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化身 その4

 M子はわざとひとつ向こうのイチョウの木まで歩いた。
 葉の色を濃くしている木々が人の姿を見えにくくしている。
 あたりをうかがうようにすると、M子はさっと木陰に身をひそめた。
 工場を囲んでいる高い壁に背中をくっつけてかがみこんだ。
 「よく来てくれたね」
 Bがすぐにそばに寄って、わきにすわりこんだ。
 ぷんとタバコが匂ったが、くわえてはいない。
 「な、なにかあたしにご用ですか」
 地面を見つめながら、緊張した面持ちでいった。
 「いやね、転勤してきたばかりで、この街に不慣れなんで」
 「そうでしょうね」
 しばらく、ふたりは黙ったままだった。
 「あたし、もう行かなくちゃ」
 M子が切りだした。
 「い、いちど、この街を案内してくれないかな」
 「私が、ですか。それでしたら、ほかにどなたでもおられるでしょうに」
 コツコツと足音が聞こえてきた。
 年輩の紳士がステッキを持って通りすぎていく。
 話声が聞こえたのか、ちらっと木影をのぞいた。
 ふたりそろって、下を向いた。
 何も話しかけられませんように、とM子は心の中で祈った。
 紳士はふふっと笑みを浮かべると、さっさと歩きだした。
 
 Bは、上気した顔をM子にむけて、
 「良かったなあ」といい、ふううとため息をついた。
 「ええ、ほんとに。良かったですわ」
 Bの本心からでた言葉に感動して、M子は答えた。
 互いの脚がふれあっている。
 「あっ、ごめんなさい」
 M子はあわてて、身をちじめるようにした。
 「君はかわいいね」
 と言いながら、Bは自分の手を、M子の手にかさねた。
 あっと小さく声をあげ、M子は手を引っこめようとした。
 Bはぐっとつかんで放さないでいる。
 M子の背中に右手をまわし、ぐっと引きよせた。
 意外な展開にM子の心は揺れ動いている。
 Bの熱い吐息が肩にかかった。
 M子は目をつぶって耐えていたが、「もうだめ」と叫んで、立ちあがった。
 BはうらめしそうにM子を見あげている。
 もう一度、M子はしゃがみこむと、
 「こんな所じゃ、これ以上は無理でしょ」と、Bの耳もとでささやいた。
 Bはわかったといった表情で立ちあがり、枝に手をのばした。
 扇形をした葉っぱを一枚つみとり、M子の手ににぎらせた。
 夕暮れがせまっていた。
 一羽のアゲハ蝶が道の向こうから飛んでくるのが見えた。
 何を勘違いしたのか、M子が手にしたイチョウの葉にとまった。
 「どうしたんだろうね、このアゲハ」
 Bが首をかしげた。
 M子がBの手をとり、にっこり笑った時、あたりの景色が急にゆらめきだした。
 アンテナを失くしたテレビ画像のように色を失くしていく。
 
 「M子さん、М子さあん」
 若い介護人、S子の甲高い声が遠くで聞こえる。
 M子は、まるで自分の体が湖の底から浮き上がって行くように感じた。
 ぶわっと水面にでた。 
 目を開けると、S子の顔がすぐ近くにあった。
 M子の手を両手で握りしめ、目に涙を浮かべている。
 「どうしたのよう」
 S子は叫ぶように言う。
 「なにが、・・・・・・」
 M子は、目をきょろきょろ動かした。
 「なにがって。いくら呼んでも起きないから、お医者様に診てもらっていたのよ」
 「そうなんだ」
 M子はにっこり笑う。
 「そうなんだじゃないでしょ、・・・・・・」
 白い服を着た中年男がM子の顔をのぞきこんで、
 「ああ、もう大丈夫です」といって、微笑んだ。
 「おばさん、良かったわね」
 いつの間に来ていたのだろう。
 姪が家族二人とともに部屋にいる。
 医師が、姪の肩をポンとたたいて、歩きだした。
 部屋の出入り口で手招きしている。
 姪のF子は急いであとを追った。
 廊下のソファにふたりで腰かけた。
 「だいぶ心臓が弱っておられるようです」
 眼鏡を指で上にあげるようにしながら、医師は
F子の耳もとで小さな声で言った。
 「今日のイヴェントに出ても大丈夫でしょうか」
 泣きだしそうな顔を、F子は医師に向けた。
 「それはオーケーです。でも無理は禁物ですよ」
 「わかりました。ありがとうございます」
 F子は何事もないような素振りで、
 「さあ、おばさん。お祭りが始まるわよ」
と、元気良く呼びかけた。

化身 その3

男女七歳にして、席を同じくせず。
女の方から男に対して、容易に口をきけない窮屈な時代だった。
同僚の視線も気になる。
M子は前を向いたまま、黙ってやり過ごそうとした。
二、三歩離れたところで、もう一度係長の声が聞こえた。
「仕事を終えてから、ちょっと会ってくれませんか」
機械の音にさえぎられて、ほとんど聞き取れない。
しかし、確かに男の肉声だ。
しぼりだしたような悲痛さがこめられ、M子の胸にビンビン響いた。
ひと眼見るだけだからと自分を納得させて、思いきってふり向く。
Bは真正面からM子を見ずに、横顔を向けていた。唇がふるえている。
上司の威厳をたもとうとしているのか、背筋をピンと伸ばし顎を引いていた。
きれいに髭をそって、青っぽくなっている口のまわりの肌が妙になまめかしい。
好感を持っていた男の必死の告白に、
M子はそれとなく頭をさげて、敬意をあらわした。
 
職場にもどり、糸にふれた。
隣にいたA子がそっと近寄り、「ねえ、ねえ」
と、耳もとによく動く口をよせてきた。
「何よ。うるさいわね」
M子は知らん顔をきめこむ。
案の定、気付かれたのだ。
「あの人、あんたに何ていったの」
人差指で肩をツンツンつついた。
それでもM子は素知らぬ表情をしている。
「ああ、あれ。何でもないわ」
仕方がないと応じた。
あらぬうわさを立てられるのは嫌だった。   
M子は仕事の手を休まないでいる。
「食事にでもって、誘われたんじゃないの」
A子は口もとに薄笑いを浮かべて、言いつのる。
「機械に身体を巻きこまれないようにって」
A子をぐっとにらみつける。
「何よ。ぬけがけは許さないから」
悔しいとばかりに、A子は糸を持つ手に力をこめた。
ブチッと鈍い音がした。
ゴ―と大きな音がしたかと思うと、機械がとまった。
工場の中にベルが鳴り響いている。
 
ふたりが事務所に呼ばれた。
工場長が怒鳴っている間、M子は頭をさげていた。
ふいに尿意をもよおし、
「すみません、ちょっと」と、頭をあげた。
鼻の下に長い髭をしの字にあげた年輩の男は、
おほんと咳払いをすると顎をしゃくった。
M子は小さい頃から叱られるとおしっこがしたくなった。
五歳だったろうか。用を足して紙で股をふいた時、妙な感じになった。
ジンと頭がしびれたのだ。
それ以来、怒られるたびに便所に行った。
もう少し大きくなってからだったろう。
真夏に掛け布団をかぶらずに、母のそばで昼寝をしていた。
右手が無意識に股間に伸びていて、
生えはじめたばかりのヘアをこすっていた。
母親が気づいて、激怒した。
仁王様みたいな顔をして、M子の手をはたいた。
今は何でも知っているから、母が怒った理由もわかる。
鳩だって、犬だって、くっつくんだ、と胸を張っていえた。
自然なことだと理解するのに、長い時間がかかりはしたが・・・・・・。 
就業のベルが鳴ると、M子の胸はどきどきしはじめた。
なんとか着がえを終えて、正門を出る。
同僚よりも遅く着がえをすました。
正門を通って行く。
足もとが地についていないようで、ふわふわしている。
上着が見えるわよ、と自転車に乗ったA子が素っ頓狂な声をかけて行った。
立ちどまってあたりを見まわすが、係長は見当たらない。
M子はほっとすると同時に、むしょうにさびしくなった。
門の前に道に沿ってイチョウの木が植えられていた。
「うっ、うん」
すぐそばの太い幹の陰で野太い声がした。
タバコの煙がただよっている。
M子は何気ない風をよそおって、その木に近づいた。   

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