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連絡もせずに、仕事を休んだ翌日。
剛は直接店長に会うことにした。
事務所の戸を静かにあけた。
店長のYは、書架の前に立っている。
ふり返って、一瞬剛を見たが、すぐに視線を書類にもどした。
クビになってもほかを当たるからいいや、と思うものの、
それもなかなか面倒だった。
右手にさげた紙袋には、店長の好きなラークが
一カートン入っている。
「どうもすみませんでした」
剛は深く頭をさげた。
「けっ」と応えて、どっかと椅子にすわった。
はずみで、ぐるりと回る。
タバコを一本取りだし、はすにくわえる。
剛はすばやくライターに火をつけると、頭を低くして近づいた。
Yは、タバコをまっすぐにくわえなおすと、
深く息を吸いこんだ。
ふううう。
天井に向かって、ゆっくり煙を吐きだした。
「ほんとにどうも」
紙袋から、ラークを取り出して、机の上においた。
「いいか。これっきりだぞ。甘いのは」
これ以上ないといった怒った顔を作って言った。
頭をさげ加減にして、剛は事務所を出た。
店は、以前ほど混んでいない。
店長がご機嫌斜めなのは、何も剛だけのせいではなかった。
ここんところ、世の中が不景気だからな。
大震災のせいもあって、人々の表情がなんとなく暗い。
あれこれ考えながら、通路をゆっくりと歩いて行く。
剛は髪の毛に、たっぷりリキッドをしみ込ませた。
爽やかな香りだ。
アロマばやりで、人は匂いに敏感になっている。
腰にゆわえた鍵が、ちゃりちゃり音を立てた。
レデースの通路を通る。
最近は、若い女が目立つ。
ほとんどがタバコをくわえている。
車の中で吸っているのは、よく見かける。
どこかで気晴らしをしないと、やってらんないよな。
女だからって、こうしろああしろって。
世間は、こうるさいもの。
剛は、不意に同情したくなった。
ひとりの女が左手をあげて、剛を見た。
ほっそりした顔つきの、髪の長い女だった。
薄いピンクが入った眼鏡をかけている。
「はい。何か」
「この穴に入ったと思うんですけど」
「どこですか」
顔を、ガラスに近づけた。
香水が匂う。
「あたしを覚えてないですか」
剛の耳もとで、そっとささやいた。
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姿川恋物語シリーズ
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ふたり並んで坂道をくだる。
小百合は、婦人用の赤い自転車を押している。
「いい自転車だね」
「ありがとう」
「車があっても、道路が込み合うからね」
「そうなの。小回りがきくから、とっても便利なの」
「俺もほしいな」
「中古だと、安いわ」
「ところでさ、俺、不思議なんだけど」
「何が」
「どうして、さゆりは、実家から通わないんだろうって。
うちにいたら、大名暮らしなんだろうに」
「だいみょうって」
「なに不自由なく、暮らせるってことさ」
「お姫様でいられるのにって」
「そうさ」
小百合は、口元に笑いを浮かべて、
「親が、かまいすぎるのよ。うるさくって」
「なるほど、それならわかる」
「あたしは、もう大学生なんだからって、言うんだけど」
「いくつになっても、子は子だからね」
「夜遅くなると、玄関で、父が待ってるのよ」
「ふううん。大事な娘だものね」
「怒りはしないんだけどね。上り框ですわりこんでるの。悲しそうな顔で」
小百合は、困ったような顔つきになった。
「高校までで、たくさん」
「俺は、親が田舎にいるから、そんな気は遣わないけどさ」
「親御さんは、元気なの」
「うん。ばあちゃんと母と二人暮らし」
「ふううん」
「代々の農家なんだけど、これからは、学問で身を立てろって」
「田んぼがあるんでしょ」
「全部人に貸してあるんだ。畑は、ばあちゃんがせんざい物を作ってる。
母はパートで働いてるんだ」
小百合は、剛の横顔を見ながら話している。
以前より、剛がおしゃべりになったのに、気づいていた。
「なんだか、よくしゃべるようになったわね、ツウちゃん」
剛は、小百合の方を見て、
「あれ、そうだっけ」
「ほんとよ。前は、無口で、なんとなく暗かったわ。とっつきにくくって」
今朝がた、金縛りになったことを思いだした。
ふううとため息を吐いた。
塩をまいたのがきいたかな。
幽霊のやきもちが、やんでくれれば、と願う。
「そうか、おしゃべりにね」
ぼそりとつぶやいた。
不意に、白い便箋が脳裏に浮かんだ。
剛は声をひそめて、
「俺ンとこにさ、ゆうべ来たかい」
「あたしが、あのあとで」
小百合が歩みをとめた。
「うう、ううん」
大きく首をふった。
「なんで。なんでそんなこときくの」
「いや、別に。来なかったんなら、いいんだ」
「だって、外は真っ暗だったし。変なツウちゃん」
一列になって、校門をくぐって行く。
「じゃあ、またね」
小百合が、右手を軽くあげた。
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トントン。トントントン。
ドアが小刻みにたたかれた。
剛は、トースターで焼いた食パンをほうばっているところだった。
誰だか、おおよその見当がついた。
食パンを口にくわえたまま、ドアを開けた。
「おはよ」
「おう」
「よく眠れた」
「うん、まあ」
剛の両目の下が、黒っぽくなっている。
「そうでもなさそうね」
小百合は、じっと、剛の顔を見つめた。
「眠れなかったんだ」
剛は、返事をしない。
遠慮しているのか、小百合は、突っ立ったままだ。
「良かったら、あがりなよ」
上り口に腰かけた。
「何よ、この白い粉」
「何だと思う」
手でつまんで、舌の上にのせた。
「しょっぱいわ」
ふふふっと剛は笑った。
「ほんとになめるんだ、さゆりは」
気分がほぐれたのか、小百合は、おしゃべりになった。
靴を脱いで、立ち上がった。
「どうして、こんなとこに塩がまいてあるの」
「内緒なんだ、今のとこ」
「ないしょの話か。まあ、いいでしょう」
剛の胸を、右手でぐいと押した。
「パン、食べてたんだね」
声がはずんだ。
「そうだよ。小百合は」
「ちゃんとご飯をつくって食べたわ」
「えらいね。男はだめだね、その点」
テーブルわきの椅子を引きながら、「どうぞ」とすすめた。
「ありがとう」
電気ポットが、音を立てて湯気をはき出している。
「今、コーヒー入れるから。インスタントでもいい」
「うん」
素直に受け答えをしてくれるのが、剛は嬉しかった。
「砂糖はどうする」
「入れて」
「クリープは」
「お願い」
かちゃかちゃ鳴らしながら、小百合の前にカップをおいた。
勢いよく置いたので、コーヒーがこぼれた。
「あつっ」
小百合が左手を引っこめた。
「ごっ、ごめん」
「いいのよ、大丈夫」
小百合は、右手でカップの耳を持ちあげ、赤い唇に近づけた。
ふうっと息を吹きかけると、一口すすった。
小指を、ぴんと立てている。
「女の子の飲み方って、しゃれてるね」
「いやだわ、あんまり見つめないで」
白い受け皿の上に、カップをそっと戻した。
カップのふちに、赤い色がついた。
小百合は、指で器用にふきとった。
「あのさ、ツウちゃん」
「なんだい、あらたまって」
「いっしょに、学校へ行こうか」
「ああっ、いいよ」
小百合の顔がぱっと明るくなった。
剛は、あの封筒のことを、たずねてみようと思った。
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霧よりも煙に近い。
ふわふわ動いて、畳をはって来る。
まるで意志をもった生き物のようだ。
剛はそう思った。
近づくにつれ、息が苦しくなる。
はってでも、逃げだしたい。
枕のわきで、そいつがひと塊りになった。
すううと、天井に向かって立ち上がる。
剛は、はあはあとあえいでいる。
もう一人の剛が、一段高い所から、冷静に見ている。
横向きの人の姿になった。
筆で塗りたくるように、白煙が着色されていく。
パンッ。
風船がはじけた。
髪の長い女が立っていた。
口はきかない。
何だろう。これは。怒りだろうか。
熱のこもった感情が、剛の心に伝わって来た。
剛はのど元を、ぐっとしめつけられた。
もう駄目だ。
涙のひとしずくが、剛の頬をつたった。
突然、目的を達したかのように、煙が部屋から出て行く。
来たときよりも、速い。
「うう、ううっ」
自分の声に驚いて、剛は目覚めた。
ひたいやわきの下が、汗でびっしょりだった。
剛は、はっとした。
何かが、この部屋でおこったのだ。
詳しいことは、知りようがない。
建ててから、数十年のアパートだ。
さまざまな人たちが、この部屋を借りた。
色んなことが起こったであろう。
いいことばかりではない。
大家さんにしても、正直に言ってくれるわけではない。
「気をつけなさい」か。
俺が今、気をつけなくちゃならんのは、何だろう。
女難の相か。
黒髪は、象をもつなぐという。
いや違う。
何よりも、自分の行いを改めるのが先だ。
剛は立ちあがると、台所に行った。
タオルを水でゆすぐと、きつくしぼった。
顔やからだをふく。
背中が重い気がした。
何かを背負っているようだ。
ぶるっと、身体が震えた。
塩でもまいてやろうかな、相撲の力士みたいに。
剛は、真顔で、そう思った。
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裏にも表にも、何も記されてはいない。
封もしていなかった。
「何だろな。小百合のラブレターかな」
剛はそうつぶやいて、首をひねった。
おかしいよな。あんな態度だったのだし。
俺は夢でも見ているのかな。
何度も目をこすった。
あたりを見まわしたが、人の気配はない。
こんな封筒、いつ差し込まれたのだろう。
昨夜、部屋に入る時にはなかった。
ということは、今朝起きるまでの短い時間に
誰かが差し込んで行ったのだ。
そうとしか、考えられない。
中をのぞくと、便箋が入っている。
不意に、バイクのエンジン音が近づいて来た。
剛の前でとまった。
「おはようございます」
新聞配達の若い男が挨拶をした。
「大変ですね、朝が早いから」
剛は、軽く頭をさげた。
「はい、ありがとうございます」
すぐに、バイクは朝もやに包まれた。
右手に持った便箋を広げると、真ん中に、
爪楊枝くらいの長さの黒いしみがあった。
目を近づけると、こまかい字がならんでいる。
剛は、注意深く読んだ。
「気をつけてください」
それだけだった。
何のことやら、さっぱりわからない。
誰かのいたずらだろう。
剛はそう思い、封筒を破った。
腕時計を見た。
学校に行くまでには、かなり時間がある。
「もうひと寝入りするか」
部屋にもどると、また横になった。
急に、息苦しさを感じ、目を覚ました。
剛は、部屋のなかで横たわっている。
それは現実だった。
しかし、どこかがおかしい。
からだを動かそうにも、動かないのだ。
意識は、はっきりしていた。
襖の隙間から、白い霧状のものが入りこんでくる。
剛の息づかいが荒くなった。
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