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五月の最初の日曜日。
Т寺の東門で宏子と待ち合わせた。
祐二が墨造りの仕事をはじめてから、ほぼ一カ月たった。
体の筋肉が仕事向きになっている。
ひきしまってきた。
楽に練り仕事がこなせるようになっている。
朝早く起きた。
午前五時である。
家族は、まだ眠っているはずだ。
二階の階段をゆっくり降りる。
台所のガラス戸を、音をたてないように開ける。
母がいた。
コーヒーの香りが漂っている。
「おはよう。母さん、起きていたんだ」
「だって、今日は宏子さんと会うんだろう」
「あれ、どうして知ってるんだろ」
「半月くらい前、夕食をみんなでとっている時に、お前嬉しそうに話したじゃないか」
「よく覚えていてくれたね。ありがとう」
「お弁当をこしらえてやろうと思ってね」
「そうなんだ。世話かけるね。いつまでも。学生の時までで、たくさんなのに」
「性分だから。大和おんなの深情けだよ」
祐二が椅子にすわった。
コップから湯気があがっている。
皿に食パンがふたきれ、のっている。
バターを付けた。
少しちぎって、口に入れる。
「宏子さんも、何か用意してくると思うんだ」
「それはそれで、食べればいいんじゃない。まずは、宏子さんの物をおいしそうにいただくんだよ。それから母さんがつくったものに箸をつければいい。おにぎりにしたからね」
「なるほど」
「大切な人なんだからな。宏子さんは。お前みたいなゴンタさんには、過ぎた相手だ」
「うん。そう言われると、返す言葉がないなあ」
「お前はあの人とつき合ってから、人が変わった。真人間になった。宏子さんは、お前にとっては観音さまだ。泣かしたりしたら、承知しないからね」
「おお、こわ」
コーヒーをすすった。
「ああ、おいしい。そろそろ出かけるかな。夕べのうちに釣りの用意はしておいたし」
「どうやって行くの。Т寺の近くまで」
「歩いていくさ。小さい頃を思い出しながら。おじさんと魚取りに行ったもの。ドンドン滝の下で四つ手網をつけたり、二時間もかけて、大和小泉まで釣りに行ったりしたよ。秋篠川は、ぼくのものさ」
「そうだね。弟はお前のことを可愛がってくれた。結婚式にはスピーチを頼もうか」
「ちょっと気が早いんじゃない。じゃあ行ってきます」
「夕食はどうする」
「どこかで食べてくるから心配しないで」
「気をつけてな」
大川の土手に出た。
川に沿って南にくだる。
犬を連れた人に出会った。
「おはようございます」
「おはようございます」
知らない人との挨拶が楽しい。
川岸は、よく整備されている。
すでに釣り糸を垂れている人がいた。
道を外れて、そばに寄った。
隣にしゃがむ。
低い声で尋ねた。
「どうですか。釣れましたか」
ウキがぴくぴく動いている。
目が放せない。
グーと水中に引っ張りこまれた。
サッと竿をあげる。
手ごたえがあった。
ウキが右、左に動きまわる。
男は冷静だ。
弱るのを待っている。
竿を立てたまま、鯉を引き寄せる。
鯉が水面をすべるように、近づいて来た。
左手で網をもつ。
すくった。
口にひっかかった針を抜いた。
体長が一尺はあった。
両手でしっかりと掴んで、頭の方からビクに入れた。
「もう大丈夫やさかい。話してもええ」
「大物でしたね」
男は微笑んだ。
「あんたも頑張れ」
「ありがとうございます」
宏子が、待ち合わせ場所に来ていた。
「おはよう。早いんじゃないの」
「楽しみにしていたの。夕べは、お弁当を作ったら、早くやすんだわ」
「ほら、家の母さんの弁当」
「あら。困ったわ」
「困ることないって。ちゃんと母さんにふたりの弁当の食べ方まで、教わってきたから」
「へえ、驚いた」
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絆シリーズ
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一本の墨。
これひとつ出来上がるまでには
多くの人の手がいる。
時間がかかる。
機械に頼っても一年。人手だけでは、もっとだ。
菜種油をひたしたランプに火をともす。
がんぶりと呼ばれる蓋の中のガラスに付着する煤を集める。
粒子の細かい煤をえらぶ。
にかわで練り固める。
にかわは、動物の皮や軟骨を煮てつくる。
独特の匂いがある。
香料を混ぜて匂いを抑える。
祐二の勤める会社では、古墨を主に造っている。
職人仕事である。
三日が仕事初めであった。
工場は暗かった。
直射日光をきらう。
上司がいう。
「おい。もう少し足に力をこめろ」
「はい」
額から汗がしたたり落ちる。
練り作業が、はじまったばかりだ。
「どうした。ありがたみがわかったか」
「はい」
「そうだぞ。がんばれ。若いのにお前は大したもんだな。ほかにもっと楽できれいな仕事があるのに」
上司のSさんが、祐二の顔をのぞきこむ。
「墨には思い入れがあるものですから」
「思い入れって」
「小学生の時に習字をおそわりにいってたんです」
「うんうん」
「そこの先生が墨をとても大切になさっていました」
「いい先生だったな」
「その墨はおいくらですか」とたずねました。
「十万円」と聞いて、びっくりしました。
「十時になったらお茶にしよう。それまでがんばれ」
「はい」
ズボンは膝までまくりあげている。
素足でこねる。
すぐに真っ黒になった。
職人さんたちが、休憩室に入って来た。
祐二は、ひとりひとりにお茶をついだ。
「どうした。できるか。練りに型入れ、乾燥とある。この練りが一番大事だ。墨の出来不出来が決まる」
定年間もないAさんが、心配してくれている。
「はい、がんばります」
「はじめはあちこち痛むだろうが、すぐ慣れる。それまでの辛抱だぞ」
「わかってます」
五歳年上のCさんが言う。
「俺だって何もわからないで入ったんだ。お前ならやれる」
「はい、ありがとうございます」
「何だって、気持ちが大切だ」
Aさんがつけくわえた。
「はい。今回の大震災で被害を受けた人の気持ちになって、がんばります」
「おおっ、えらいこと言う。手伝いに行ったのか」
「ええ少しでしたが」
「そうか、そうか」
「子供たちに墨を送ってやりたいと思っているんです。俺が造った墨で、のびのびと字を書いてもらうんです」
「会社でも、学校に支援物資を送ることになっている。いままでお世話になったからな。恩返しだ」
「そうですか。嬉しいです」
夕方近くになると、祐二は足腰が痛みだした。
歯をくいしばっている。
練り作業をやめない。
上司のSさんがいった。
「よし。きょうはそこまでだ。あがっていいぞ」
「はい。ありがとうございました」
上司と工場長が、事務室で話している。
「どうだ。祐二くんは」
「若いのに根性があります」
「そうか。いい子が入ってくれたな。知りあいに頼まれた子だ。よろしく頼む」
「まかせてください。ものにしてみせます」
「あんたがそう言ってくれるんだ。俺も安心だ」
宏子が迎えにE駅まできた。
遮断機のむこうで、祐二が手をふっている。
電車が通りすぎた。
「祐ちゃん、お疲れ様でした」
「どうも」
足を引きずっている。
愚痴はいわない。
「コーヒーでも飲んで行きましょう」
「そうだね」
道路わきの喫茶店「東寺」に入る。
祐二がすわった。
足が震えている。
「大丈夫」
「うん。大丈夫さ」
「なんとかやれそう」
「やるさ。やるっきゃない」
「そうそう、その意気よ。ちょっと目をつむって」
「こうかい」
頬にキスをした。
「あっびっくりした」
「いやだった」
「うううん。そんなことない」
薬師寺に立ち寄った。
薬師三尊を拝む。
東塔が夕陽をあびて茜色に染まっている。
「祐二の足の痛みが早く治りますようにって、お願したわ」
「持統天皇の想いがこもったお寺だ」
「そうね」
「俺、がんばるからね。ひとりは、みんなのために」
「みんなは、ひとりのためにね」
太陽が生駒の山にすっかり沈むまで、ふたりはじっと西の空を眺めていた。
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被災地での一週間の活動を終えた。
祐二は近鉄奈良駅に着いた。
午後六時を過ぎている。
ケータイで宏子に電話した。
数人の若者が、被災者のための募金活動を行っている。
大学生のようだ。
道行く人が足を止める。
募金箱を両手で持っている男性に声をかけた。
「俺は今現地から帰ってきたばかりだよ」
「ああっそれはそれは。お疲れ様でした。どうでしたか」
「いやあまったく、何と言ったらいいのか。大津波が襲った現場を見て、呆然と立ちつくしたよ。自衛隊の方々が一番被害が大きかった現場で活動されている。俺が行ったのは入江の奥だ。まだ被害の小さかったお宅だった。被災者と一緒に寝起きして、まわりの物をかたずけることくらいのことしかできなかった。それでもとっても喜ばれたよ」
「そうでしょう」
「雪が降っている。寒い。お年寄りや体の弱い人が深刻だ。体が冷える。薬がない。暖房器具が充分じゃない。灯油もガソリンも足りない。マキを燃して煮たり炊いたりしているんだ。お風呂が入れない。トイレだって困っている。日用品がほしい。みなが知恵をふりしぼって、必死で生活してるんだ」
祐二は一気に話した。真剣な表情である。
髭が伸びている。
衣服が汚れたままである。
「がんばってください」
祐二は、募金活動をしているひとりひとりと握手をした。
「ゆうちゃあん。お帰り。お疲れ様でした」
宏子が駆けてきた。
「リュックを持つわ」
「いいよ、大丈夫だから」
「これくらい平気。何かさせて」
「すごい格好だろ」
「とっても素敵よ。もっとも訳を知らない人は当惑するでしょうけど。どうする。このまま家に行く」
「熱いコーヒーを飲みたいな」
「そう言うと思ったわ。ママに話してある。行きましょ」
東向きの通りを南にくだった。突きあたりは、三条通りである。
途中で右に曲がった。路地に入って十メートル歩いた。
喫茶砂時計のカンバンがある。
こげ茶色の重厚なドアを押した。
クラシックの曲が流れている。
カウンターの向こうに、ママが後ろ向きに立っていた。
コーヒーが器の中に溜まっている。
湯気があがっている。
「ママ、お願い」
宏子がそばに行って、頼んだ。
振りむいた。
微笑んでいる。
「祐二さん、ご苦労さまでした」
お辞儀をした。
祐二は驚いた。
「びっくりするなあ。そんなふうにされると」
「いいえ。当然です。尊い行いをされたのですもの」
店は混んでいた。
会社帰りの常連さんが結構いる。
すぐに家に帰らず、一息いれてからということだ。
皆がこちらを向いた。
ママの話が聞こえた。
何人かが、拍手をしてくれている。
宏子は喉元に、温かいものが湧きあがって来るのを感じた。
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