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見える。 その10

 早苗がいなくなって、一夫は困った。
 食事は、近くのコンビニで充分用を足すことができた。
 しかし、預貯金の通帳や印鑑等の所在がわからない。
 出て行く時に、ほとんど持ちだしてしまったのかもしれない。
 女房を怒らせたらこわい、と今頃になって骨身にしみてきた。
 給料日にもらった二万円が全財産だった。
 それもあと数千円残っているだけだ。
 仕方がないので、会社に無理をいった。
 中堅のインテリア企業の本社の部長にまで、一夫は上りつめていた。
 判りました、とすぐに都合をつけてくれたが、
 いったい、部長、どうされたんですか、と心配されてしまった。
 普段は横柄な口ぶりの一夫が、総務の格下社員に丁重に頭をさげた。
 しょうがない、これも俺の身から出たさびだ、と渋い顔だ。
 汗ばむほどに天気の良い休日。
 一夫は居間で新聞を読んでいる。
 「おい、今日はちょっと出かけてみるか」
 寝室のそうじをしているセラヴィに向かっていった。
 掃除機の騒音で聞こえなかったのか、彼女の返事はない。
 一夫が立ち上がった。
 腰をかがめているセラヴィの後ろにまわり、体を両手で抱いた。
 体をびくりとふるえ、「おおっ」と叫んだ。
 左手で掃除機をつかんだまま、右手をおおげさにふった。
 セラヴィは、最近ますますフランス人らしくふるまうようになっている。
 一番困るのは、言葉だった。
 前世の記憶がかなりよみがえったらしい。
 「眼鏡」のことにあまり頓着しなくなったところを見ると、
店員であることも忘れかけているようだ。
 あの眼鏡をかけなくても、一夫はセラヴィの姿が見えるようになった。
 便利なようだが困ったことだ、と思う。
 二日前、ご近所の女の人に見とがめられた。
 玄関で回覧板を手に持ったまま、
 「奥さま、最近お見えにならないですわね」
 「ええ、ちょっと。実家に帰っておりまして」
 「何か、ご用ですの」
 「母親がちょっと具合が悪いものですから」
 台所から足音が聞こえていた。
 「あら、どなたかいらっしゃるの」
 「ええ、知り合いが来てるので」
 一夫は顔を赤くして、防戦につとめた。
 あれは、降ってわいたような災難だったんだな。
 初めは鼻の下を長くした一夫だが、今は苦労ばかりであった。
 
 「何よ。あたし、今いそがしいの」
 セラヴィが居間のドアを開けて、つっけんどんに言った。
 ひたいに汗をかいている。
 「掃除はいいからさ。なっ、今日は外出しよう。いいお天気だし」
 「わたし、彼と行くから」
 一夫は耳を疑った。
 セラヴィの若さを考えると、フランス人の恋人に違いなかった。
 怒ることもできない一夫は熱心にさそう。
 セラヴィは、ついにウイッと答えた。
 ノンとかボンジュールくらいなら、一夫はわかる。
 細かなことはさっぱりだ。
 この先、まったく日本語をしゃべらなくなったら、と気が気でない。
 軽乗用車に大きな体を無理に押しこめた。
 セラヴィは窓を開け、ひじをかけた。
 「こんな小さな車じゃいやだわ」
 「そうだろうが、ちょっと辛抱してくれ」
 「いやよ。私の家はもっと大きくて、庭も広いわ。プールもあるのよ」
 言いつのるセラヴィの横顔を見つめて、
 「おまえな、今の立場をもう少し考えてみたらどうだ」
 と語気を強めた。
 急にセラヴィの顔色が変わった。
 赤ん坊が泣くように真っ赤になり、わけのわからないことを口走った。
 両手で自分の膝をたたいて、泣きはじめた。
 自分も怒りたい気分だが、一夫はこらえた。
 海辺近くの駐車場に車を止めた。
 一夫は先に降り、助手席のドアを開けた。
 「さあ、着いたよ」
 セラヴィは、降りようとはしない。
 プイッと顔を横に向けた。
 彼女をそのままにして、一夫は海辺に向かった。
 階段をおりて行く。
 ザクザクザク。
 歩くたびに、運動靴が砂地にめりこむ。
 砂浜がずっと先まで続いていた。
 白い入道雲が浮かんでいる。
 海はないでいるせいか、波がおだやかだ。
 小さな水音を立てて、打ち寄せては引いて行く。 
 一夫は靴が濡れるのもかまわず、水平線を見つめた。
 背後で足音が聞こえたので、「セラヴィ」と笑顔をむけた。
 早苗が立っていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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