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サイン会の終了時刻がせまっていた。
作家の前には、ほんの数人しかならんでいない。
「すべりこみセーフよ」
嬉しそうに言うと、ユリは足早に歩いて、最後尾の男の後ろにならんだ。
A氏は、あこがれの作家だった。
小説が好きで、中学生の時から本格的に読みはじめた。
大変な読書家だった父の影響が大きかった。
男ばかり三人の二番目に生まれた父は成績は優秀だったが、経済的な理由で
大学には行かせてもらえなかった。
高校を卒業すると、都内にある中小企業に就職した。
現実は厳しく、いくら働いても収入は伸びない。
これでは駄目だと、猛勉強した。
手始めに、大検に合格した。
地方から出てきたものにとって、出世するには教育しかなかった。
数年たち、会社の上司の信頼も勝ち得た。
しかし、いつまでも他人のもとで働いていたのでは駄目だと思った。
小さくても、自分の会社を持ちたかった。
その会社を辞めると、あまり強くなかった自分のからだを鍛え直そうと、自衛隊に入った。
その間に、さまざまな車の運転免許をすべて取った。
機械いじりが好きだった父である。
結局、独学で現在の会社を設立した。
結婚してからは、自分の子供にはできる限りの才能を発揮してもらいたかった。
長女として生まれた生まれたユリは、芸術的な雰囲気の中で育つことができた。
ピアノを教わったり、バレーのレッスンを受けたりした。
家庭には、文化的な香りも色濃く漂っていた。
父の書斎にはたくさんの本がならんでいた。
剛は、父に似たところがあった。
ツッパリ屋だが、繊細なところがある。
根は、まじめだ。
意外と、のんきなところがあり、育った家庭に、ちょっと窮屈さを感じていたユリは、
剛のそばではのんびりしていられた。
ユリは、ふり向いた。
新刊書売り場にいる剛とは、十メートルくらい離れている。
場所が場所だけに、大声を出せない。
口と手で、合図した。
ユリの口が五度大きく動き、右手でじゃんけんのハサミを出した。
五文字の言葉。そして、チョキ。
やれやれ、何のことやら。謎解きは苦手だ。
「列にならぶから、あなたは本を買って、私のところまで持って来て」
ユリの言いつけだった。
新刊本を一冊取りあげると、レジで金を払い、購入した本を右手に持ち、高くかかげた。
ユリは、首を大きくふった。
また、チョキをだした。
ユリの意図がのみこめた剛は、急いで、もう一冊買った。
サイン入りの本を大事そうにかかえた白髪の紳士が、ユリの前をゆっくりと歩き去る。
「次の方、どうぞ」
A氏のスタッフが声をかけた。
ユリのからだが、ビクッと震えた。
剛から、まだ本を受け取っていない。
手ぶらで、前に立つ。
ユリの顔は、恥ずかしさのあまり、紅潮していた。
涙がにじんだ。
何か言いたいのだが、言葉が出て来ない。
A氏は、にこやかな顔をくずさないでいる。
「ごめんな」
剛が、ようやくユリのもとに駆けつけた。
頭を下げ加減にして、わきからユリに本を二冊渡した。
「あなたも、並ぶのよ」
声をしぼりだした。
本を一冊持った右手を、ポンと剛のセーターの胸にあてた。
「こんなチャンスは、めったにないんだから」
ユリの言葉を聞いて、A氏は、わっはっはと笑った。
「手間どってすみません」
ユリが、上体を深々と折り曲げると、A氏は、
「いえ、もう最後ですから。二冊も買っていただいて感謝します」
と、軽く頭をさげた。
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姿川恋物語シリーズ
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人だかりの中にユリがまぎれこむ前に、剛は追いついた。
ユリの手を握った。
いやいやをするように、ユリはその手をふり払おうとした。
「いいわよ。ほっといて」
ふりむきもしないで、語気強くいった。
「おれ、忘れてたよ。ユリの誕生日」
「私のことなど、どうでもよくなったんでしょ。誰かいい人できたんでしょ」
「バカ言うんじゃない。いろいろ忙しくてさ」
「どうせあたしなんか、その程度の相手よ」
近くを通りかかった若いカップルが、立ち止まってふたりを眺めている。
女がくすっと笑う。
男も表情をくずした。
互いに見つめあっている。
剛は、ユリの手を放した。
とたんに、ユリは群衆の中にまぎれこんだ。
しょうがないや。怒っている時は、そばに寄らない方がいい。
剛は回れ右をすると、踏切に向かった。
十分後。
剛は温かいタオルで身体をふくと、畳の上にからだを横たえた。
玄関のドアは、少し開いている。
蛍光灯のある天井を見つめた。
今日は可笑しな日だな。
小百合が近寄ってくるし、ユリは立ち去るし。
神様はイタズラがお好きなんだろうか、と思う。
疲れがでたのか、剛はいびきをかきはじめた。
ドアをたたく音がした。
剛は寝入ったばかりだ。
いびきが響いている。
ユリは音をたてないようにして、部屋に入ってきた。
剛の身体に毛布をかけた。
電気こたつを持って来て、剛の両足を暖めるようにした。
剛のとなりにすわった。
ユリも、こたつのテーブルに上体をのせたままで、寝てしまった。
一時間後。
剛が目を覚ました。
ユリがそばにいる。
やっぱりな。思った通りだ。
誕生日なんだから、お祝いをしなくちゃ。
後ろから、ユリの身体を両手で抱いた。
「なっ、なに。ああ、びっくりした。よくできるわね、そんなこと」
「俺も鍛えられたからね」
うふふっと剛は笑う。
「剛も、都会の色に染まったんだ」
「さあ、どうだろ。どうでもいいだろ、そんなこと。これから、街に出よう」
ユリの腕をとった。
黙ったまま、ユリは仕度をはじめた。
剛が自分のコートを渡した。
「その恰好じゃ寒いから」
「男ものよ。恥ずかしいわ」
「風邪をひくよ」
「わかった」
素直に剛の言葉にしたがう。
「どこへ行こうか」
「S書店に行きたいのよ」
「ええっ。どうして」
「作家のAさんが来てるのよ」
「お気に入りなんだ」
「ええ。彼の本を買って、サインをしてもらうの」
「まだ、いるかな」
剛は、書店でのにぎわいを思い出していた。
ユリは手首をかえして、腕時計を見た。
「急げば間にあうわ」
「ごちそうは、そのあとだ」
剛がしっかりとした声で言った。
ユリの表情が、にわかに明るくなった。
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噂をすれば、なんとやらか。
偶然と言えば偶然だが、あまりにも出来すぎた出逢いに、剛は苦笑いを浮かべた。
「何を笑っているの」
ユリは真剣な眼差しで、剛の眼をみた。
剛はユリの視線をさけ、「ごめん」といって、額に垂れた髪の毛をあげた。
「これから、アルバイトなんでしょ」
「そうだよ」
「そんなに濡れて、どうしたというのよ」
「S書店から駆け足さ」
「傘がなかったの」
「そうさ。傘なんか持ち歩かないもの」
先ほどから、ユリとアイアイ傘である。
剛はやっとそれに気づいた。
「あっ、どうもありがとう」
遮断機がようやく上がった。
「何か用なの。ちょっと忙しいんだけど」
剛が早足になるので、ユリもつられた。
後ろから、大きな声をあげた。
「ねえ、今日はお休みにできないこと」
「ちょっと無理だね」と、前を向いたままで答えた。
「どうして」
「どうしてって、あと十分もしたら、仕事なんだよ」
「あたしが、どうしてもって、言っても」
剛はふりむき、大げさに両手を横に広げた。
「一体何があるんだよ。今日は」
怒るように言った。
ユリは立ちどまり、くるりと向きを変えた。
目に涙がにじんだ。
立ち去って行く。
剛は、あわてた。
仕事があるって、知ってるのにな。ユリだって。
ふだんは、無茶を言わない子なのに。
それらしき理由を思いめぐらす。
きょうは、四月の・・・・・・。あっ、ひょっとしたら、ユリの。
剛は、内ポケットの携帯に手をのばした。
もっと早く連絡しろよな。無理をきくのはこれっきりだぜ。
すみません。恩にきます。
店長との手短な会話のあと、剛はユリのあとを追った。
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「どうもありがとう」
差しかけられた傘を避けた。
「あら、どうして。濡れるじゃないの」
小百合は口をとがらした。
「ごめんね。ちょっと急ぐんだ」
剛は走りだした。
「ナンパしようとしたくせに、一体何なの」
語尾がきつくなった。
「バカッ」という声が背中で聞こえた。
お茶の水駅につづく坂道をのぼりながら、剛は思った。
小百合には、興味がある。東京生まれの東京育ちだ。
俺と同じおんぼろアパートに居住しているが、父親は会社の重役らしい。
俺にはあこがれの女性だ。
田舎者の俺には、手が届かない相手だ。
ユリがそばにいない。
いっしょに歩けないことはなかった。
できるなら、そうしたかった。
でも、・・・・・・。
道行く人を避けながら上がって行く。
アルバイトの始業時刻が近づいていた。
駅にたどり着いた時には、ずぶぬれになっていた。
息が荒くなっている。
壁際にもたれて、落ち着くのを待った。
通勤客が、怖いものを見るような眼差しで剛を見た。
ポケットのハンカチで顔をふいた。
ハンカチは水を吸って、すぐにびしょぬれになった。
両手でしぼる。
前髪から、しずくがしたたった。
いくらなんでも、この格好じゃ店には行けないと思う。
下宿は駅から近い。
いったん部屋にもどることにした。
剛は顔をあげた。
小降りになっている。
思いきって、走りだした。
駅前の商店街のネオンが、またたきはじめていた。
赤い信号が点滅している。
遮断機が下りていた。
電車が通りすぎるのを待つ。
田舎じゃ、くぐって向こう側のホームに行けないこともない。
都会じゃとても無理だ。
上りと下りの電車が頻繁に行き交う。
なかなか遮断機が上がらない。
「ずぶぬれじゃないの」
懐かしい声が耳元でした。
桜色のワンピースを着たユリが立っていた。
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高校時代からつっぱってきた剛だ。
しちさんに分けた髪の毛を、両手でくしゃくしゃにすると、オールバックになでつけた。
学生服の首のホックと第一ボタンをはずした。
女の前にまわって、ぬっと顔をつきだした。
女は一瞬目を丸くしたが、すぐに落ち着きのある顔にもどった。
ちぇ、人違いだったか、広い街だ。似た人は、結構いるもんだ。
剛は、自分の演技が役に立たなかったことにがっかりした。
うまくいけば、相手は笑ってくれたのに、と思った。
こうなりゃ、ここには用はない。
急ぎ足になった。
玄関をでると、路面がぬれていた。
霧のような雨だ。
春雨だ、濡れて行こうかあ。
剛は心の中でかぶいた。
横断歩道まで来て、信号待ちをする。
ふいに肩をたたかれた。
やわらかい感触だ。
今さっき、こんな光景があったなと剛は思う。
もっともあの時は、俺が野郎の肩をたたいたんだが・・・・・・。
もう一度、たたかれた。
ひょっとしたら、と淡い望みがわいた。
「ねえ、つよしさんでしょ」
うれしさがこみあげてきた。
だが、振り向かない。
うつむいたままでいる。
感情を押さえこもうと、ぐっと唇をかみしめた。
女が前にまわって、顔をのぞきこんだ。
「今度はわたしの番ね、お寝坊さん」
そう言って、笑顔を見せた。
剛は、わざとそっぽをむくと、
「同じアパートだよね。どっかで見たことあると思ったんだ」
と、両手をポケットに入れた。
信号が青に変わる。
雨が路面をたたきはじめた。
気にせずに、剛が歩きだした。
「あっ、濡れるよ」
小百合は、剛に傘をさしかけた。
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