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夕陽が沈んでいく。
遠くに小さく富士の山が見えている。
赤く染まっている。
空気が澄んでいる。
春先にしては、めづらしい。
一郎は駅に降り立った。
アパートのドアを開けた。
陽子が立っている。
「あんた、遅かったじゃない。どこにいってたの」
「パパ、パパ。おかえんなさい」
穂の香が、茶の間からかけてきた。
抱き上げる。
一郎に残り香がしている。
陽子は気付いたが、娘の前ではと、思った。
娘が寝息を立てている。
「あんた、何かあたしに隠してることがあるでしょ。正直に言ってください」
一郎は動揺する。
「なっ、なんのこと」
「言わないでもわかるわ。だれの匂いかしら。プンプン匂ってるわ」
下を向いた。黙っている。
口を開いた。
「ちょっと気晴らしに、行きつけのバーに行ってきたんだ」
「そう。それにしては、匂いが強い。そばで長い時間いっしょにいたのね」
「むかしなじみの店の子だからさ」
「まあいいわ。でも深入りしないで。そんなとこへ行くお金があったわね」
「パチンコをやった。十万くらい勝った」
「それ生活費にまわして。ちょっと今月苦しいの」
一万円札を三枚、陽子に渡す。
大穴だった。三十万勝った。ほとんどホテル代に消えている。
一郎の手が震える。
内心の動揺を悟られまいとする。しかし、体は正直である。
「これだけあれば、おかずがいっぱいかえるわ」
うれしそうだる。ヤリクリをしてみるといい。夫は妻の苦労がわかる。
夫への不信の念が、どこかに消えてしまった。
人間は哀れである。
一生くっつくものは、くっついている。悪癖は容易に直らなかった。
休日になると、一郎は出かけた。
ピンポンピンポン。
戸口に誰かが立っている。
一郎が応対する。
以前店の同僚だった男だ。借金をとりに来たのである。
朝早く電話があた。
「今回はこれだけにしてくれ。こんなに遠くまで、よく来るよな」
女房の目の前である。虚勢をはった。
「全部返してもらうまで、来るよ」
能面のように、表情を変えずに言う。
陽子は食器を洗いながら、ふたりのやりとりを聞いている。
一郎は生さばを一本、新聞紙に包んだ。
これっと言って、渡した。
穂の香が歩いて来た。
「かわいいお嬢ちゃんですね」
男が、土産の菓子を手に持たせた。
「すまんな」
あとの金はチャラにする。この子を大事に育ててください」
帰っていった。
「まだ借りてたのね。もうないと、言ってたのに。あんたが信じられない」
涙をこぼしている。
しばらくして、別れた。
娘は、陽子がみることにした。
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けっさん文庫
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お話をいろいろ書いています。
ご自由に読んでください。
お気に召したら嬉しいです。
ご自由に読んでください。
お気に召したら嬉しいです。
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街の東部を鬼怒川が流れている。
那須連山に源流があり、九尾の狐伝説で有名な那須野が原をよこぎる。
そのほとりのアパートに、陽子は三歳になる娘と三人で暮らしている。
山をのぞむ見晴らしの良い場所である。
冬は、寒風が強く吹く。
一郎はそれをいやがった。
寒がりだ。
木々を吹き抜ける風の音もきらいだと言う。
男のくせに、ナイーブな性質だと、陽子はあきれる。
陽子は店をやめた。
夫婦で同じ職場にいるのは、イヤダと言い張った。人間関係がむずかしい。
女同士がとりわけそうである。
夫がけっこうな給金をかせぐ。店長とあまり変わらない。
それで充分にやっていけると、思ったからである。
私は育児に専念するわ。あんたは、あたしの分までがんばってね。
一郎は娘にせがまれ、河川敷にある公園に出かける。
あまりうれしそうではない。子供が好きではない。結婚当初、そう言っていた。
陽子は、娘が大きくなれば、かわいがってくれるだろうと、思っていた。
穂の香が、遊具に夢中になっている間、夫はひとりベンチに腰かけている。
短波ラジオに耳を傾けている。
初めは何を聞いているのか、わからなかった。
陽子は温室育ちのところがあった。若いせいもある。世間のことにうとかった。
ただひとり、家族の中で厳しかった祖母は、昨年他界した。
「陽子ちゃん、しっかりね。いつもあたしは、あんたのそばにいるからね」
最後の言葉を忘れない。
四年目の春。
大川沿いの桜は、ようやく蕾がふくらんできている。
ある休日、一郎は鉄橋を渡る電車の中にいた。
ひとりである。
座席にすわり、新聞を拡げている。
赤えんぴつをポケットから取り出した。
芯をなめながら、しきりに記事のわきに線を引いている。
馬の写真がいくつか見える。
半時間後、一郎は市営の競馬場の見物席にいた。
すぐ隣に女がいる。陽子より若い。
「今日の最初のレースは、大穴が出そうよ」
「そうかな。俺の予想だと、一着はヨサノクライアントだ。最近伸びてきている」
「そうね。あんたのは、よく当たるからね。あたしもそれに賭けてみようかしら」
「当たれば、ホテルに直行だ」
彼は、にやけている。
スイートルームで可愛がってやるからなと、耳うちする。
女は頭を傾け、ウフッと笑った。
いやね、いっちゃん。
情事を思いだしたのか、目が潤んでいる。
右手を彼の腰にまわした。
「気が早いぜ。お楽しみは勝負のあとだ」
勝った。思惑通りだった。
「特上のごちそうだ。最高級の部屋でラブラブだ」
「わあ、うれしい。もう最高」
食事を終えた。
部屋に入るなり、女の身に付けている物を脱がし始める。
「ちょっと待ってよ。やさしくしてね。あわてんぼうなんだから」
「ムードが大切なの。あせらないで」
「灯りを消してちょうだい」
女は、夢見ごこちで、一郎の重みを感じていた。
「またね。連絡して」
機嫌が良かった。
ドアを出た所で右と左に別れた。
もうひとりの一郎を、陽子は知らなかった。仕方のないことだった。
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岸に着いた。
舟に付いている縄を岸の杭に結わえた。
「気をつけろ」
「はい」
陸にあがった、久しぶりだ。土を両足で踏みしめる。
いい感触だ。
一時は溺れ死ぬことも覚悟した。ありがてえ、ありがてえ。
神様、ふたりの行く末を見守っていてください。
俺がどうにかなっても、お蝶だけは助けてやってください。
土手を下りた。
白い煙が一軒の農家の煙突から出ている。
朝食の用意をしている。
「あの家の者に頼ってみる。とりあえず、何か温かいものを食べなくちゃ、体が持たない」
「いいか。お前は黙っていていいからな。俺が話をつける。少し銭をやれば大丈夫だ」
お蝶を離れた所に待たせた。
仁吉は戸口に立った。
トントン。
木戸をたたく。
こんなに早く人が訪れることは、めったにない。町から遠く離れた辺鄙な所である。
来るとしたら、岡っ引きが御用の筋でと、やってくるくらいである。家の者は用心した。
出てこない。様子を見ている。もう一度たたいてみる。
ドンドン。ドンドン。
足音が近づいてくる。ようやく開ける気になったようである。
「へい、どなたさんで。こんなに早く。何のご用でございましょう」
「ちと道に迷って困っている者でございます。体が冷えています。なにとぞ火のそばに寄らせてくださいませ」
「どこからいらしゃったのかね。この辺りには街道がないわけじゃが」
「わけあって、舟で大川を下ってまいりました」
「ここまで来るわけじゃありませんでしたが、途中寝入ってしまい、はるばるとまいったしだいでございます」
自分ながらうまくやりとりするなと、仁吉は思う。今ひと押しだ。
中でつっかい棒を外す音がする。
戸が開いた。
「さあ、どうぞ」
招き入れた。
この家の主人又吉だ。今年還暦を迎えた。長年の農作業で疲労の色が濃い。
見慣れぬよそ者を警戒するのは当然である。
「それはお困りじゃろう。どこから来られたんじゃ」
「館林からです。茂林寺にお参りして、小舟で下手にある家まで戻ろうとしたんですが、酒がまわりすぎたのか、寝込んでしまいまして」
「それはひどいめにあわれたのう」
「おひとりかい」
「連れがおります。女連れです」
仁吉は、正直に答えた。
一瞬又吉は怪訝な表情をうかべた。木戸を開けた時に助けてやろうと決めていた。
どんな事情があるのか知らないが、こうして頼ってきている。追いはぎ、盗賊のたぐいではなさそうだ。見れば堅気の町人さんだ。余程の事情があるに違いない。迷い犬にだって、情けをこの人はかける。村でも情けの深い男でとおっている。ふたりは運がよかった。番所に走られたら、それまでだった。
仁吉は幻覚を見た。
又吉の背に何かフワフワした物が浮かんでいる。しだいに形をとり始めた。
天狗に似てきた。顔がはっきりする。
からす天狗様だ。お助けくださった。
心の中で礼を言った。
又吉は奥に向かって声をかけた。
「おとら。メシの支度だ。温かいものをおだししろ」
「助かりました。恩にきます」
「外は寒い。早くご新造さんを中に」
仁吉は外に出た。
納屋のそばにいるお蝶の手をとった。
冷たかった。
「寒かったろう。もう心配はいらねえ。主人はいい人だ。わかってもらえた。茂林寺詣りということにしてある」
「よくわかってもらえたね」
仁吉に抱きついた。
「さあ行こう」
お蝶は、御高祖頭巾をとり、木戸をくぐる。駒下駄が汚れている。
身なりが気にはなったが、仕方がない。非常時である。
又吉は、どこかの商家のお嬢様だとすぐわかった。さすがはご隠居様である。
余計なことは言わずにおこうと決めた。
「ささこちらへ。むさいところじゃが、温かい雑炊くらいはおだしできる。いっぱい食べてくれ」
「ありがとうございます」
主人に向かって、深々とお辞儀をした。
難儀しているところをお助けいただきましてと、言った。
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「話があるって何よ。早く言って。わたし、忙しいのよ」
屋上の天体観測所わきに、祐二と宏子が向かいあっている。
「くっ、靴の中の手紙読んでくれた」
「何のこと、わからないわ」
「知らないなずないよ。確かに入れたんだから」
祐二は、教室で明るくふるまう宏子が好きだった。
一年間思い悩んだ末にようやく決心して、告白したのである。
内気な性格の祐二は、彼女を意識すればするほど、彼女の前では押し黙って行った。
「急にそんなこと言われても、困るわ。今まで満足に話もしなかったじゃないの」
宏子は、回れ右をして昇降口の階段に向かって歩きだした。
放課後の校舎は人影がまばらだった。時折、運動場から野球部員の掛け声が聞こえてくる。
祐二は必死に追いかけた。
右手を彼女の肩に置いた。しっかりつかんだ。
「本気なのね」
振り返らずにポツンと言った。
祐二は後ろ向きになった彼女の体を抱いた。柔らかな乳房の感触が伝わった。
あっと言って、すぐに手を放した。
赤面した。
宏子が振り向いた。
笑っている。両目を閉じた。
祐二は胸の鼓動が高まるのを感じながら、宏子の唇に自分の唇を重ねた。
「もうすぐわたしたち卒業ね」
「早いものだね、三年間なんて」
二月の上旬。土曜日の放課後、ふたりは運動場の土手にいる。
並んで両足を投げ出してすわっている。
頬をなでる風は冷たい。宏子は地元の看護学校に進むことに決まった。
祐二は先生になりたかった。家庭の事情で私立大学へは行けない。地元の教育大学に進めればベストだが、数学が苦手だ。関東地方にある公立大学に補欠合格していた。
「このまま離ればなれになってしまうのね。あなたは遠くへ行ってしまうわ」
うつむいたままで、枯れ草をいじっている。
祐二は宏子のそばに寄り、キスしようとした。
顔を近づけると、プイと横を向いてしまった。
「まったくもう子供みたいなんだから。以前からこの事は、よく話してきたわけだよ。経済的な事情で浪人はできない。卒業したら、必ず戻ってくる。待っていてほしい」
「四年間よ。うまくいっても。いい人ができて、わたしのことなどすぐに忘れてしまうわ。兄の事だって気にかけているんでしょ」
涙声になっている。
「兄さんは、真犯人が現れて、すぐに釈放されたんでしょ。僕は気にしていないよ」
祐二はむりやり彼女を抱き寄せた。肩をさすった。
下校をうながすチャイムが鳴った。
宏子は立ちあがり、スカートについた枯れ草をはらった。
表情が晴れやかになっている。
見上げると、前方に新緑の若草山がある。
その山裾に大仏殿の瓦屋根が、四月の陽光を受けて輝いている。
公園のベンチにふたり並んですわっている。すぐ前に鹿の親子がいる。
生え始めたばかりの草を食べている。
高校を卒業してからたちまち五年たった。祐二は山梨に、宏子は地元にと別れ別れになったのが、かえってふたりの心に緊張感を持たせ、恋愛をまっとうさせた。
「久しぶりに見る景色だよ」
「やっぱり故郷はいいでしょ」
祐二は立ちあがり、両手を拡げて大きく息を吸い込むと、ゆっくり吐き出した。
「学生時代の彼女を思いだしていたんでしょ。ほんと油断もすきもありゃしないわ」
「そんなんじゃないよ」
いきなり彼女を抱き寄せた。
香水がにおう。
「ちょっと待って、匂うわ」
「一週間風呂に入っていません」
「ええっ」
祐二は、高校を卒業した頃にくらべて、随分やせている。眼光が鋭く目が落ちくぼんでいる。ひとり暮らしをしていたせいもあるが、ヘルメットとゲバ棒を持ったことがある。
「人のために自分を犠牲にするって言うけど、とんでもないわ。人のいいのもいい加減にしてちょうだい」
宏子は、祐二を見ているうちに腹が立ってきた。
「たくさんおいしい物を食べさせてあげるわ。わたしこれでも看護師よ」
「ごめんな。先生になれなくて」
「いいの。ふたりで堅実な生活を築いていきましょう。あなたさえいれば、いいの」
鹿の親子にふたりでせんべいを買い与えた。
「鹿は神様のお使いよ」
春日大社から興福寺にぬける参道を腕を組んで歩いた。
猿沢の池に続く石段を、昔の辛い想い出を振り払うかのように、ひとつふたつと数えながら下りて行った。
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四月、新学期が始まった。
午後三時を過ぎると、校舎の谷間は、陽射しがとどかない。
三月よりは、天気が安定している。それでも先日は雪がちらついた。
桜の花が咲いている。
ある日の放課後、校庭のベンチにE子がすわっている。
ベンチはふたつ、向かい合わせに置かれている。
そのまわりにハナミズキやポプラが植えられている。
すぐそばに職員室がある。
五メートル向こうには渡り廊下がある。
E子の姿は、植木の陰である。
両手で何かを持っている。
ケータイをいじっているのだ。
左手でケータイを持った。
右手の人差指で打ちはじめた。
この手紙は不幸を運びます。届いたらすぐに誰かにまわしてください。
さもないと、あなたに困ったことが起きます。
ケータイの番号を知っていた親友のA子宛てにメールを送った。
おふざけよ。冗談。冗談。まともに受けないで。
E子は、心の中でそうつぶやいた。
言葉は発信されたとたんに、ひとつの物体として、独り歩きをはじめる。
言霊が宿るのだ。
彼女はそのことを自覚していない。
渡り廊下を茂が歩いている。
樹木の間に人影を見た。
あんな所で女の子がいる。何をしているんだろう。
背に灰色の雲のような気体が漂っている。
おかしい。何だあの雲のようなものは。どうもオーラにしては、色が悪い。
彼は、敏感である。
弱いが、不審な電波が発射されたのを、見逃さなかった。
廊下から外れて、ベンチに向かった。
「こんにちは」
「あっ、先生。どうも」
「ひとりなの。気持ちがいいねえ、春は。先生は人一倍寒がりなんだ」
「そうなんですか。先生は私たち三年一組の副担任ですね」
「そうだよ。B先生の助手みたいなものだ。よろしくね」
「はい、こちらこそ。よろしくお願いします」
E子が校庭から去った。
灰色のオーラは彼女にかかったままである。
うううん。要注意人物だな。
教頭に話しておこう。相談室のスタッフと会議を持たなくてはなるまい。
四月から悩み事相談室を、非公開で始めることになった。
茂が室長である。
保健のH先生が補助してくださる。
保健室で相談を受け付けることになった。
公にすると、いじめがひどくなる恐れが、あるからである。
今は、昔とはイジメの性質がまったく違う。
些細なことでいじめられる。
昔は、ここまでだ。それ以上やるな。かわいそうだ。
子供の間で暗黙の了解があった。
それがまったくない。
トコトンいじめる。泣いたってわめいたってかまわない。
思いやりのカケラさえ、見当たらない。
標的にされた子供は、逃げ場がなくなるのだ。
メールはA子に届いていた。
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