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さびしい その18

 二年目の春が来た。
 あの日以来、小人のマリモは姿を現さなくなった。
 S子はときどき窓を開けては、空を見上げた。
 青い空に白い雲が浮かんでいるばかりで、ユーホーはいない。
 ひょっとしたら、あれは夢だったのかしら。
 でも、頭にリボンをつけたりして、かわいかったわ。猫のマリと仲が悪かったし。
 家にいずらくなっちゃったんだろう。可哀そうに。
 S子は窓枠にひじをついて、そんなことを思う。
 「S子」
 母のM子の呼ぶ声が聞こえた。
 急いで座敷にかけつける。
 「母さん、どうしたの」
 「光男の寝相がわるくて、ベッドから落ちないかと、ひやひやだよ」
 赤子は二歳になった。
 よちよち歩く。
 笑ったり、泣いたりはする。
 だが、言葉をまったく発しない。
 家族の問いかけに、目を見開き、耳を傾けている。
 顔を紅潮させて、両手を前で組む。
 言葉をわざと発しないように、我慢しているように、S子には思えた。
 「そんなに心配せんでも、大丈夫。男の子は、女の子より口をきくのが遅いものだ」
と、Fはほほえむ。
 ルビーの変色は、光男の健康状態を表していたんじゃないか。
 Aは不吉なことを、近頃口にするようになった。
 
 「みっちゃん、おきて」
 S子は、ベッドのわきで息子の名前を呼んだ。
 目を開けて、母親をさがした。
 「ほら、だっこ」
 横になったまま、両手を上にあげた。
 笑みを浮かべている。
 「まあ、とっても重くなったわ」
 S子は笑った。
 「男は、女よりも重いもんだ」
 M子が横になったままで、つぶやいた。
 「えらいわ。みっちゃん。ママの言うことが分かるのね」
 S子は、息子の顔に頬をすりよせた。
 よいしょと、抱きあげた。
 「あとで、私も廊下に連れ出しておくれ」
 M子が頼んだ。
 「ちょっと待っててね」
 光男が右手を前につきだして、上体をなんども動かす。
 「母さん、何だろね、この子」
 「何か言いたいんじゃないか」
 S子は光男が指さす方に歩いた。
 茶の間を通りぬけ、土間を降りた。
 窓際に寄る。
 光男は窓枠に右手をかけた。
 S子の眼をじっと見つめた。
 「わかったわ。みっちゃん」
 S子は窓を開けた。
 となりの家の屋根の上で、何かがきらっと光った。 
 見覚えがあった。
 空中でぶらんぶらんしている。
 「かあちゃ」
 光男が言葉を発した。
 マリモの声だ。
 銀色のユーホーから、キラキラ光るシャボンがひとつ放たれた。
 ゆっくりと向かってくる。
 しだいに大きくなる。
 窓際でとまった。
 光男が大きく口を開けた。
 青い霧が漂いだしてくる。
 シャボンのなかに、すうっと入りこんだ。
 次の瞬間、シャボンがはじけた。
 赤いリボンをつけたマリモが現われた。
 「さようなら、かあちゃ。いろいろありがとう。もうあたし、さびしくなんてないわ」
 涙がほほをつたっている。
 ユーホーに向かって、あがって行く。
 「まありちゃん、ばいばあい」
 光男が、男の子らしい声をだした。
 了

さびしい その17

 赤子の眼はとろんとしている。
 マリが騒ぐたびに、からだをびくっと動かす。
 「かあちゃ」
 S子の耳元で、マリモの声が聞こえた。
 薄青い霧が内ポケットから漂っている。
 異変を感じて、S子は猫のからだをつかんだ。
 廊下におろした。
 みゃあああ。
 見上げたままで、マリは立ち去ろうとしない。
 「しっ」
 S子は怒った。
 マリはシッポをふって、ふきげんを露わにした。
 S子は、左の手でこぶしを作り、
 「向こうへ行きな」
 と言った。
 S子は胸元をのぞいた。
 ルビーが陽を受けて、きらきら光る。
 手に取ってみた。
 何か変だった。
 「あなた」
 テレビを見ているAを呼んだ。
 「なんだい」
 「これ見てよ」
 「最初の色と違うみたいだ」
 「どうしたんでしょうね」
 「店の人が言ってたんだけど」
 「なんて」
 「ルビーの色が変わった時は、気をつけてくださいって」
 「へえ。不思議ねえ。そんなパワーがあるんだ」
 Aは眉をひそめた。
 「何か変わったこと、なかったかい」
 S子は考えをめぐらす。
 あっと、思った。
 内ポケットを左手でさわった。
 何も入っていない。
 S子はあわてた。
 確かにマリモを入れたのだ。
 
 会社を、二日休んだ。
 三日目。
 それ以上休むと、首がとぶ。
 複雑な気持ちをかかえたまま、出勤した。
 会う人ごとにきちんと挨拶するが、だれもそっけない。
 無視するか、ちらっと顔を見るくらいだった。
 こうなると、やめた方がいいのだろうが、この不景気である。
 容易に、仕事が見つからない。
 専業主婦に戻るのも、つまらない。
 席についても、うつむいたままでいた。
 誰かが呼びかけるまで、だまったままでいた。
 ふいに誰かが肩をたたいた。
 C課長だった。
 四十歳になったばかりだ。
 好人物と評判がいい。
 「ちょっと来てくれるかな」
 休憩室にふたりで入る。
 私は、椅子にすわらず、立ったままでいた。
 「まあ、すわりたまえ」
 「はい」
 課長は、タバコを口にくわえた。
 私の前には、湯呑茶わんが置かれている。
 湯気があがっていた。
 Cは、言いにくそうにしている。
 私は、思いきって話を切りだした。
 「やめた方がいいのでしょうか」
 ひとつせき払いをすると、Cは話しはじめた。
 「Y子くん。それはきみの考え次第だ」
 「はっ、はい」
 「まあ、うわさはすぐに広がるものだ。尾ひれがついてね」
 私は、肩をおとした。
 「近頃の若い娘は、何を考えているか、分からん」
 Cは、そう言って、無理に笑顔を作ってみせた。
 タバコの煙を一気に吸い込むと、ゆっくりと吐きだした。
 「どうだろう。現場に行ってくれないか」
 「どこでしょうか」
 「きみの家から、それほど離れていないよ」
 「行かせてもらいます」
 Cは、灰皿でタバコをもみ消すと、
 「あとで詳しいことは連絡するから」
 と言って、急いでドアを開けた。
 
 
 

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