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幸いなことに、傷はそれほど痛まない。
血も止まったようだ。
もしも顔でも、まともに切られていたら。
想像するだけでも、身震いした。
厚手のズボンをはいていたおかげだ、と
剛は神様に感謝したい気持ちになった。
ふと故郷にいる家族を想う。
祖母と母。
毎朝、ご先祖や神様に、俺の無事を願ってくれる。
元気だろうか。
時折、宅急便で菓子や果物を送ってくれる。
短いが、健康を気づかう手紙がそえられていた。
「ひょっとしたら、ぼくたちと同じかな。学生さんですか」
助手席にいる若者がふり向いた。
剛は、すぐには答えられない。
「いっ、いいえ。学生じゃないんです。もう社会人なんです」
嘘をついた。
苦労して、大学に通っている。
それはいい。
だが、近頃の自分は情けない。
いくらアルバイトをしているからとはいえ、真夜中に
うろついているのが恥ずかしかった。
それも、別に大事な用で、出かけたのではない。
女性と付き合うためだった。
どこか、間違っているんじゃないか、つよし。
隙があるから、魔が入りこむのだ。
そんな声が、心の奥から聞こえてきた。
他人に対して恥ずかしいのではない。
自分の良心に照らして、恥ずかしかった。
駅の明かりが目に入った。
見慣れた風景が、新鮮に思える。
大けがをしていたら、二度と見られなかったかも知れない。
当たり前のことが、大切に感じられる。
駅の正面に、車が停まった。
「ここでいいかな」
運転していた若者が、ぽつりと言った。
「ほんとにありがとうございました」
ドアから出ても、しばらく頭を下げたままでいた。
線路に沿って黙々と歩いて行く。
今夜はいろんなことがありすぎた。
心がざわついてしょうがない。
頭の中がなかなか整理できないでいる。
羽目をはずしていた自分が恨めしかった。
つくづく、自分がいやになってきた。
踏切を渡る。
大通りを曲がり、生けもがりのある露地に入った。
物音ひとつしない。
ギュッギュッと靴が鳴る。
アパートが見えてきた。
足音をしのばせる。
庭さきに取り付けられた丸いボール球が、不意に鋭い光を放った。
眩しくて、剛は顔を手でおおった。
一階にある自分の部屋に向かう。
キーも差しこまずに、ドアのノブをまわした。
手前に引く。
開くはずがないのだが、それが習慣になっていた。
すっと、ドアが開いた。
「あれれっ」
剛は、声をあげた。
「つよし、お帰りなさい」
ユリの声が、耳の奥でやわらかく響いた。
[続く」
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姿川恋物語シリーズ
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薄暗くて、よく見えない。
街灯の灯りをさがしたが、付近には見当たらない。
剛はじっと目をこらした。
白い紙なのに、真ん中あたりが赤黒い。
シミのような物がついている。
その中に、数字がいくつもならんでいる。
090・・・・・・・・。
最後まで読みとれない。
ケータイ番号なんだ。
M子の気持ちがわかって、嬉しかった。
両手で、ぴんと引きのばすと、紙が縦に五センチくらい裂けた。
えっ、なんで。
思わず口走った。
ポケットのなかを右手でさぐり、指を鼻のさきにもってきた。
指がしめっぽい。
かすかに生臭い匂いがした。
ひょっとして、血だったりして。
でも、いったいどこで、どんなふうに。
まったく思い当たらない。
この切れ方からすると、かなり鋭い刃だ。
たとえば、カッターナイフのような物。
からだが、ぶるっと震えた。
五十メートルくらい先に、コンビニの灯りが見える。
剛は足早になった。
ドンッ。
不意に、背中に何かがぶつかった。
それが自転車のタイヤだとわかるまでに、時間がかかった。
剛はよろけて、歩道にころがった。
誰かが胸ぐらをつかむ。
フルフェイスのメットをかぶっている。
夏なのに、黒い皮ジャンを着ていた。
ひんやりした細長い物が、頬に当たった。
「おっおい、金」
くぐもった男の声がした。
大切に残しておいた千円札をつまみだした。
「なんだ、これっぽっちか」
手からもぎとるようにすると、
「もっとあるだろ。財布はどこだ」
と攻めたてる。
「ない。持ち歩かないんだ」
ナイフで頬をぴたぴた叩く。
「ほんとうか」
「ほっ、ほんとう」
正体不明の男だ。
あらがうわけには、いかなかった。
何をしでかすか、わからないからだ。
ざああっと、身近で音がして、辺りが明るくなった。
男が剛から離れた。
車が、わきで停まった。
剛は、大きなため息をついた。
男は、倒れた自転車のハンドルを両手でつかむと、
ゆっくりと歩き出した。
車のドアがバタンと鳴った。
「おい、待て」
若い男が声をかける。
その声に驚いたのか、突然、自転車に乗った。
暗がりに走りこんで行く。
「大丈夫ですか。あぶなかったですね」
もう一人の学生らしい男が、近づいて来た。
「どうもありがとう。助かった」
剛が礼を言った。
「こんなに遅く、どちらまで行かれるんですか」
「お茶ノ水駅まで」
「ぼくらもそっちへ行きます。良かったら、送って行きますから」
剛は、乗用車の後部座席に乗りこんだ。
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先ほどから、剛は運賃メーターばかり見つめている。
深夜料金が気になる。
かちゃ、かちゃと音がするたびに、胸がどきっとした。
運賃表示が四千円になった。
「ここで降ろしてください」
運転手に、きっぱりと告げた。
「あれっ、こんな所でいいんですか。お茶ノ水は、まだ先ですよ」
中年の男は、心配そうな顔を向けた。
アパートは、まだ遠い。
実をいえば、剛は空腹なのだ。
仕事を終えてから、食べ物を口にしていない。
コンビニに立ちよって、おにぎりでも食べたかった。
「ちょっと歩きたいんです」
「そうですか、わかりました。気をつけて下さいよ。
街にはいろんなのがいますから」
と、後部座席のドアを開けた。
剛をひと眼見て、おのぼりさんだと分かったのだ。
近頃は、田舎から東京に出稼ぎに来る人が多い。
週末には、帰宅する。
この運転手も、その一人らしい。
お金を受け取ると、「くれぐれも用心して」と、念を押した。
余計なお世話だ、と剛はちょっとカチンと来たが、
「ありがとうございます」
と、応じた。
去って行くタクシーのテールランプを、じっと見つめている。
道はまっすぐに続いていた。
人の良さそうな運転手の車は、すぐにほかのタクシーにまぎれて、
見えなくなってしまった。
両側には、ビルが建ちならんでいる。
黒っぽく、汚れた空気がよどんでいた。
歩道を歩いている人はいない。
何か黒い物が、通りを横ぎって行く。
猫が一匹、あとにつづいた。
タクシーが急ブレーキをかける。
あっ、あぶない。引かれるんじゃないぞ。
剛は、猫に声援を送りたい気持ちになった。
あれ、おれ、ちょっとおかしいぞ。
ホームシックにかかったのかな。
剛は、両のポケットに手を突っこんで、苦笑いを浮かべた。
ポケットの中の千円札を、ぎゅっと握りしめた。
うつむき加減で歩いて行く。
すぐわきを何かが通りすぎて、風が巻きおこった。
黒い上着をきた男が、自転車に乗って走り去って行く。
あぶねえ、野郎だな。
怒鳴りだしたい気分になった。
あたりは、すぐに静けさをとりもどした。
剛の靴音だけが響く。
ふいに、M子が店で渡したメモのことを思い出した。
何が書いてあるか、おおよその見当はつく。
今更読んでも仕方がない、と思うが・・・・・・。
後ろのポケットに手をやり、汗のにじんだ白い紙を開いてみた。
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M子は、途中でタクシーを降りた。
「ほら、チ―坊。じゃなかった。つよし」
そう言って、剛の手に五千円札を握らせた。
M子は、思わず表情をくずす。
「いけない、いけない。あなたを見ていると、つい弟を思いだして」
「いるんだ、弟さん」
M子は、笑顔でうなずいた。
「きょうだいがいるって、いいよね」
「何よ、あなたには、いないの」
剛は返事をせず、じっとM子の眼をのぞきこんだ。
羨ましい気持ちが、剛の眼にあらわれている。
「弟、卓也っていうのよ」
「いい名前ですね。チ―坊って、言うのは」
剛が腕をくんだ。
「何もそんなに真面目になることないでしょ」
「小さい頃、呼びかわしたあだ名よ」
「なるほど。卓也が、チ―坊か」
「そんなに考えることないって、ほんと、生まじめなのね」
「舌たらずでしょ。二歳くらいは」
「男の子は女の子より、口をきくのが遅いものね」
「そうそう」
「大人になってからも、口では負けるよ」
「その通り。わかってるじゃないの。我が弟も、いろいろ勉強してるようだね」
M子は右手を剛の肩にのせて、ほほ笑む。
「俺は、弟さんの代わりなんだ」
うつむいて、ぼそっと言った。
ふいに、M子が窓の外を見た。
「あっ、あたし、この辺で降りなくっちゃ」
「こんな大通りじゃ、あぶないよ。もっと近くまで、行ってもらったら」
「歩いて、すぐだから」
「こんなに遅いんだし」
時計の針は、十二時をとっくにまわっていた。
「そうね、剛がそう言うなら」
「俺だって、心配だもの」
「ほんとう。ほんとに心配してくれるの」
「当り前さ」
「うれしいっ」
気心のかよった友が一晩のうちにできて、M子は喜んでいる。
都会は他人の街だと、この十数年で、身にしみて分かった。
職場の同僚の中には、M子の身を案じてくれる人が、ひとりやふたりはいるが、
本当に心の底からのものか、疑わしかった。
人間関係がわずらわしい。
出世欲、色恋沙汰等。
利害がからむと、どうしても、腹を割って話すことができにくい。
うわべだけの付き合いになりやすかった。
「すみません、運転手さん。その四つ角を右に曲がってください」
M子のマンションは、JR上野駅からそんなに離れていない。
台東区内にある。
「悪いね、出してもらってばかりで」
剛は、遅い礼をのべた。
「いいのよ。勝たせてもらったんだもの。今日は、じゃなくて、きのうは」
「また、お願いします」
剛は、店員らしい口をきいた。
左奥に、五階建てのビルがうっすらと見える。
月の光を受けているせいで、輪郭がはっきりしていた。
タクシーが、玄関先で停まった。
「それじゃ、付き合ってくれてありがとう、つよしくん」
ドアの外から、M子が声をかけた。
それじゃまたね、と言いかけて、
剛は、あわてて口を押さえた。
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「つよし、出たわよ」
シャワーを浴び終えたM子が、カーテンの内側で声をかけた。
返事が聞こえない。
ごう、ごごっ、ぐわっ。
まるで猛獣が眠っているようだ。
剛が、すごいいびきをかいている。
よっぽど疲れているんだわ。
勉強とアルバイトの両立は、たいへんなんだ。
M子は、剛がいじらしくなった。
浴衣を羽織ると、桶にお湯をくんで、浴室をでた。
左手にタオルを持った。
ベッドの端で、眠っている剛を見つけた。
からだをくの字にして、横たわっている。
かわいそうなつよし。
不意に、のど元に熱いものがこみあげてきた。
カッターシャツのボタンをはずしはじめた。
剛の上体を起こし、ランニングシャツを首からとおす。
裸の胸や腹を、丹念にふいている。
「うっ、うん。あれれっ」
剛が目覚めた。
M子の胸の中にいる自分を見つけて、急に恥ずかしくなった。
「ありがとう」
ぺこりと頭をさげた。
勢いをつけて起き上がると、ベッドわきに立った。
「無理にでも、起こしてくれればいいのに」
「なんだか、かわいそうに思ったの」
「そうなんだ」
M子には、弟がひとりいる。
両親と三人で、故郷で暮らしている。
剛が好きなのか、それとも弟の面影を、剛に重ね合わせて
いるだけなのか、はっきりしなくなってきた。
でも、好意を寄せていることは、確かだ。
三十二歳と十八歳。
M子は、心の中でそうつぶやいた。
くすっと笑った。
「何がおかしいの」
剛も表情がやわらかくなった。
「いいえ、別に。気にしないで」
「なら、いいけど」
「ねえ、つよし。お風呂からあがったら、すぐにアパートまで送ってあげるわ」
M子が、ふっ切れたような顔で言った。
「ええっ、いいの」
「その方がいいんでしょ」
剛は、頭を深くさげた。
「これからも、いいお友達でいてくれますか」
真面目な顔で、M子が訊いた。
「はい、おねえさん」
あははっ、あははっと、ふたりで笑いだした。
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