蝶シリーズ

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化身 その6

 姪の夫が気づいて、
 「ほら、おばさんが何か言いたそうだよ」
 右手をあげて、F子にうながした。
 F子はあわててそばにかけより、
 「どうしたの」
 M子の手を両手でにぎりしめた。
 失いかけた意識がようやくもどった。
 M子はほっとため息をついた。
 本当は、体調の良くないのをF子に訴えたかった。
 でも、せっかく来てくれているのに。
 遠慮が強く働いた。
 残っている奥歯をぐっとかみあわせて、弱気をこらえる。
 「いや、なんでもないんだ」
 といって、手をふった。 
 あちこち車いすで動き回るのは、無理だったんだと思う。
 かろうじて、ポンプの役割を果たしてくれている自分の心臓を
いとおしく感じた。
 
 私は九十数年間、生かされてきたんだ。
 小じわがいっぱいの目から、涙があふれてこぼれそうになる。
 「泣いてるの、おばさん」
 F子に気づかれて、
 「うれしくってさ」
 と、苦しいウソをついた。
 息苦しくてどうしようもないというほどではないが、その一歩手前であった。
 人様にあまり迷惑をかけたくない。
 たとえ親戚であってもだ。
 それがM子の信条だった。
 施設でも、ずっとアネゴ肌でとおしてきた。
 年下の面倒をよくみてきたおかげで、みんなに慕われた。
 一方、目上の者にも一目おかれた。
 自分が間違っていないと思えば、どんな偉い人とでも毅然として話をした。
 若い頃から、M子は気持ちが強かった。
 紡績工場の上司と恋愛結婚した。
 当時としてはめずらしく、まわりの同僚たちにうらやましがられた。
 でも、幸せは長くはつづかなった。
 言いたいことをずけずけいうM子は、義理の母や女きょうだいと
うまくいかず、娘をふたりを嫁ぎ先に残したまま、実家にもどった。
 五年足らずの夫婦生活であった。
 M子は、今さっき自分の窮状に気づいてくれた、姪の夫に感謝していた。
 昼間でも仕事の都合がつくのか、よく施設に足を運んでくれた。
 三十数年間ずっとだ。
 まるで自分の息子のようであった。
 彼の実家は遠い。
 俺は箱根の山を越えて来たんだ、と言ったものだ。
 実の親にはなかなか会えない。
 その分、お年寄りに親切にしているらしい。
 少し足が遠のくと、M子は、
 「あたしの彼氏、近頃見えないわ」
 と、若い介護人を笑わせた。
 あれやこれやと、昔の記憶が脳裏に浮かんでは消えていく。 
 
 お迎えが近いことを、M子は悟っていた。
 姪の家族三人にも、今は、それを知られたくない。
 みんなが帰るまでは、と必死で隠しとおそうとした。
 不整脈がひんぱんに起きるのか、時折息切れがひどくなる。 
 真夏にもこんなふうになったことがある。
 その時は、もう駄目かな、とベッドの上で両手を合わせた。
 そのことは、姪の夫に話してある。
 今は、その時よりずっとひどい。
 ひとりふたりと、広場から人が去って行く。
 ああ、またひとりだ。
 ひょっとして、今晩、旅立つ・・・・・・。
 M子は、言い知れぬ寂しさを感じた。
 「F子も、もう帰らないとね」
 心とは裏腹な言葉を吐く自分がうらめしい。
 「今日は、どうもありがとう」
 これが最後の挨拶とばかりに、大きく口を開けていうと、
 M子は顔じゅうしわだらけにして笑った。
 了

化身 その5

玄関前の広場の真ん中にステージが設けられている。
そこで歌や踊りが行われる。
それを囲むようにして、大きなテントがいくつも張られていた。
行事がとどこおりなくすすみ、あとはフリ―タイムになった。
「可愛いお人形がほしいの」
と、M子は日曜雑貨の販売コーナーに車椅子をすすめる。
店頭はにぎわっていた。
祭日とあって、子供が来ていた。
あれやこれやと手にとっては、じっと見つめる子が多い。
M子は長すぎる車椅子を器用に操りながら、子供たちの中にまじった。
五、六歳の女の子が手に取っている縫いぐるみの人形に、M子の目がとまった。
買うか買うまいか、迷っている様子である。
陳列場所に、その子がポンと投げもどしたとたん、M子の手がのびた。
人形をぐっとつかむと、胸元に隠した。
「あたしのだよ、誰にもあげない」
きつい目で、その女の子をにらみつけた。
目を丸くしたまま、その子のくちびるが震えている。
「ほらほら、おばさん。もういいでしょ、買えたんだからね」
F子がさとすようにいった。
「うんっ」と幼児のような顔をすると、にっこり笑った。
「おじょうちゃん、ごめんね。おどかして」
F子が小さな頭をなでた。
「きゃあ」
突然、近くで女の悲鳴があがった。
施設の玄関まで、ゆるやかなスロープになっている。
そこを車椅子に乗ったおばあさんが、かけおりてきたのだ。
ブレーキがうまくかけられなかったらしい。
「おおっ」と若い男の声がして、屈強な二本の腕が行く手をはばんだ。
M子はちらと見ただけで、その出来ごとにはあまり関心を示さなかった。
 
物事が、現実か夢かの区別がつきにくくなっている。
それはM子自身にも、うっすらとわかっていた。
M子の脳裏には、今は幼い頃の生活が浮かんでいる。
家の裏手にある土手をひとりで歩いている。
時折リヤカーがとおる草だらけの道である。
綿や着物のはぎれで作った人形を背負っている。
母親の心がこもった品だ。
「ちょうちょ、ちょうちょ。菜の葉にとまあれ。
菜の葉にあいたら、この手にとまれ」
口を大きく開けて、歌っている。
ふいに歌うのをやめた。
お母さんが赤ん坊をあやすように、
「ほらほら、泣くんじゃありません」と、小さな体を上下にゆすった。
右手でポンポン背中の人形をたたく。
丸太のような物を踏んだら、ギュッと音がした。
何かが足もとに巻きついた。
驚いて、えんえん泣いていると、野良仕事をしていた父がかけてきた。
「どうした、マー坊」
「足が痛いの」
青大将が巻きつき、かま首をもたげている。
「このやろめっ」
父は首根っこをぐっとつかむと、ぐるぐると巻きもどし、
「それっ」と川のふちにほうり投げた。
「おっかなかったろ」
「うん」
わああっと父の脚にすがりついた。
「おとっつあん、どうして殺さなかったのよう。あんなわるい奴」
「ばか言え。何だって、ただ生きてるんじゃねえぞ」
幼いM子は訳がわからない。
だまって父の話を聞いている。
「ちょうちょだって、ヘビだってな。前は人間だったかもしんねえんだぞ」
「じゃあ、マーちゃんが死んだら、何になるの」
「それはな、マー坊が一番好きなものになるんだ」 
「うん、わかった」 
M子は、ちょうちょを追いかけながら、家路についた。 
 
M子の目がしらに涙がにじんでいる。
「どうしたの、おばさん。何が悲しいの」
F子がやさしく問いかける。
ふふっと口もとに笑みを浮かべて、M子は、
「ううん、何でもない」と応じた。
しっかりした大人の表情にもどっていた。
「おばさん、はい、どうぞ」
F子の息子のGがコーヒーを買って来た。
「あれえ、これ前から飲みたかったんだよ」と、喜んだ。
一口すすり、「こりゃあ、うまいや」と、舌を打った。
小春日和だった。  
胸元がひろくあいた薄手の上着を、M子は身に付けていた。
若い時は豊かだった胸の谷間が見える。
紅潮した肌が、M子の血圧が高くなっていることを表していた。
「おばさん、本当に久しぶりですね」
F子の息子、Gが声をかけた。
「ほんと、Gちゃん、大きくなって」
「二十年くらい会わなかったわね」と、F子が口をはさんだ。
M子の顔の筋肉が大きくゆるむ。
生きていれば、あたしの孫も・・・・・・。
Gの顔が、三十年間便りの途絶えている次女の息子の顔に重なった。
「娘に会いてえな」
M子が、ぽろっと本音をもらした。
初めてだった。M子がこんなことを言うのは・・・・・・。
F子は、わきにいた夫と顔を見合わせた。
ふいに意識が遠くなるように感じて、M子はF子に手をさしのべた。 
 
 
 
 
 
 
 

化身 その4

 M子はわざとひとつ向こうのイチョウの木まで歩いた。
 葉の色を濃くしている木々が人の姿を見えにくくしている。
 あたりをうかがうようにすると、M子はさっと木陰に身をひそめた。
 工場を囲んでいる高い壁に背中をくっつけてかがみこんだ。
 「よく来てくれたね」
 Bがすぐにそばに寄って、わきにすわりこんだ。
 ぷんとタバコが匂ったが、くわえてはいない。
 「な、なにかあたしにご用ですか」
 地面を見つめながら、緊張した面持ちでいった。
 「いやね、転勤してきたばかりで、この街に不慣れなんで」
 「そうでしょうね」
 しばらく、ふたりは黙ったままだった。
 「あたし、もう行かなくちゃ」
 M子が切りだした。
 「い、いちど、この街を案内してくれないかな」
 「私が、ですか。それでしたら、ほかにどなたでもおられるでしょうに」
 コツコツと足音が聞こえてきた。
 年輩の紳士がステッキを持って通りすぎていく。
 話声が聞こえたのか、ちらっと木影をのぞいた。
 ふたりそろって、下を向いた。
 何も話しかけられませんように、とM子は心の中で祈った。
 紳士はふふっと笑みを浮かべると、さっさと歩きだした。
 
 Bは、上気した顔をM子にむけて、
 「良かったなあ」といい、ふううとため息をついた。
 「ええ、ほんとに。良かったですわ」
 Bの本心からでた言葉に感動して、M子は答えた。
 互いの脚がふれあっている。
 「あっ、ごめんなさい」
 M子はあわてて、身をちじめるようにした。
 「君はかわいいね」
 と言いながら、Bは自分の手を、M子の手にかさねた。
 あっと小さく声をあげ、M子は手を引っこめようとした。
 Bはぐっとつかんで放さないでいる。
 M子の背中に右手をまわし、ぐっと引きよせた。
 意外な展開にM子の心は揺れ動いている。
 Bの熱い吐息が肩にかかった。
 M子は目をつぶって耐えていたが、「もうだめ」と叫んで、立ちあがった。
 BはうらめしそうにM子を見あげている。
 もう一度、M子はしゃがみこむと、
 「こんな所じゃ、これ以上は無理でしょ」と、Bの耳もとでささやいた。
 Bはわかったといった表情で立ちあがり、枝に手をのばした。
 扇形をした葉っぱを一枚つみとり、M子の手ににぎらせた。
 夕暮れがせまっていた。
 一羽のアゲハ蝶が道の向こうから飛んでくるのが見えた。
 何を勘違いしたのか、M子が手にしたイチョウの葉にとまった。
 「どうしたんだろうね、このアゲハ」
 Bが首をかしげた。
 M子がBの手をとり、にっこり笑った時、あたりの景色が急にゆらめきだした。
 アンテナを失くしたテレビ画像のように色を失くしていく。
 
 「M子さん、М子さあん」
 若い介護人、S子の甲高い声が遠くで聞こえる。
 M子は、まるで自分の体が湖の底から浮き上がって行くように感じた。
 ぶわっと水面にでた。 
 目を開けると、S子の顔がすぐ近くにあった。
 M子の手を両手で握りしめ、目に涙を浮かべている。
 「どうしたのよう」
 S子は叫ぶように言う。
 「なにが、・・・・・・」
 M子は、目をきょろきょろ動かした。
 「なにがって。いくら呼んでも起きないから、お医者様に診てもらっていたのよ」
 「そうなんだ」
 M子はにっこり笑う。
 「そうなんだじゃないでしょ、・・・・・・」
 白い服を着た中年男がM子の顔をのぞきこんで、
 「ああ、もう大丈夫です」といって、微笑んだ。
 「おばさん、良かったわね」
 いつの間に来ていたのだろう。
 姪が家族二人とともに部屋にいる。
 医師が、姪の肩をポンとたたいて、歩きだした。
 部屋の出入り口で手招きしている。
 姪のF子は急いであとを追った。
 廊下のソファにふたりで腰かけた。
 「だいぶ心臓が弱っておられるようです」
 眼鏡を指で上にあげるようにしながら、医師は
F子の耳もとで小さな声で言った。
 「今日のイヴェントに出ても大丈夫でしょうか」
 泣きだしそうな顔を、F子は医師に向けた。
 「それはオーケーです。でも無理は禁物ですよ」
 「わかりました。ありがとうございます」
 F子は何事もないような素振りで、
 「さあ、おばさん。お祭りが始まるわよ」
と、元気良く呼びかけた。

化身 その3

男女七歳にして、席を同じくせず。
女の方から男に対して、容易に口をきけない窮屈な時代だった。
同僚の視線も気になる。
M子は前を向いたまま、黙ってやり過ごそうとした。
二、三歩離れたところで、もう一度係長の声が聞こえた。
「仕事を終えてから、ちょっと会ってくれませんか」
機械の音にさえぎられて、ほとんど聞き取れない。
しかし、確かに男の肉声だ。
しぼりだしたような悲痛さがこめられ、M子の胸にビンビン響いた。
ひと眼見るだけだからと自分を納得させて、思いきってふり向く。
Bは真正面からM子を見ずに、横顔を向けていた。唇がふるえている。
上司の威厳をたもとうとしているのか、背筋をピンと伸ばし顎を引いていた。
きれいに髭をそって、青っぽくなっている口のまわりの肌が妙になまめかしい。
好感を持っていた男の必死の告白に、
M子はそれとなく頭をさげて、敬意をあらわした。
 
職場にもどり、糸にふれた。
隣にいたA子がそっと近寄り、「ねえ、ねえ」
と、耳もとによく動く口をよせてきた。
「何よ。うるさいわね」
M子は知らん顔をきめこむ。
案の定、気付かれたのだ。
「あの人、あんたに何ていったの」
人差指で肩をツンツンつついた。
それでもM子は素知らぬ表情をしている。
「ああ、あれ。何でもないわ」
仕方がないと応じた。
あらぬうわさを立てられるのは嫌だった。   
M子は仕事の手を休まないでいる。
「食事にでもって、誘われたんじゃないの」
A子は口もとに薄笑いを浮かべて、言いつのる。
「機械に身体を巻きこまれないようにって」
A子をぐっとにらみつける。
「何よ。ぬけがけは許さないから」
悔しいとばかりに、A子は糸を持つ手に力をこめた。
ブチッと鈍い音がした。
ゴ―と大きな音がしたかと思うと、機械がとまった。
工場の中にベルが鳴り響いている。
 
ふたりが事務所に呼ばれた。
工場長が怒鳴っている間、M子は頭をさげていた。
ふいに尿意をもよおし、
「すみません、ちょっと」と、頭をあげた。
鼻の下に長い髭をしの字にあげた年輩の男は、
おほんと咳払いをすると顎をしゃくった。
M子は小さい頃から叱られるとおしっこがしたくなった。
五歳だったろうか。用を足して紙で股をふいた時、妙な感じになった。
ジンと頭がしびれたのだ。
それ以来、怒られるたびに便所に行った。
もう少し大きくなってからだったろう。
真夏に掛け布団をかぶらずに、母のそばで昼寝をしていた。
右手が無意識に股間に伸びていて、
生えはじめたばかりのヘアをこすっていた。
母親が気づいて、激怒した。
仁王様みたいな顔をして、M子の手をはたいた。
今は何でも知っているから、母が怒った理由もわかる。
鳩だって、犬だって、くっつくんだ、と胸を張っていえた。
自然なことだと理解するのに、長い時間がかかりはしたが・・・・・・。 
就業のベルが鳴ると、M子の胸はどきどきしはじめた。
なんとか着がえを終えて、正門を出る。
同僚よりも遅く着がえをすました。
正門を通って行く。
足もとが地についていないようで、ふわふわしている。
上着が見えるわよ、と自転車に乗ったA子が素っ頓狂な声をかけて行った。
立ちどまってあたりを見まわすが、係長は見当たらない。
M子はほっとすると同時に、むしょうにさびしくなった。
門の前に道に沿ってイチョウの木が植えられていた。
「うっ、うん」
すぐそばの太い幹の陰で野太い声がした。
タバコの煙がただよっている。
M子は何気ない風をよそおって、その木に近づいた。   

化身 その2

 あまり胃腸の動きが芳しくないので、腹半分にして席を立った。
 「はい、ごちそうさま」
 「あら、今日はいっぱい残ってるわね」
 食事係の若い職員がほほ笑みながらいう。
 「ちょっとね、運動不足のせいでお腹がすかないのよ」
 M子はわき腹をポンとはたいて、
 「ほら、歯だってこのとおり」
 と、大きく口を開けてみせた。
 「あら、いやだ」
 専門学校をこの春卒業して、ここに就職した子だ。
 笑うと娘に似る。この子、ひょっとしたら自分の娘なんじゃないか、
と本気で思ってしまう。
 むろん、そんなはずはないのだが、そう思えるだけでM子は幸せだった。
 「上半身だけでも、こうやったら」
 A子と名のる娘は、自分の両腕を大きくふりまわした。
 車椅子をひとりで動かして、部屋にもどる。
 タイヤがへこみ加減で、その分、余計に力がいる。
 おかげで両肩に筋肉がついた。
 ふいに車が軽くなり、ふり向くとA子が笑った。
 
 イヴェントは十時からだ。まだ間がある。
 夕べあまり眠れなかったので、一休みすることにした。
 ふとんをかけると体が暖まったのか、M子はすぐに眠ることができた。 
 娘たちのきゃあきゃあ騒ぐ声が、遠くで聞こえる・・・・・・。
 あれ、おかしいな、一体ここはどこだろう。
 M子はいぶかしんだ。
 誰の声だろう。女のわりに低い。聞いたことがある。
 偉そうに、いばりくさっているわ。
 望遠レンズで見るように、M子の目が近寄って行く。
 ガチャン、ガチャンと機械が規則正しく動いている。
 白い繊維が一本の糸に丸められていく。
 紡績工場の中のようだ。
 休憩室の中では、五、六人の若い女たちがおしゃべりを楽しんでいる。
 視線を注意深く走らせる。
 ひとりひとりの顔が見えるまでになった。
 紺の制服に見覚えがある。
 昔、昔のファッションだな、とおかしくなった。
 真ん中にいる女性に目がとまって、M子はあっと思った。
 若き日のM子本人がいたのだ。
 これは夢なんだ、とはっきりわかっているのだが、妙に現実味がある。
 今の施設での生活より、ずっと生き生きとして楽しそうだ。
 いられるだけ長く、この世界にいようと思った。
 
 椅子にすわって、煎餅をかじってはお茶を飲んでいる。
 あの男はこうだのああだの、と一緒に働いている異性の品定めに興じている。
 「ねえ、今度入ったあの人、どう思う」
 「だれ、だれ」
 「ほら、係長のBさんよ」
 「素敵なんじゃないの。背が高くて、無口でさ」
 「あの人、まだ独り身なのかしら」
 「どうだかね。三十に届くかどうかだろうけど」
 「あんた、聞いてみれば」
 「あたしが、そうね。それもいいわね」
 「ほんとに訊く気なの」
 「えへへっ」
 「早いもの勝ちってこともあるしね」
 どっと笑いが起こった。
 「うるさいわね、もう時間よ。さあ、立ち上がって」
 休憩室の隅にぽつんとひとりでいた、年輩の女がにらみをきかした。
 女たちの班のリーダーである。
 しょうがないわといった表情で、ひとりひとり立ち上がって工場に入って行く。
 繊維くずがタンポポの綿毛みたいにふわふわと浮かんでいる。
 機械は止まることはないから、交代で休憩を取っているのだ。
 さっき話題にのぼった係長のわきをM子がとおる。
 苦み走った顔がM子の方を向いた。
 「あのお・・・・・・」
 彼が口を訊いた。
 M子の胸が、きゅんとしめつけられた。
 
 
 
 
 
 

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