けっさん文庫

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姿川 恋物語

 土橋高校三年一組は、もうすぐ最後の英語のリーダーの授業が終わる。
 剛は教科書を机に立てて持ち、顔を横にして居眠りをしている。
 教師が、教壇から下りてくる。
 
 隣席のユリが剛の左足を軽く蹴った。
 「いてえな。なんだよ」ねぼけている。
 「こらっ。おまえ、いい度胸してるじゃないか。おれの授業中に眠るとは」
 Yは、こわもての先生として、この学校では知られている。
 銀縁眼鏡の奥で、エモノを狙う虎のような目が光る。
 あああっ、見つかっちゃった。かわいそうに。どんな罰ゲームが待っていることやら。
 ユリは、義理チョコをあげるくらいの仲である同級生を気遣った。
 
 「剛、あとで職員室にこい」
 「はいっ」
 急いで立ち上がった。椅子が後ろに倒れた。大きな音が教室に響いた。
 どっと笑いが級友の間から起こった。
 「何にもおかしくない。静かに」
 しんとした。
 「だいじょうぶ、あたしがもっと早く注意してあげればよかったのにね」
 「ありがとう。気をつかってくれて。慣れてるさ。怒られるのは」
 学生服のほこりを払うように、両手でわきをポンポンとはたくと教室から出て行った。
 授業終了のチャイムが鳴った。
 
 職員室のドアの前で、一回深呼吸した。
 剛ほどの突っ張り屋でも、室内の雰囲気に圧倒される。
 内心の動揺を悟られまいと、気取った表情をつくった。
 両手で戸を開けた。
 職員たちが全員彼を彼を見る。
 後ずさりしそうになった。
 こらえた。
 たばこの匂いがした。
 あんたたちもおんなじ人間だ。年取ってるだけだ。
 健康増進法ができ、喫煙者は肩身が狭い。教師はなおさらである。
 俺はトイレの隅で吸う。
 先生は礼義正しくしてほしい。吸っているようなそぶりを見せないでほしい。
 俺たちには、口やかましく注意する。健康に良くない。未成年だ。やれ法律だ。
 身体や衣服に匂いがしみつく。喫煙していることは隠せない。
 
 Yは椅子にすわって、隣席の音楽担当のO先生と話している。
 剛は彼女に好感を持っている。
 職員の中では、美人で好感度ナンバーワンである。
 ちょっとやばいなと、思った。
 あいつだけなら、つっぱっていられるけどなあ。
 「せんせえい」
 「おおっ来たな。そばに寄れ」
 機嫌がいい。かえって気味が悪い。
 「受験勉強、夜遅くまでやってるんだろう。志学社の英語の成績が、前よりワンランクアップしていたぞ。だからといって、授業中眠っていても良いわけじゃないだろ。お母さん、お前のために懸命に働いておられるぞ」
 担任でもない。どうしてそんなことを知ってる。
 話しが分かり過ぎる。こわい。
 美人先生は、俺の顔を見て微笑んでいる。
 女神だ。
 今日はついてる。
 「おい、もう帰っていいぞ。気をつけてな」
 やつ、どうなってるんだ。こっちまで調子がおかしくなっちまう。
 
 ユリが校門わきの楡の木陰にいる。
 北風が彼女の長い黒髪をなびかせている。
 赤いマフラーを首に巻き付け、黄色の毛糸で編んだ手袋をはめている。
 自転車に乗った剛が通る。
 蛇行運転だ。荷台には鞄が見当たらない。
 ユリは彼が通りすぎるのを見ているだけである。
 こんなに早く、Y先生が許してくれたんだ。
 真西に向かう。
 街を東西に流れる姿川の土手に造られた遊歩道である。
 古代の貴婦人に似た優美な流れである。
 流域には古墳が多い。
 
 剛は五十メートルくらい走った所で自転車を止めた。
 「ありがとう。さよなら。またあしたな」
 振り返ってそう叫んだ。
 ユリは泣きそうになった。
 
 オレンジ色に輝きながら太陽が沈んでいく。
 万葉の時代に、はるばるこの地に赴任したミヤコビトは、どんな思いでこの雄大な夕陽を見たことだろう。
 「西日がまぶいぜ。アマテラスおお御神さま。今日一日ありがとうございました」
 いまどきの青年にしては、古いことを言った。
 
 

ヴィアラア 

 ビル街の向こうにかすかな茜色の光を放って陽が沈んだ。
 A私鉄のY駅周辺は、乗降客で混雑しはじめる。
 
 下り電車が着いた。ほぼ満員である。
 
 すり鉢状になった出口の底から、一人二人と階段をあがってくる。
 
 ひとりの青年が駆けあがってきた。
 二段目ごとに足を着いている。
 
 すり鉢の淵に駐輪場がある。
 
 茂は自転車を取り出した。
 
 今日の仕事はきつかったな。鉄パイプの長いのを何本運んだか、わからん。足場が悪い。危うく落ちるところだった。まあ体はボデービルで鍛えている。自信はあるが、気をつけなくてはな。下まで十メートルはある。もうすぐ俺は自分ひとりだけの体じゃなくなるし。
 
 公衆電話が駐輪場の脇にある。
 ひとりの若い女性が電話をかけている。
 
 出てきた。
 「おおい。和ちゃん」
 声をかけた。
 
 手を振っている。
 
 茂は息づかいが荒い。
 
 「鍛えているわりには、ハアハアいってるわ」
 「これくらいしょうがないだろ」
 「あたしこと乗せたら、あなた倒れてしまうかも」
 「そんなことないぜ」
 「あたし重いわよ。もっとも2人乗りはいけないから、乗せてもらえないけどね」
 「今度近くの公園で試してみよう」
 
 和子は微笑んでいる。
 
 A私鉄の高架橋をくぐる。
 幅が一メートルくらいの堀がある。
 茂は自転車を押している。
 和子は荷台に鞄をのせたまま歩いている。
 
 「匂うわ」
 ハンカチで鼻をおおう。
 「花の匂いなら、いいがな。ゴミだから。昔より少なくなっては、いる」
 「時々役所の人がさらうそうよ。ご苦労さまよね」
 「俺、なんだか変なウワサを聞いたんだけどな」
 「なによ」
 「この堀に猫の遺体がふたつ、捨てられていたらしい」
 「いやだわ」
 「それも惨たらしい姿だったらしい」
 「ペット好きの人が多いのに、どうしたって言うんでしょうね」
 
 和子は猫の姿を想像した。
 暗い顔をしている。
 
 「いやな感じだわ。だれがやったのでしょうね」
 「気味が悪いよな」
 「俺、ちょっと調べてみようと思うんだ」
 「やめてよ。そんなことにかかわりあうのは」
 「ケガでもしたらどうするの。あたしがいるのよ」
 「あぶないことはしないから、心配すんなよ」
 
 R消防署前まで来た。
 
 「じゃあ、あたしはここで」
 和子は路地に入って行った。
 
 玄関先で、手を振っている。
 二階造りの立派な家である。この辺りは裕福な人が多く住んでいる。
 
 茂の母は、交差点の近くで銭湯を経営している。
 父は、一昨年病気で亡くなった。
 
 茂は昼間は重労働だ。
 夕方から夜にかけては、母を手伝う。
 
 夜が更けた。
 
 A私鉄の下り最終電車が高架橋を渡っている。
 車輪の轟音が辺りにひびく。
 
 暑気は薄らいでは、いる。
 ムッとした臭気が漂っている。
 橋直下だけが、漆黒の闇につつまれている。
 
 ひとりの少年が高架橋下の道路わきに立っている。
 背に黒々としたものが、フワフワと浮かんでいる。
 右手に血糊の付いたサバイバルナイフを持っている。
 足元に猫の遺体がころがる。
 
 笑っている。
 
 笑いは顔から数分で消えた。
 
 何だってんだ。なんで俺はナイフを持ってるんだ。
 
 かわいそうに。
 猫が死んでる。
 
 どこかに埋めてやろう。
 俺、小さい時は、猫大好きだったんだ。
 おれがやるわけない。
 何かの間違いだ。
 
 交差点の方から自転車に乗って男が来る。
 
 逃げなくちゃ。
 
 ナイフを放り投げた。
 
 「待て」
 
 茂はスピードを上げる。
 
 高架橋下で降りた。
 
 堀沿いに追いかける。
 見失った。
 
 少年は暗闇に消えた。
 
 
 
 
 
 春は、あけぼのである。
 次の日、明け方に茂は夢を見た。
 それとも。
 まぼろしを見たのかもしれない。 
 夢を見ること自体が不思議なことである。
 半分は目覚めている状態であった。
 
 お不動様が、出て来られた。
 枕元に立たれた。
 あっと驚いた。
 「どうした。だいぶ困っておるようじゃな。自分を信じて、何でもやってみるがよいぞ。わしがついておる。先日は遠い所まで足を運んでくれて嬉しかった。体を拭いてもらって有難かったぞ。L市で起きている事は、まだ異界のモノが入りこんではおらぬ。思春期にいる子供は、危険な年頃じゃ。暗示にかかりやすい。思い込みが激しい。本当かどうか判断する能力が、大人のように充分ではない。読書すればいいのじゃが、面倒なことからは逃げたいのじゃな。テレビを見てばかりいるのも考えものじゃ。自分で考える習慣がつかない。コックリさんのような遊びが、子供たちの間で形を変えて始まったのだわ。不安な気持ちは移るもんじゃ。あくびが移るようにな。今は通信機材が発達しておる。ケータイとかいう手軽な電話器を、みんな持ち歩いておるようじゃな。それを使って、まあ弱い者いじめじゃな。不幸の手紙を次々にまわす。誰かに回さないと届いた人が具合の悪いことが起きるぞ。おどしじゃ。良い子は思い悩むじゃろ。茂よ。忙しいじゃろうが、しばらく生徒の間に入って様子をみたらどうじゃ。それからな。わしはもう元の場所におるぞ。仮の建物の中で如来様を守っておる。心配するな。お嫁さんにもよろしくな」
 午前四時半だった。
 茂は寝床から起き上がった。和子を起こさないようにそっと襖を開けた。
 ダイニングの椅子にすわった。
 手帳を取り出して、夢の内容をメモしている。
 和子も起きてきた。茂の隣にすわり、よく眠れなかったわと言った。
 「あなたこれからどうする」
 髪を両手でかきあげながら言う。
 「今朝がたお不動様がこられてね。いろいろ教えてくださったんだ。子供たちとしばらくいっしょに生活しなさいとおっしゃったよ」
 「ええっ。ほんとうに。ありがたいことだわ。助かったわね。しげる。どうすればいいのか悩んだもの」
 「うん。俺、お話を聞いているうちに、自然と涙が出てきたよ。ああそうかあ。そうすればいいのか。子供のそばにいるには、代用教員として入ればいいなと思う。その形が一番だ。生徒が話し易いしね。Kに連絡して承諾がとれればいいな。文部科学省の管轄だよね。もちろんL市の採用試験を受けるよ」
 「偉いわ。その意気よ。子供たちが心を開いてくれるようにしてあげてね」
 
 大学を出たばかりの若い人たちに混じって、試験にのぞんだ。
 幸いなことに合格した。
 任期は翌年の三月まで。一年間である。
 「しげる。よかったわ。今晩はお祝いね」
 「Kの援助もあったが、俺は必死で作文の勉強をしたからな。和子に漢字を教えてもらったしね。面接は大丈夫だと思ったけど。よく受かったと思うよ。俺みたいに勉強ぎらいがなあ。お不動さまのおかげかな」
 「そんなことないわ。一所懸命だったからよ」
 「この土曜に、お礼詣りに行ってくるよ」
 「私も行くわ」
 
 あの火災から半年あまり経過している。
 新しい建物が、ほとんど完成していた。夜を徹した作業の甲斐があった。
 人々の熱意のおかげである。
 匂いたつ木像のなかに御心がおられる。
 ふたりは、真心こめてお礼を言った。 
 いかめしい顔つきがふっとゆるんだ。
 茂は、この三十年間に起こった十代の少年少女による自殺や他殺事件を、詳細に調べてみようと思った。
 予知能力に秀でた茂ではあるが、異界のモノがつけいる隙を与えているのは、人間にほかならない。
 社会は人の集まりにすぎない。社会が悪い。
 そう批判する余地があるとしたら、どこが具合が悪いのか、詳しく検討する必要があった。
 
 図書館通いが始まった。元来勉強はあまり好きではない。
 英語や数学が苦手だなんて、簡単なことではないのだ。
 人の命がかかっている。
 茂は、一所懸命だった。 
 
 Kの指示どおりにL市にいった。
 茂の住んでいる所から、電車を乗り継いで一時間あまりかかった。
 都に隣接するベッドタウンである。高層住宅が多い。
 最近犠牲者の出たA中学校を訪ねた。二年生になったばかりの女子が飛び降りていた。
 教頭さんが応対してくれた。
 「どうもお忙しいところを時間をさいていただきましてありがとうございます」
 茂は丁寧にあいさつした。
 「ああどうも。ごくろうさんです」
 茂が印刷されたばかりで、墨の匂いがする名刺を差し出した。
 「教頭のEです。お世話になります」
 
 E教頭は初め、茂をすんなり受け入れられないようだった。
 それは、そうだと茂は思った。
 科学的方法によって、世界を認識することを学校で子供たちに教えているのだ。無理もない。
 超能力に関する分野についての世間の認識は、まだまだである。昔じゃ変人扱いされた。
 ましてや異界のことなど、夢の世界のことと思われている。何しろ見えないものである。
 有るのかないのか、分からない世界が相手である。
 潜在能力による未来予知。ひらめき、夢の知らせ、胸騒ぎといった分野の研究は、ようやく世界の大企業ではじまったばかりである。売上げをのばすためではあるが、画期的なことである。
 
 「何かこれといった理由がありましたか。その子には」
 「慎重に担任と学校での問題点を洗い出してみました。確かに複数の他の女子生徒から机にらくがきされたり身のまわりの物を隠されていたようです。でも特に悪質ないやがらせではなかったようなんです。ご存じでしょうが、今は昔と違って非常に荒い行動が表面に現れるようになりました。三十年くらい前は、思春期にありがちな悩みが原因で自殺に走る子がいました。子供なりに懸命に考えたのです。親に心配かけたくない。なんとか自分だけで解決しよう。親の前で必死に良い子を演じ続ける子がいました。それが力尽きて、もうだめだ。どうしようもないと。sosを事前に発信していまいた。それをキャッチしようと、若い私は努力しました。勤務時間を忘れて、相談に乗ってやりました。ところが、十年ほど前にF県で、注意した女性教師を、男子生徒がバタフライナイフで刺殺する事件が発生しました。血があふれだすのもかまわず、何度も突き刺したのです。すぐ後で動かなくなった遺体を見て我に返ったようなのですが。私ども教えるがわは、この事件を厳粛に受け止めました。生徒が変わった。そういうふうに認識いたしました。残念なことですが。それなりに我々としても対応せざるを得なくなりました。持ち物検査などやりたくありません。身を守ることをまず考えなくちゃならなかったのです。どういうわけか、すぐカッとするのです。言葉が荒くなりました。ぶっ殺す。ポンポンそういった言葉が口から飛び出します。こう言ったら、こうしたら相手はどう思うか。そういうことをまったく考えていないのではないかと、断定せざるをえません。テレビを見る。ゲーム機で遊ぶ。本を読まない。要するに何も考えないということです。心に襞がなくなります。ツルンとしてしまいます。何をしても悩まなくなります。これは恐ろしいことです。殺人ゲームなど間違ってもやらないでほしいものです。死ぬということがどういうことか、よく考えない子になってしまうのではないでしょうか。我々は今、無力感にさいなまれています」
 Eは今までの思いを吐き出すように言った。
 
 正直な先生だと、茂は嬉しくなった。
 「率直なご意見ありがとうございます。とても参考になります」
 女の方がお茶をいれてもってきてくださった。 
 ふたりで一息入れた。
 「教頭さん。可愛い子供のためですから、私も及ばずながら全力を尽くすつもりです。互いに手をとって事にあたっていきましょう」
 Eは顔が紅潮している。目に涙をためている。
 良い人でよかった。この人なら親が子をまかせられる。
 茂はいいパートナーで良かったと安堵した。
 子供を亡くされた親御さんを訪ねるのは気がひけた。
 先生やKから聞けばいいことだ。
 今日はこれで帰ろうと茂は思った。
 
 夕方アパートの階段を上った。
 和子はすでに帰宅していた。食事の用意をしている。
 換気扇が今日のおかずを教えてくれている。
 「ただいま」
 「あっ、お帰りなさい。足取りが重いんじゃないの」
 「そうさ。真剣だもの。今日訪ねた学校の教頭さんが良心的な人でさ。ふたりして初対面で意気投合したよ」
 「よかったわね。そんな方がいらっしゃって。真心でぶつかってね。みんな傷ついていらっしゃるんだから。遺族の方の気持ちを充分すぎるくらいに配慮してあげてください」
 「うん。あっ、先生。よくわかっています」
 いつもより元気がない。
 奥の間に入るなり、茂はごろっと横になった。
 天井を見つめている。
 これからの困難を思った。
 弱きになりそうな自分がいる。
 追い詰められている子供の心を思いやる。
 思い直す。 
 何が彼らを追い詰めているのか。 
 なんとか子供を助けてやらねばと、決意を新たにした。
 大人の責任だ。 
 和子が静かに襖を開けた。
 お盆にコーヒーカップが載っている。
 香りが漂っている。
 茂は疲れが少し取れたように感じた。
 
 和子も茂の隣に横になった。
 

姿川 恋物語 旅立ち

 春雨が降っている。
 A駅に近い喫茶店に、剛はいる。
 午後一時に来た。 
 通りを見渡せる窓際にすわっている。時折チラッと道行く人を見つめる。
 傘を差しかけているせいで、顔がよく見えない。
 左手を顔の前にかざす。時計を気にしている。
 ホットコーヒーを一杯頼んだきりで、約一時間ねばっている。
 
 おもちゃの子バトが小さな扉から出て、二時を知らせた。
 本棚から文庫本を一冊借りてきて、ほとんど読み終わるところである。ミステリーものがお気に入りである。
 クラシックの曲が流れている。ゆったりした旋律だ。
 右足を小刻みに震わせている。いらいらし始めたのだ。
 「剛ちゃん。遅いね。待ち人来らずってとこだ。あしたは卒業式だね」
 マスターがカップをふきながら話しかける。
 剛はにやっとするだけで応えない。ポケットから小型のゲーム機を取り出した。
 マスターはうつむいて、洗い物を片づけている。 
 先ほどまで店は混んでいた。七百円の卵と野菜のランチが若い人に好評である。
 今は剛ひとりだ。
 
 チャリン。チャリン。
 鈴が来客を知らせた。
 若い女性が剛のそばに立った。
 剛はゲームを楽しんでいる。彼女を見上げようとしない。
 マスターが助け舟をだした。
 「うううん。うん。あれっ喉が変だ。花粉が飛び始まったかな。つよし」
 クシャン。
 剛だ。
 すまなそうに立っていたユリが笑っている。
 
 「剛ごめんね。あしたのために美容院へ行ってたのよ。混んでいたわ。連絡もいれずに本当にすみません」
 剛が前の席を指差した。
 ユリはすわった。
 「しょうがないよね。女はたいへんだから」
 「どうこれ。気にいってくれる」
 学生の身である。大胆なヘアスタイルにはできない。
 「まずまずっていうところかな」
 「大学生になれば、いくらでもおシャレできるもの。楽しみにしていてね。剛のためにきれいになりたいの」
 「ふううん」
 マスターが冷やかす。
 「おいおい。おふたりさん。お安くないですね。俺独り者なんですよ。そうだ。卒業のお祝いだ。ケーキをごちそうしてあげよう。ユリちゃんも剛も、励まし合ってよく合格したよな。俺人ごとながら嬉しくって」
 マスターは、目に涙をためている。
 
 優しい人柄が客を集めている。
 「ユリちゃんは、S女子大だって」
 「そうなの。文学部よ。ほんとは同じ大学に入りたかったんだけどね。剛はМ大の商学部よ。商社マンになりたいっていうのよ。それほど離れていないわ。都内は交通の便がいいしね」
 「ほんとに仲がいいんだね。今の気持ちを忘れないようにしなさいね。縁があって、今ここにいるわけだからね」
 「ご縁って」
 「そうだよ。若いから、なんだって自分の力で未来を切り開いていってるように思うだろうけどね。俺くらいの歳になると、すべてこの世のことは初めから決められていたなんて思うんだ」
 「マスターの人生哲学だ」
 剛が賛成した。
 「マスターありがとう。ご厚意は忘れません。色々教えてくれて感謝しています」
 マスターは、カウンターにポトポト涙をこぼしている。
 「剛にそんなふうに礼を言われたの初めてだ。感動しちゃったよ。悪ガキだとおもってたけど」
 はいっと、ハンカチをユリが差し出した。
 「還暦近いと、涙腺がゆるむんだなあ」
 目頭をおさえた。
 「それから親御さんを大切にするんだよ。ここまでに育てるのは大変だったんだから」 
 
 マスターが、ケーキと紅茶を二つずつ運んで来た。
 「おいしいわ。手造りね」
 「こちらにいるうちは、暇があればおいで」
 「大学に行っても来るよ。ふたりのお気に入りの店だもの」
 「そうよ。そうよ。それじゃ前途を祝して乾杯よ。マスターが音頭とって」
 「おふたりさんの将来の幸せを祈って、乾杯」
 「マスターの幸せにも、乾杯」
 剛とユリが声を合わせた。
 
 
 

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