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一週間たつが、早苗からは何の連絡もない。
早苗が出て行った日。
すぐに携帯電話にコールしてみたが、つながらなかった。
それは当り前のことだと判るのに、一夫は時間がかかった。
こうなりゃ、早苗が頭を冷やすのを待つしかない、と覚悟を決めた。
今さら、ああだのこうだのいっても、言いわけにしか聞こえまいと思う。
実家にでも帰っているのだろう。
七十歳になる母親が、S市の田舎でひとり暮らしをしていた。
早苗がいなくなったのはチャンスとばかりに、
女はかいがいしく一夫の身のまわりの世話をはじめた。
すっかり、体調が回復しているようで、血色がいい。
ある日の夕刻。
テーブルを真ん中にして、ふたりが台所にいる。
「ねえ」
「なんだい、女店員さん」
「何なの、その言いかた」
ぷんと怒った表情をして、首を横にふった。
「だって、きみは、その・・・・・・」
一夫はしどろもどろになった。
「きちんと名前を呼んでほしいわ」
「名前って。持ってるのか」
一夫の声が大きくなった。
「そりゃあ、あるわよ。今まで遠慮して教えなかっただけよ」
一夫は、自分の頭をポンとはたいて、
「それは失礼しました」と答えた。
女は嬉しそうに、
「セラヴィっていうのよ」と胸を張った。
「セラヴィか。変な名だな」
「まあ、失礼ね」
「ごめん、ごめん。へええ、セラヴィか。フランス人みたいだね」
セラヴィはくくっと笑った。
「どうしたの。何かおかしいのかい」
「う、うん。思いだし笑いだから気にしないで。でも、かずお。よく知ってるのね」
セラヴィはふいに細い腕を組んで、天井を見あげた。
両眼を閉じる。
そういえば、横顔が外人っぽい。
「あのさあ、どんなこと思いだしてるのか、興味があるなあ」
強い視線を感じたのか、セラヴィは目を開けて、
「聞きたいですか」と、一夫に顔を向けた。
一夫は、こくりとうなずいた。
「セラヴィってね。フランス人はしょっちゅう口にする言葉なの」
「ふううん」
「いいことでも、わるいことでもセラヴィ、セラヴィってね」
「どういう意味なんだろ」
「これがあたしの人生さ、ってこと」
「自分の身に起きることをすべて受け入れるってことだ」
「そう、あたしだって。生前は・・・・・・」
「なに、生前がどうしたって」
やかんの口から湯気が出はじめ、すぐにピーピー鳴りはじめた。
セラヴィは立ち上がって、ガスの火を止めた。
ポットにお湯を注ぐ。
インスタントコーヒーを入れ、カップを一夫の前においた。
手が痛むのか蛇口をひねり、水で冷やしている。
なかなか人様と同様と言う訳にはいかない。
やけどをしやすいのだろう、と一夫は思った。
「熱いから、気をつけてね」
「やさしいんだね」
「そうでもないわ。あたしね、実は、生きてる時はフランスにいたのよ」
突飛なことを言いだしたので、一夫は目を丸くした。
「前世はフランス人だってことかい」
「まあ、そうなるわね」
「だったら、どうして眼鏡屋さんなんかに」
「向こうの勤め口がそうだったからかな。でもよくわかんない」
「飛行機で半日以上かかる日本まで、よくおいでだね」
「それも判らないわ。すべて神様の思し召しだから」
セラヴィは胸の前で十字を切った。
頭上がパアッと明るくなり、光の輪ができた。
一夫は見間違いではないか、と目をこすった。
次第に光の輪が淡くなり、そのうち消えてしまった。
「魂って、あるんだね」
一夫が重々しい声でいった。
「そうよ、フランス人は、みんな信じてるの」
セラヴィは当然といった表情をした。
「あっ、それはそうとね」
「どうした。何かあったか」
「今朝ね。洗濯ものを干してたらね」
「うんうん、それで」
「生垣の外に男の人がうろうろしてたの」
「どんな奴だ」
「紺のスーツを着て・・・・・・。鞄を持ってたかな」
一夫は思わず身を乗りだしていた。
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2012年05月09日
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