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腕時計を見ると、午後四時を過ぎていた。
アルバイトが始まるまでには、まだ一時間ある。
剛は立ち読みでもしようと、S書店をのぞいた。
玄関先まで、人でいっぱいである。
「ねえ、一体何事なんですか」
前にいた若いインテリ風の男の肩を、剛がポンとたたいた。
男はふりむくと、
「知らないんですか」
と、眼鏡を人差指であげる仕草をして、じろりと剛の顔を見た。
「ええ、まあ」
剛の顔が、ぱっと赤くなった。
右手が頭に伸び、爪で二、三度かいた。
だが、すぐに剛はその手をおろした。
なんでえ、知らないものは、知らないんだ。
俺のどこが悪いんだ。
抗議する気持ちが心の中でわいた。
「売れっ子ミステリー作家のAさんが来てるんですよ」
男の声を聞きながら、剛は身体をよじって前に進んだ。
ミステリー小説は大好きだった。
人と人との間に、ほとんどすき間がなかった。
強引な割り込みと感じた連中から、ブ―イングが起こった。
若い女たちが、怪訝な表情をしている。
本が積み上げられているのが、剛の視界に入った。
よし、もう少しだ。ここでくじけちゃだめだ。
剛は、自分を奮い立たせた。
「ちょっくら、ごめんなすって」
野太い声が響くと、どよめきが起こった。
人ひとり、入れるだけの空間ができた。
「どれやねん。みしてみいいな」
関西弁を口にして、一番上の本を一冊取りあげた。
そのあとを追うようにして、ひとつふたつと、人の手がのびる。
ほんの数分で、高さがゼロになった。
店の奥にA氏がいるらしい。
顔を見たい気がするが、作家はあくまでも作品で勝負するものだ。
芸能人ではないのだから、風貌など関係ない。
昔の文士の面影が、剛の脳裏にこびりついていた。
何よりも。
今は、時間がなかった。
二十歳くらいの女性が、列の最後尾にならんだ。
大事そうに、本を両手で抱くようにしていた。
剛は、その女性の横顔を見て、首をかしげた。
どこかで見たような気がしたのだ。
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姿川恋物語シリーズ
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剛は、М大学商学部の学生である。
二回生までは一般教養がある。
午前も午後も、学校にいなければならなかった。
彼には、それが苦痛になってきた。
入学して驚いたことがある。
誰もが、勉強がよく出来るのだ。
高校時代はトップクラスにいた。
俺は勉強が出来るんだ、と思っていた。
都会では剛くらいのレベルの人は、ざらだった。
ちょっとしたカルチャショックといえる。
生活費を稼ぐために、夜、アルバイトをしている。
ほとんど毎日である。
クラブの勧誘を受けたが、すべて丁重に断った。
入学式の日、雨が降っていた。
式場前には、いくつものクラブの先輩たちが受付をしていた。
剛は、持っていた傘をたたんだ。
応援団の先輩が声をかけた。
「おい。すまないが、傘をかしてくれないか」
「はい、どうぞ。あとでその辺りに置いておいてください」
式終了後、受付に出向いたが、先輩はいなかった。
剛の傘もなかった。
壁に張り紙があった。
右の者は、あとで部室に来るように、とのことであった。
剛の名が、他の数名とともに書かれてあった。
オリエンテーションがあるので、学校に出かけた。
帰りに応援団の部室を訪れた。
学生服をきちんと身に付けた、いかつい顔をした連中が出入りしている。
田舎で突っ張っていた剛であったが、気後れするほどであった。
凄味がちがった。
挨拶が大きい。
押忍という声が、剛たちの度肝をぬいた。
傘を受け取りに来た連中のなかには、震えている者がいた。
剛が一番、度胸がすわっている。
ドアをノックした。
「傘をいただきにまいりました」
「押忍。入れ」
幹部クラスが三人、目の前にすわっていた。
「名前は」
剛は名乗らない。
黙っている。
「もう一度尋ねる」
「名前は」
「人に名を聞く前に、まず自分の名を告げてください」
三人は顔を見合わせている。
「いい度胸だ。俺が部長の山下だ」
「私は青山剛といいます。傘をいただきにきました」
「どうした。我が応援団に入る気はないか」
「私は苦学生です。アルバイトをやらなければ、学問を続けることができません。いずれのクラブにも、残念ながら入ることができないのです。四年間で卒業するつもりです。男親がおりません。祖母や母の面倒をみなくてはならないのです。せっかくのご勧誘ですが、お断りいたします」
三人の幹部は、仕方がないといった表情である。
「よし。よくわかった。帰ってもいい」
気の弱い男は、生返事をしたために、仕方なく入部したようであった。
大きな教室で、剛のいびきが響いている。
こういうところは、剛が田舎の高校生だったころと変わらない。
どこにでも、ユリのような優しい女性がいた。
机の上にノートを広げたままで眠っている剛を、近くにいた同じアパートの小百合が、彼の肩を揺すって起こそうとしている。
マイクで講義をしていたA助教授が、演壇から下りてきた。
「うっうううん。何だ。朝か」
周りの連中が声をあげて笑った。
「静かにしなさい」
Aが言った。
剛が突然立ち上がった。
「自主的に退出いたします。ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」
机の上に、何やら水滴のようなものが溜まっている。
彼女は、それをちり紙でふき取った。
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剛は、ためらっている。
初めての経験だった。
ユリが、優しい愛の刃のきっさきを、突きつけたのだ。
剛はどうしていいものやら、わからずにいる。
女の愛を目前にして、おろおろしているのだ。
みっともないが仕方がなかった。
剛の性分もある。
考えすぎるのである。
ほしいものは、子供がおもちゃをねだるように手に入れればいい。
荒々しいオスとしての情熱を解放すればいいのだ。
自然があたえてくれたようにふるまえば良かった。
だが、剛にはそれができなかった。
本を読んだり友だちに聞いたりして得た知識はあった。
愛するとは、こうしてああしてこうなること。
それらは厳しい現実の前では、すべて絵空事に思えた。
女の人とつき合った経験が少ない。
母ひとり子ひとりで育った。
祖母が同居している。
ばあちゃん子であった。
昔風の母の考えが、しみついていた。
修身とか純潔といった言葉が、教育の上に付いた。
剛は健康な男性である。
生理的な欲求は歳相応にあった。
男は、社会のきまりを守ろうとする繊細な生き物といえる。
いろいろ考えた末に、剛は、彼女のひたいに接吻した。
いまできる精一杯のことであった。
ユリは、明け方までそのままでいた。
目をつむっていた。
掛け布団を彼女の体にかぶせた。
眠っているものやら起きているものやら、剛には分からなかった。
ユリが、うらめしくさえ思えた。
横にはなったが、ずっと眠らないでいた。
神経が高ぶっていた。
剛は足音で目が覚めた。
ユリが朝食の用意をしていた。
テーブルの上には、湯気の立ちのぼるみそ汁と目玉焼きが、ひとり分のっている。
お盆に、茶碗に山盛りになったご飯をのせて来た。
剛は、ユリの横顔をちらっと見た。
「アパートの人に出逢わないうちに、あたし帰るね」
緊張している剛のそばに来た。
にっこり笑うと、頬にキスをした。
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エプロンをして、ユリが台所に立っている。
「大丈夫なんだ。寮のきまりが厳しいのに」
ユリは、くすっと笑った。
「実は、だめなの」
「やっぱり」
「用事があるから、家に帰るって、寮長に言って出てきたのよ」
「アルバイト、プラスアルファーの仕事だったんだ。こんなに遅くなったよ。困ったね。女友だちにでも電話して早く帰ってくれたらよかったのに」
剛は、ユリの真意をはかりかねている。
彼女の表情からすべてを読みとれるほどには、女性の気持ちが理解できない。
ユリは、テーブルの上に手作りの料理をのせていた。
鍋の半分くらいは、牛肉が占領している。
白ネギや豆腐、糸こんにゃくやシイタケが鍋のわきの皿に盛られている。
湯気が天井まであがっている。
ビール瓶が二本、鍋のわきに並んでいる。
「ずいぶん豪華な夕食だね」
「さあ、席について」
深めの器に卵が入れてある。
剛が椅子にすわった。
鍋の中をじっとのぞいている。
「何か言ってちょうだい」
「ああっごめん」
「どうもありがとう。ごちそうになります」
剛がユリを見つめて、いった。
「おなかすいたでしょ。たくさん召し上がれ」
「ありがとう、ユリちゃん」
「じゃあ、乾杯よ」
「かんぱい」
カチンと、グラスのぶつかる音がした。
剛は一気に飲み干した。
「ああっ、おいしい」
「このたくあんは、家から届いたものよ」
「故郷のたくあんは、おいしいものな」
「栄養をつけて、早く元気になってね」
ユリは思い切って、自分の右手を剛の左手にそっと重ねた。
剛の心臓の鼓動がはやくなった。
高校生の時からつっぱっていたわりには、初心であった。
まだユリのくちびるには触れていない。
母の躾けのせいで昔堅気であった。
剛は目をふせた。
鈍感な剛にも、ユリの気持ちが徐々に分かってきた。
電気こたつが四畳半の部屋の真ん中にあった。
ふたりは、隣同士にすわっている。
ユリの右手が、尺取虫のように動きはじめた。
剛はそれを見ている。
「ツヨシ、あたしね。あなたを」
そういうなり、剛の左手に両腕をからませた。
それでも、剛はどうしていいのかわからずにいる。
ユリが畳の上に身を横たえた。
剛は、ユリの覚悟がようやく分かった。
心の中で、やったあっと、叫んだ。
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通りの角を曲がって見えなくなるまで、剛はくるくるまわる赤色灯をぼんやり見つめていた。
やれやれまったく俺って命しらずなおせっかいな奴だと、心の中であきれている。
ユリが心配するのも、無理はないと思った。
ビルの谷間から、空を見上げた。
じっと目をこらすと、星が見える。
ユリは、俺にとってはあの星のようだ。
闇夜を照らす星灯りだ。
あまり心配かけるなよ、ツヨシ。
自分にそう言い聞かせた。
あの男。今頃パトカーの中で、しょぼくれているに違いない。
俺よりも若いように見えた。
どこで人生を間違えたんだか。
まっとうに、女性と付き合えないんだろう。
考えれば哀れな奴だ。
俺は俺で、三人組にぼかすかやられるまで、自分の腕力を過信していた節がある。
こんなに痛めつけられたことは、初めてだ。
おかげで色々と反省することができた。
無鉄砲な性分に、あらためて気づくこともできた。
二階の西の端が、剛の部屋である。
音を立てないように剛は、ゆっくり金属製の階段をのぼって行く。
踊り場についた。
部屋の前が明るい。
台所の電気が点いていた。
トントントントン。
包丁でまな板をたたく音がした。
おかしいな、いま時分。
ユリには、何かの折には部屋を使ってと、合鍵を渡してあった。
淡い希望が、心の中に湧いてくるのを感じた。
深夜である。
剛は、身構えながらドアのノブをまわした。
カチャッと開いた。
女の靴がそろえてぬいである。
ユリが来ている、と直感した。
「お帰りなさい、ツヨシ。お疲れ様」
ユリの声が耳に響いた。
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