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アパートの部屋のドアを開けると、剛は、靴を脱がずに
その場に横になった。
「ユリちゃん、どうもごちそうさまあでした」
手足をゆっくりばたつかせている。
ドアや壁を足でけった。
「うるせえな、何時だと思ってるんだ」
となりの住人が声をあらげた。
「ごめんなああさあい」
酔いがまわっているのか、ろれつがまわらない。
ふうふうと荒い息をはいた。
中華街で食事をしたあと、今度はおれがおごるからと、
お茶の水駅に近い飲み屋にユリをさそった。
払おうとして、ポケットをさぐったが、小銭が残っているだけだった。
結局、ユリが払った。
「うううつ、気持ちが悪い」
ふいに立ちあがって、蛇口に口をつけた。
回し過ぎたのか、勢いよく水が流れでた。
さけようとして、顔面に水がかかる。
二度、三度と、両手で顔をこすった。
「おはようございまあす」
トントン、トントン。
ドアが小刻みにたたかれた。
トントン。
「わかりましたよおお。しずかにい、しますから。
かんべんしてくださあい」
トントントン。
「ツウちゃん、あたしよ。さゆり」
剛のからだが、しゃきっとなった。
よろけながらも、ドアに近づいた。
ノブをまわす。
「どおう、したんだい。こんなにおそくう」
「ちょっと入るわよ」
剛の靴を脱がしはじめた。
「なんだよお」
「なんだよ、じゃないでしょ」
上着も脱がしにかかった。
「何すんだよ」
両手で小百合のからだを押し飛ばす。
壁にぶつかった。
「痛いじゃないの」
パシッ。
小百合のひら手がとんだ。
「いてっ」
頬をおさえて、床にうずくまった。
声をあげなくなった。
「そうそう、それでいいのよ」
肩をかして、寝室まで運ぶ。
万年床の上に、剛を横にした。
顔が天井を向いている。
「重いわねえ、ほんと。しっかりしてよ」
「ユリちゃん、ありがと」
小百合は、剛の尻をたたいた。
「ユリじゃないわ。小百合よ。何よ、こんな時に間違うなんて。
バカみたい」
「いいんです。ぼくはどうせバカなんですから」
両手で小百合の身体を抱き寄せた。
「やめて、いやだよ。酔っぱらってるんだから」
唇をとがらせて、小百合にせまる。
左右に顔をふって、小百合はあらがった。
剛は両手で小百合の顔をはさむ。
無理に、唇を押しつけた。
小百合は口を閉じたままだ。
剛の左手が、小百合の胸に伸びた。
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姿川恋物語シリーズ
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露地から出たところで、ユリに逢った。
「ああ、そこにいたんだ。なんだか道にまよちゃったよ」
余計な心配をさせないように、剛は気づかう。
「何よ、その首のきずは」
「ああ、これ。かすり傷さ」
剛は、手で傷をおおった。
ひっかれたところから、血が出ている。
「ひどいわ。手当しましょ」
ユリは、ツヨシの手を引いた。
「大したことないって」
幸いなことに、薬局が近かった。
薬剤師に見せ、つけ薬と絆創膏を買った。
剛の顔を見て、にやりと笑った。
「ほら、笑われちゃったじゃん」
「いいの。笑いたい人には笑わせておけば」
店の隅で、ユリは手当てをはじめた。
「しゃがんで。薬がつけられないでしょ」
「おお、しみる。もうちょっと、優しくやってくれよ」
「ぜいたく言わないの。やってもらえるだけ、いいと思わなきゃ」
ユリが真顔で言う。
「はいはい、わかりました」
「はい、は、一回でいいの」
「はい」
店を出た。
「お昼、おそくなっちゃったわね」
「うん。あの、おれさ」
「なによ」
「白い豚まんじゅう、ひとつ、つまみ食いしたんだ」
「ええ、どこで」
剛はふり返り、五十メートルくらい先を指さした。
「ああ、あそこのは、おいしいって、評判の店だわ」
剛は声をひそめた。
「金を払わないで、ぱくりと食べたんだ」
「怒られたでしょ、当然」
「ほら、これがそうさ」
「そんなことだ、と思ったわ」
えへへっと、照れ笑いを浮かべる。
「剛ね、私、言いたいこと言うけどいい」
「うん。何でも言って」
「剛ってさ、もてるでしょ」
さすがに、イエスと言えない。
後ろのポケットに両手を突っ込んで、口笛を吹きはじめた。
「いいのよ。海の魚ほどに女の人がいるんだから」
「海の、さかな」
例えが面白く、剛は笑顔になった。
「その代わり、広く浅くよ」
「わけが分かんないよ、ユリは」
「俺のことは、もういいんだ。さよならだね」
「違うわ。お友達なら、いっぱい作ってもいいってことよ」
「恋人はダメなんだ」
「もちろんよ。あたしがいるんだから」
「すごい自信だね」
「なんなら、首輪をして、チェーンでつないでおきますか」
「そうするわ。お望みなら。それじゃ、ワンちゃんに食べ物をあげましょうか」
「ううう、わんっ」
両手首を曲げて、ふざけた。
道行く人がふり返った。
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中華街に来るのは、初めてだった。
剛は、あたりをしきりに見まわす。
こんな場所が日本にあるんだ。まるで中国
に来たみたいだな、と思う。
店頭がにぎわっている。
「あの人だかりは、なんだろな」
剛の声は聞こえたはずだが、ユリはふり返らない。
さっさと前を歩いて行く。
「冷たいんだな。それならいいや」
剛は寄り道をすることにした。
白いふっくらした饅頭がうつわに並んでいる。
お腹が、ぐううっと鳴った。
ひとつふたつと売れて行く。
残りがひとつになった。
剛は思わず手を伸ばして、口にくわえた。
売り子の若い女は、怖い顔をした。
何か叫んだかと思うと、店の中に走りこんだ。
女が何を言っているのか、剛はわからない。
金はあとから払うつもりだった。
黒っぽいスーツを着た男が出てきた。
剛の方を見て、手招きした。
あとをついて行くと、露地に入った。
ふいに男が大きな声を出した。
四角い髭づら顔が赤くなった。
剛の胸ぐらをつかんで、壁に押し付けた。
腕力が強い。
両足が宙づりになった。
「払う、払うからおろしてくれ」
剛はズボンのポケットに右手を入れた。
百円玉が三枚あった。
それをにぎると、地面にばらまいた。
男は腕の力をゆるめた。
一枚、二枚と拾いはじめた。
剛は身づくろいをすると、大通りに向かった。
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剛が車にかけより、窓枠に手をかけた。
「ごっ、ごめん」
自然と口からでた。
「つよしったら、何か悪いことしたんだ」
ユリが顔を横に向ける。
他人を見るような表情になった。
「ねえ、ユリ。どこへ行くの」
剛はあせった。
「お客さん、長居はできませんよ」
運転手が冷たく言い放った。
窓ガラスが上がりはじめる。
剛は手をはなし、大げさに両手を広げた。
ユリが車内で手招きしている。
からだをわきにずらした。
ふいにドアが開いた。
ふううとため息をはいて、剛が乗りこんだ。
「中華街へ行ってください」
ユリが命じた。
「はい」
運転手は、右のバックミラーを見ながら、ゆっ
くりハンドルをきった。
ユリは前を見たままだ。
笑顔は、見せない。
深々と座席にすわると、剛は目をつぶった。
小百合とは、手をつないで歩いたり、軽くキ
スをかわす程度だった。
小百合が興奮して、熱い口づけを求めてくる
ことがあったが、剛はすぐにからだを放した。
俺には、ユリがいる。
その想いが、いつも頭からはなれなかった。
そのくらいの付き合いなら、ユリも許してくれ
ると思っていた。
甘い考えだった。
小百合は本気になっていった。
剛への想いは、つのるばかりだった。
怒っているのか、最近は連絡を入れても、まっ
たく応答がない。
ユリにの方を向いたり、小百合の方を向いたり、
まるで風見鶏のように心が変わる。
俺が変わったのかな。都会の風に吹かれて。
きっとそうだ。
右手を動かして、剛はユリの手をとろうとした。
ユリの左手にふれた。
さっと、手が逃げた。
ユリは、手を膝の上にのせた。
剛は、両手で頭をかかえた。
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ユリが立ち去るのに気づいたのは、ソフト
クリームを買い終えた時だった。
すでに公園の端を歩いている。
木々の間に見え隠れしていた。
JR関内駅方面に向かっている。
「おばさん、すまないけど、これビニール袋
に入れてもらえる」
「ああ、いいよ。だけど形がくずれちゃう」
「いいんだ。連れが行っちゃうもんだから」
「女の子かい」
「もちろん、そうさ」
袋を左手に持つと、走りだした。
腕時計を見た。
駅までおよそ十五分かかる。
横浜公園の前を通るはずだ。
剛は、途中で追いつけると思った。
山下公園をぬけ、大通りに出た。
午後一時前だ。
着いたばかりでこれから、一緒に昼食をと
ろうとしていた。
どうしたわけか、ユリの機嫌をそこねてしま
ったのだ。
剛にはまったく理由がわからなかった。
小百合のことは、一言も話してはいない。
彼女と付き合っていることを、ユリは知らな
い筈だった。
もう五分以上走っている。
袋の中のソフトは、解けてしまっていた。
横浜公園前まで来た。
ソフト入りの袋をゴミ箱に投げ捨てた。
「おかしいな。追いついてもいい頃なのに」
剛は歩道の端にすわりこんだ。
全速力で走ったせいで、息が切れていた。
はあはあとあえいだ。
剛は視線を左右に走らせている。
日曜日の横浜だ。
中華街が近い。
たくさんの人でにぎわっていた。
通りをバスや車が通りすぎる。
剛は、まだあきらめてはいない。
ここでギブアップしたら、ユリを失うかもしれ
ないと思った。こんな態度をとったことは一度
もなかったからだ。
右手首を目の前に近づけ、時刻を見た。
山下公園を出てから、二十分たっている。
ユリはすでに電車に乗ったかもしれない。
剛は望みを失くしかけた。
一台のタクシーが剛の前で停まった。
後部座席のグラスが下がり、ユリの顔がの
ぞいた。
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