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女子トイレに入った。
手洗い場に、年輩のB子がいた。
鏡の前で、自分の顔をじっと見つめていた。
小じわが気になるのか、目のまわりを丹念に手入れしている。
総務部では、最古参だ。
私は、わきに立った。
横向きの彼女に、頭をさげた。
まったく表情を変えない。
ちらっと見ただけで、B子は、すぐにもとの姿勢にもどった。
私は、部長の好みを知っている。
この女は部長の相手ではない、という気がした。
よっつのうちのひとつを選んで、入ろうとした。
背後で、ドアが音を立てた。
ふりかえると、誰もいなかった。
トイレの前を、ひととおり歩いた。
青がみっつ。
赤がひとつ。
使用中のトイレがひとつある。
誰がいるのか。
静かだ。
物音が聞こえない。
使用中のドアの前で、じっとしているのも、気が引ける。
空いたトイレに入ることにした。
ドアのノブをまわした。
そっと、ドアを開ける。
我慢をしていたせいで、おなかが痛くなってきた。
すばやく入りこむと、内側からロックした。
最中に部長の相手が出て行っても、仕方ないと思った。
水を勢いよく流す。
一息で用をすますと、身支度をととのえた。
カチャ。
ふたつ向こうのトイレで、戸が開く音がした。
どうするか。
一呼吸おいて、私はドアを開けた。
若い女が、前を歩いて行く。
あまりに若い。
高校を出たばかりのM子だった。
テレビでよく見かけるタレントそっくりだ。
とてもかわいい。
長い髪が匂う。
こんな小娘を、Fは相手にしていたのだろうか。
手洗い場で、彼女の様子をうかがうことにした。
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小さな手が、S子の肌にふれた。
「ねえ、くすぐったいわ」
マリモは、S子の顔を見あげて、
「ごめんなさい」
と言った。
S子は、マリモに顔を近づけ、
「私の息子のごきげんはいかがですか」
と、たずねた。
マリモは、目をまるくした。
「だって、あなたが教えてくれたのよ、男の子だって。こんな大事なこと。忘れるわけないでしょ。
忘れんぼさん」
「誰にも黙っていてくださいね。あたしが言ったっていうことが、みんなに知られたら、困るんです」
S子は、にっこり笑った。
マリモのことが、分かるのだろうか。
おなかの子が活発に動いている。
マリモは、小さな右の手のひらを、そっとおなかにおしあてた。
何かをつぶやきはじめた。
S子には、理解できない言葉だ。
「ちっち、ちちちちっ」
おなかの子がじっとして、動かない。
じっと、耳をかたむけているようだった。
三分くらい続いた。
「ねえ。もうそろそろ上着をおろしてもいいかしら」
S子が遠慮がちに言うと、
「あっ、ごめんなさい」
と、マリモは手をひっこめた。
「赤ちゃんは、とっても元気です。あと二十日たつと、出てくるそうです」
マリモは、自信ありげに言った。
「そうなんだ。良かったわ。でも、そんなこと、よくわかるわね」
マリモは、S子の顔を見つめて、ちちちっと言った。
「何が何だかわからないわ。意地悪なのね、あなたは」
マリモが、ぺろっと舌をだした。
ほほ笑みながら、右手で手招きした。
「赤ちゃんと、お話をしたんですよ」
と言った。
「ええっ。そんなこと、できるの」
マリモはうなずいた。
「どうやるの。わたしにもできるの」
マリモは、両手を横にひろげた。
「できないんだ」
小さな頭を、左右に何度もふった。
「あたしはできるけど、かあちゃができるかどうかは、わからないわ」
「それができれば、とっても嬉しいわ」
「やってみますか」
「ええ」
「じゃあ、あたしのマネをしてください。まずは、手を合わせて、目をつむって」
S子は、急に笑いだした。
「だめです、笑っちゃ」
「ごめんなさい」
「赤ちゃんとお話がしたいと、本気で願わないと、だめなんです。神様なんです。赤ちゃんって」
「神様なんだ」
「そうです。だって、出産って、とっても不思議だと思いませんか」
「そりゃそうだけど。学校で教わったわ、精子と卵子が出会って、そして」
「それは科学でしょ」
「科学じゃいけないの」
「科学は、自然を理解するひとつの方法にすぎません」
マリモは、神妙な顔つきになった。
「どういうことか、よくわからないわ」
「大きな力が働いているのです」
S子は、真剣な表情になった。
ふいに、勝手口の戸が音を立てた。
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