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二年目の春が来た。
あの日以来、小人のマリモは姿を現さなくなった。
S子はときどき窓を開けては、空を見上げた。
青い空に白い雲が浮かんでいるばかりで、ユーホーはいない。
ひょっとしたら、あれは夢だったのかしら。
でも、頭にリボンをつけたりして、かわいかったわ。猫のマリと仲が悪かったし。
家にいずらくなっちゃったんだろう。可哀そうに。
S子は窓枠にひじをついて、そんなことを思う。
「S子」
母のM子の呼ぶ声が聞こえた。
急いで座敷にかけつける。
「母さん、どうしたの」
「光男の寝相がわるくて、ベッドから落ちないかと、ひやひやだよ」
赤子は二歳になった。
よちよち歩く。
笑ったり、泣いたりはする。
だが、言葉をまったく発しない。
家族の問いかけに、目を見開き、耳を傾けている。
顔を紅潮させて、両手を前で組む。
言葉をわざと発しないように、我慢しているように、S子には思えた。
「そんなに心配せんでも、大丈夫。男の子は、女の子より口をきくのが遅いものだ」
と、Fはほほえむ。
ルビーの変色は、光男の健康状態を表していたんじゃないか。
Aは不吉なことを、近頃口にするようになった。
「みっちゃん、おきて」
S子は、ベッドのわきで息子の名前を呼んだ。
目を開けて、母親をさがした。
「ほら、だっこ」
横になったまま、両手を上にあげた。
笑みを浮かべている。
「まあ、とっても重くなったわ」
S子は笑った。
「男は、女よりも重いもんだ」
M子が横になったままで、つぶやいた。
「えらいわ。みっちゃん。ママの言うことが分かるのね」
S子は、息子の顔に頬をすりよせた。
よいしょと、抱きあげた。
「あとで、私も廊下に連れ出しておくれ」
M子が頼んだ。
「ちょっと待っててね」
光男が右手を前につきだして、上体をなんども動かす。
「母さん、何だろね、この子」
「何か言いたいんじゃないか」
S子は光男が指さす方に歩いた。
茶の間を通りぬけ、土間を降りた。
窓際に寄る。
光男は窓枠に右手をかけた。
S子の眼をじっと見つめた。
「わかったわ。みっちゃん」
S子は窓を開けた。
となりの家の屋根の上で、何かがきらっと光った。
見覚えがあった。
空中でぶらんぶらんしている。
「かあちゃ」
光男が言葉を発した。
マリモの声だ。
銀色のユーホーから、キラキラ光るシャボンがひとつ放たれた。
ゆっくりと向かってくる。
しだいに大きくなる。
窓際でとまった。
光男が大きく口を開けた。
青い霧が漂いだしてくる。
シャボンのなかに、すうっと入りこんだ。
次の瞬間、シャボンがはじけた。
赤いリボンをつけたマリモが現われた。
「さようなら、かあちゃ。いろいろありがとう。もうあたし、さびしくなんてないわ」
涙がほほをつたっている。
ユーホーに向かって、あがって行く。
「まありちゃん、ばいばあい」
光男が、男の子らしい声をだした。
了
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2012年02月12日
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赤子の眼はとろんとしている。
マリが騒ぐたびに、からだをびくっと動かす。
「かあちゃ」
S子の耳元で、マリモの声が聞こえた。
薄青い霧が内ポケットから漂っている。
異変を感じて、S子は猫のからだをつかんだ。
廊下におろした。
みゃあああ。
見上げたままで、マリは立ち去ろうとしない。
「しっ」
S子は怒った。
マリはシッポをふって、ふきげんを露わにした。
S子は、左の手でこぶしを作り、
「向こうへ行きな」
と言った。
S子は胸元をのぞいた。
ルビーが陽を受けて、きらきら光る。
手に取ってみた。
何か変だった。
「あなた」
テレビを見ているAを呼んだ。
「なんだい」
「これ見てよ」
「最初の色と違うみたいだ」
「どうしたんでしょうね」
「店の人が言ってたんだけど」
「なんて」
「ルビーの色が変わった時は、気をつけてくださいって」
「へえ。不思議ねえ。そんなパワーがあるんだ」
Aは眉をひそめた。
「何か変わったこと、なかったかい」
S子は考えをめぐらす。
あっと、思った。
内ポケットを左手でさわった。
何も入っていない。
S子はあわてた。
確かにマリモを入れたのだ。
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会社を、二日休んだ。
三日目。
それ以上休むと、首がとぶ。
複雑な気持ちをかかえたまま、出勤した。
会う人ごとにきちんと挨拶するが、だれもそっけない。
無視するか、ちらっと顔を見るくらいだった。
こうなると、やめた方がいいのだろうが、この不景気である。
容易に、仕事が見つからない。
専業主婦に戻るのも、つまらない。
席についても、うつむいたままでいた。
誰かが呼びかけるまで、だまったままでいた。
ふいに誰かが肩をたたいた。
C課長だった。
四十歳になったばかりだ。
好人物と評判がいい。
「ちょっと来てくれるかな」
休憩室にふたりで入る。
私は、椅子にすわらず、立ったままでいた。
「まあ、すわりたまえ」
「はい」
課長は、タバコを口にくわえた。
私の前には、湯呑茶わんが置かれている。
湯気があがっていた。
Cは、言いにくそうにしている。
私は、思いきって話を切りだした。
「やめた方がいいのでしょうか」
ひとつせき払いをすると、Cは話しはじめた。
「Y子くん。それはきみの考え次第だ」
「はっ、はい」
「まあ、うわさはすぐに広がるものだ。尾ひれがついてね」
私は、肩をおとした。
「近頃の若い娘は、何を考えているか、分からん」
Cは、そう言って、無理に笑顔を作ってみせた。
タバコの煙を一気に吸い込むと、ゆっくりと吐きだした。
「どうだろう。現場に行ってくれないか」
「どこでしょうか」
「きみの家から、それほど離れていないよ」
「行かせてもらいます」
Cは、灰皿でタバコをもみ消すと、
「あとで詳しいことは連絡するから」
と言って、急いでドアを開けた。
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