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翌朝早く、吉べえは仕事場に入った。
壺に火を入れる。
「さてと、どうなるか」
ねじり鉢巻きをして、気合いを入れる。
火壺には、染めに必要な物が入っている。
そこに、水を加えて熱するのだ。
もうもうと湯気があがる。
額から汗がふきだした。
手を入れ、さっと引きぬいた。
赤くほてったが、熱いと嘆かない。
皮が厚くなっているのだ。
「まずは、これくらいでいいだろう」
声をだしながら、作業していく。
そろりと桜色の薄布を入れた。
「さあ、どうだ」
ふわりと湯の表面に落ちた。
湯が布にしみこみ、沈みはじめる。
棒を入れ、ぐるりと一回転した。
とろりと湯に溶け、形をくずした。
二度、三度とかきまわす。
原料とまざり合う。
汗がしたたり落ちる。
湯気で色具合が見えない。
ふううっと竹筒で息を吹き込む。
「ふむうう」
湯が、白く濁った。
「これではな。もっと布が必要だわい」
手で汗をふきとった。
戸が開いた。
およねが顔をのぞかせた。
「早いんだね、お前さん」
「おうよ。ちょっとな。ある物をためしてみたんだ」
「お茶が入ったから」
「朝茶か。飲んでからやるとするか」
壺の火を消した。
休憩をおえ、吉べえは、仕事場の戸を開けた。
「どれ、どうなってるか」
火壺をのぞきこむ。
湯はさめていた。
かすかに桜色が混じっている。
「これが反物にうまくなじんでくれるか」
吉べえの顔がほころんだ。
「おかげ様じゃ。今夜もお山に出かけるとするか」
吉べえの独り言が仕事場に響いた。
夕方まで、畑でおよねと野良仕事にはげんだ。
身体の動きが、かるい。
「ご機嫌がいいね。仕事がうまくいきそうなんだね」
「まあな。今夜も出かけるからな。先に寝ていてもいいぞ」
吉べえは、あわてて口をおさえた。
「おかしな話だね。何も夜じゃなくたって、いいだろうに」
およねは怪訝な表情をした。
「そうだ、そうだ。俺、一体何をいってるんだろな」
ごまかしたつもりだが、気が重い。
まったく、おれって、野郎は。
ひたいをポンとたたいた。
やっかいなことになったな、と思った。
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2012年03月09日
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母は、門口を出て、道に立っていた。
顔色が良くない。
何事かあったに違いない。
「遅かったじゃないの」
低い声でつぶやいた。
「ごめん。タロウが」
「タロウが、どうしたの」
声をあらげた。
「つまずいて、ころんだとたんに、鎖が手から離れてしまったんだ」
少年は、うそをついた。
初めての嘘だった。
嘘をつくな、と幼いころから言われ続け、
正直がほとんどに身についていた。
心臓の鼓動が聞こえた。
どくんどくんと、打った。
どうかなってしまうんじゃないかと思った。
嘘をつくな、と身体が訴えていた。
「探していたんだ。今まで。大変だったね。それならいいよ」
母は、おだやかな表情になった。
「何かあったの」
「さっき、おまわりさんが来てね。事件があったんだって」
「へえ、どんな」
「女の人が抱きつかれたんだって。犯人は、犬を連れた男の子だって言うんだよ」
ちくりと針で刺されたような痛みを胸に感じた。
さっと、顔から血の気が引くのがわかった。
母に悟られまいとして、うつむいた。
「お前もタロウを連れて行っただろ。ほんと心配したよ。おまわりさんには、
お前のことは何も言わなかったけどね」
「そうなんだ。ああ、お腹すいた」
少年は、話題を変えた。
わざと明るい表情で言った。
「早く手を洗って。仕度ができてるからね」
玄関は南側にある。
家の角を曲がり、チェーンを杭につないだ。
「やれやれ、やっと着いた。きょうのことは内緒だぞ、タロウ。絶対にな」
言葉を解さない犬に、少年は話しかける。
そうやって、自分自身を納得させた。
数週間、少年はびくびくしながら過ごした。
女は被害届を取り下げたらしい。
二度と、警官が訪れることはなかった。
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俺は化かされてるにちげえねえ。
吉べえはその場にすわりこんで、目を閉じた。
狐か、タヌキか。
化けの皮をひんむいてやる。
そう思って、吉べえは自分の頬をつねった。
「いててっ、こりゃ本物だぞ」
声をあげると、ぴたっと鼓の音がやんだ。
かすかに花の香りが漂った。
ふわりと、何かが頭にかぶさった。
「もし」
耳元で女の声がした。
おそるおそる、目を開ける。
「ひゃあっ」
吉べえは、後ろに倒れた。
女の顔が目の前だった。
「お前の願い、耳にとどいたぞえ」
「へっ、へい」
居ずまいをただす。
「聞き届けて、つかわす」
細くて甲高いが、女の声には威厳があった。
「ありがとうごぜえやす」
神様のお使いじゃ、と吉べえは思った。
かぶり物が頭にのったままだ。
「それを煮だすと良い」
「えっ、この薄布をですか」
「熱すると、すぐに溶ける。桜色にな」
「へえ、まことにありがとうございます」
「一枚では足りぬであろう」
「いかほど要りましょう」
「十枚かな。姫の着物じゃ」
「よく分かっていらっしゃる」
女は、こほんと咳払いした。
「こりゃ、どうも」
吉べえは、地に頭をこすりつけた。
「しばらく通ってくるがよい。決して、口外してはならぬぞ」
「そりゃもう。助かりました」
ザアアアッ。
ふいに強い風が吹いて、神社の木立を揺らした。
吉べえは、空をあおいだ。
顔を前にむけると、女はいなくなっていた。
「あれれっ。やれやれ、大変なものを見たわい」
かぶり物をとる。
「これが残っているんだもの、まんざら、幻でもあるまい。なんと見事な。
俺の腕じゃ、これほどには染められない。嘘か誠か、これで染めてみよう」
山犬が遠くで鳴いている。
「遅くなってしまった。およねに心配かけてしまったわ」
かぶり物をまるめると、たもとに入れた。
足もとを確かめながら、石段をおりる。
ほどなく家の木戸をくぐった。
土間は、明るかった。
「なんじゃ、まだ寝ていなかったのか」
「遅かったじゃありませんか。心配で、心配で」
「すまんすまん」
「何かあったんですか」
吉べえは、ちょっとためらったが、
「いや、別に何も。桜の木を見ておったんじゃ」
と、ぼそりとつぶやいた。
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