理は、言えなかった。
「ねえ、あなたも地方からおひとりで出て来て
いるんでしょ」
「そうですよ」
「もしよかったら、今夜わたしと過ごしませ
んか」
「ええっ、これはまた大胆なことを言われる
んですね」
「過ごすと言っても、銭湯で逢いましょうって、
ことです」
「ああ、それならわかりました。連絡先を教
えておいてくれますか」
Aスーパー銭湯に着いた。
「ぼくは、鈴木と言います。これで仕事をあ
がりますから、じきに電話を差し上げます」
「けいこです。それじゃ、玄関を入ったロビーで
お待ちしています」
恵子は、急ぎ足で玄関に向かった。
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恵子は、タクシーに乗った。
「ちょっと大きめの銭湯までお願いします」
「はあ、銭湯ですか」
「この辺りに慣れないものですから。タクシー
に乗ればわかるだろうと思いまして」
「そうですか。わかりました。S温泉が一番
近いですね」
「おまかせしますから」
ビルの谷間を、車は走って行く。
深夜なのに、車の量が多い。
恵子にとっては、タクシーでお風呂に行くな
んて、はじめての経験だった。
「お客さんは、東京じゃないですね」
「わかりますか」
「ええ。言葉がちょっとなまっている感じですね」
「どこだと思いますか」
「群馬県あたりかな」
「しばらく草津にいたんです」
「やっぱりそうですか」
「私も、栃木から出稼ぎに来ているんですよ」
「私はダンサーなんです。ほやほやの」
「ほう、そうですか。何だっておんなじです。
なかなか厳しいでしょうが、頑張ってください」
十分くらい走った。
左側に、S温泉のネオンが見えてきた。
「あのう」
運転手が不安げに言った。
「なんですか」
「もしもお風呂に入れなかったら」
「入れないってこと、あるんですか」
「会員じゃないと、入場を断られることがあ
るんです」
「ええ、そんなことって」
「あるんです。私、玄関で待ってますから」
四十くらいだろうか。
誠実な運転手だと、恵子は思った。
初めから、店のおばさんに聞いて出てくれ
ばこんなに苦労することはなかったんだがと、
恵子は、自分の失態を笑った。
だけど、お店は営業中だったし。
まあ、仕方ないか。何だって、勉強だ。
玄関を入ると、フロントがあった。
女の受付係に、会員制ですからと、やんわり
断られた。
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一郎が目をさますと、となりに一美はいな
かった。
空気がひんやりしている。
柱時計が、ボンボンとむっつ打った。
きょうは、軽井沢に帰る。
早めに出発しなくてはならない。
服を着て、土間に行った。
台所に人の気配がした。
一美の母が朝食の支度をしていた。
「おはようございます」
暖簾をあげて、あいさつした。
「昨夜は、ごちそうさまでした。とてもおい
しかったです」
「どうもお粗末さまです。一美は散歩にで
かけましたよ」
「どこへ行きましたか」
「大川へ行くと、言ってました」
歩いて、五分もかからなかった。
遊歩道は、犬を連れた人やジョッギングを
する人でにぎわっていた。
千曲川から眺める景色は、すばらしい。
新幹線の開業や高速道路のおかげで、街
の発展がめざましい。
人口が十万人をこえた。
一美は、厚手のジャンパーを着て、橋のた
もとに寄りかかるようにしていた。
「一美、それ、俺のじゃないの」
「あら、そう。これ、とってもあったかいのよ」
「ずいぶん早く起きたんだね」
一美は、じっと一郎の目を、見ている。
「どうしたの、顔に何か付いてる」
「昨夜は、鯉が跳ねている夢を見たわ、そ
れもバチャンバチャンと、何度もね。あんまり
跳ねるんで、眠れなかったわ」
一美は、一郎のそばに寄って、
「あんなに跳ねて、疲れなかったの」
と、たずねた。
一美が何を言いたいのか、一郎はようやく
わかった。
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