蝶シリーズ

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化身 その1

 空調機械のリズミカルな音がやむと、部屋が静かになった。
 この頃秋が深まったせいか、M子は日が暮れるのを早く感じる。
 一年を通じてこの季節がいちばんいやだ。
 深夜ともなると、冷えた外気が建物の壁を圧迫するようで、
部屋がきゅっとちじんだように思える。
 四台のベッドはすべてふさがっている。
 M子は今年九十歳をこえたが、歳のわりに気力が充実している。
 立ってあるく事は出来ないが、横たわったまま車椅子で出歩くことができた。
 あとの三人は、ほとんど口をきかない。
 時折ああとかうう、とか言える程度で、
身のまわりをすべて介護人の世話になっている。
 だれもいないよりはずっとましだが、やりきれなかった。
 
 時刻は午前一時をまわっている。
 M子は興奮しているせいで、なかなか寝つけなかった。
 今日は夜が明ければ、嬉しいことがひとつあった。
 しばらく目を開けたままで、じっと天井を見つめていた。
 昔のことが次々に脳裏に浮かんでくる。
 何よりも腹を痛めて生んだ子供が気がかりだった。
 今は、まったく音信不通になっている。
 ふいに部屋の空気がピンと張りつめたようになった。
 何かが近づいているのだ。
 M子には霊感がある。
 自分でそう思っているだけなのだが、M子の語りに訪問客は驚かされた。
 施設の人には、めったに話さない。
 頭がどうかしたか、と誤解されては大変だからだった。
 年老いた人が多いだけに、ここは常に生死の境にある。
 誰かが廊下をぱたぱた音を立てて歩いている。
 聞き慣れない足音だ。
 まるで子供みたいだな、警備の男の人ではないぞ、とM子は思う。
 もし彼だったら、もっと静かにあるくはずだ。
 部屋の出入り口で、ピタッと音がやんだ。
 小石が池に波紋を起こすように、空気がざわざわとしはじめる。
 何かが歩きだす気配がした。
 M子のベッドの足もとで立ちどまった。
 目を向けたが、何も見えない。
 カーテンを閉め忘れたサッシ戸のガラスに黒い影が映っている。
 M子は、かまわずにじっとしていた。
 淡い光の玉がふいに現われたかと思うと、ベッドの上にのり、
ふわふわとはいのぼってくる。
 M子の顔のそばまで来た。
 しばらく宙で浮いていたが、サッシ戸のすき間にすううと消えてしまった。
 背筋がぞくぞくはしたが、いつものことなので、ああ、また
幽霊があいさつに来たか、とM子は案外けろりとした表情だ。
 それでも極度に緊張したせいか、うとうとしはじめた。
 
 「M子さん、M子さん」
 いつも世話してくれるS子の声に起こされた。
 右肩をゆすぶっている。
 窓の外が明るくなっていた。
 「ごめんね、半分閉め忘れたんだね」
 といいながら、片方のカーテンを開けた
 「ああ、大事だよ。お化けが時々部屋をのぞきこんで、退屈しなかったよ。ところで今幾時だい」
 「八時過ぎですよ。お化けがでたの。あたしも見たかったな」
 S子は話を合わせた。
 思いやりのある人で、M子はいつも助けられている。
 「ええ、こりゃ寝すぎだね」
 「いくら呼んでも起きなかったよ」
 「ゆうべ、なんだか寝付けなくてね」
 「さあ、早く仕度して。ご飯が遅くなってしまうわ」
 ベッドのまわりをせわしなく歩きまわっては、きちんと整頓してくれた。
 「ありがとう。すまないね」
 「今日はイヴェントがある日ですよ」
 「ああ、そうだ。実家から、姪っこが来るんだっけ」
 「良かったね」
 M子は仕度をすると、腕に力をこめて、長くて重い車いすを動かしはじめた。
 
 
 
 
 

老い

 四月下旬。
 ようやく朝夕でも、それほど寒さは感じられなくなった。
 いま、М子は日当たりのいい廊下にいる。
 嫁のS子に世話になることが多い。
 二月の末で七十八歳になった。
 自分では、歩けない。
 抱えてもらってソファーまで来た。
 よく面倒をみてくれる。
 若い頃の無理がたたって足腰が弱い。
 「骨がもろくなっているから、ばあちゃん。転ばないようにね」
 息子のような医者が言った。
 
 庭先の花を眺めている。
 二羽のモンシロチョウが飛びまわっている。
 仲がいいのね。つがいかしら。
 わたしも子供の頃は、蝶のように元気に走りまわったものだわ。
 夫は幼い頃からの遊び友だちであった。
 ひとつ年下である。
 去年病気で先に逝ってしまった。
 
 五十年間連れ添った人である。
 彼は、今でもそばに寄り添っていてくれている。
 声をかけると、返事が返ってくる。
 そんな気がしている
 寂しいときは、仏壇の前にすわることにしている。
 小声で夫と話をする。
  
 この冬は、終日掘りごたつに入っていることが多かった。
 テレビを見たり、友だちと世間話をして過ごしていた。
 嫁がお茶や菓子を出してくれる。
 本当に有難い。
 跡取り息子は朝四時に会社に出かける。
 運送会社の大型トラックの運転手をしている。
 関西地方まで、長い時間をかけて荷物を運ぶことがある。
 毎朝ご先祖さまに息子の無事を願っている。
 嫁にばかり世話をかけるのは気がひける。
 四月からデーサービスを頼むことにした。
 
 三月下旬だった。
 めづらしく暖かかった。
 家の外に出たくなった。
 「S子さん、わるいね。ちょっと庭先まで私を連れて行ってくれるかい」
 「おかあさん、ちょっと待っていてください。手がはなせないんです」
 「わかったよ」
 十分たった。
 S子が台所の椅子を持って来た。
 庭の隅においた。 
 茶の間にいる私の体を抱えあげた。
 ぐきっと音がした。
 足が炬燵にぶつかった。
 あっ痛い、と感じた。
 S子は、無言で私を椅子まで連れて行った。
 ドサッと荷物を置くように、私の体を椅子にのせた。
 私は痛みをこらえていた。
 不平を言わなかった。
 
 細い雨が降ってきた。
 にわか雨だ。
 私の体を濡らしはじめた。
 S子は出て来ない。
 雨が髪の毛をつたいはじめた。
 S子のやさしい声が聞こえない。
 涙があふれた。
 道を歩いていた青年が駆け付けた。
 「おばさん、どうしたんですか」
 私は何も言わなかった。
 彼は、持っていたハンカチで顔を拭いてくれた。
 縁側のガラス戸を開けた。
 よいしょと、私を軽々と抱き上げた。
 ソファーの上に私の体をのせてくれた。
 「おばさん、これで大丈夫だよ」
 「ほんとにありがとう。お茶でも召し上がれ」
 「忙しいものだから。元気でね」
 
 S子が出てきた。
 「おかあさん、ごめんなさい」
 「いいよ。若い時は、いろいろあるから。でも今度からは気をつけてね」
 「はい。わかりました」
 初めて、嫁の涙を見た。
 

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