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ビルの谷間から、星が見える。
梅雨の晴れ間である。
金曜の夜。
釜川沿いの道は一年前に比べると、にぎやかである。
不景気なのは、変わらない。
どの店も工夫を凝らすようになった。
メニューを増やす。
サービスに心がける。
生演奏等のイヴェントをやる。
客が納得のいく料金。
オリオン通りで、居酒屋が繁盛している。
安くてうまい酒が飲みたい。
庶民の願いだ。
バー美咲のドアベルが鳴った。
なあさんだった。
「いらっしゃいませ」
ママが笑顔で応対した。
どんな客でも、神様である。
うまくあしらうのが、プロといえる。
カウンターの止まり木にすわった。
新人のリツ子が付いた。
おしぼりを渡した。
「何をお飲みになりますか」
「初めてだね。俺の相手は」
「よろしくお願いします」
「ウイスキーをロックで」
「あたしも、同じのをいただいてもいいですか」
返事の代わりにうなずいた。
なあさんの左手が動き出す。
リツ子の膝にのった。
彼女は、かまわなかった。
ママが注意して見ていた。
感心している。
若い人はドライだわ。
めそめそしないから助かる。
なあさんは、ウイスキーをちびちびなめ始めた。
「ねえ、五木さんがおじょうずなんですってね」
「うん。今は、愛のままでを練習しているんだ」
「あの秋元さんの」
「そうだよ。やってみせようか」
「まあ、うれしい」
なあさんは、隅に設けてあるステージにのぼった。
前奏がはじまった。
ことおりたちはあ なにお さわぐのお あまあい
かじつがあ ほしいのですかあ
だれかとくらべる しあわせよおりもお いいまはあ
身振り手振りをまじえて歌う。
歌い終わると、誰もが拍手を惜しまなかった。
「ほんと、お上手。女泣かせのなあさん。ねえ、奥へ行きましょう」
チャリン。
紺のスーツ姿の青年が入って来た。
二十代前半に見える。
「いらっしゃいませ」
エミが、おしぼりを渡した。
彼は、棚に並んだ酒瓶をぼんやりとながめている。
おしぼりで、顔を拭いている。
「何をお飲みになりますか」
「ビールをお願いします」
顔が日に焼けている。
表情が暗い。
「哀しいことでも」
エミの顔を見つめた。
「分かりますか」
「ええ。今までたくさんの男の人を、見てきましたもの」
「どこかで仕事がしたくてね。今日も終日歩きどおしでした。去年から、がんばっているのだけど」
カウンターに目を落とした。
「そう。あなたのせいじゃないわ。こんなご時世ですもの」
「ありがとう」
どうぞ、とジョッキを目の前においた。
青年は、一気に飲み干した。
「あたしもいいかしら」
「ああ、どうぞ」
BGМが流れ出した。
「月へ飛ぶ想い」であった。
バーテンのFさんのお気にいりである。
「ねえ、踊りません」
エミが誘う。
「ぼくは、踊れないんだ」
「いいですよ。あたしにまかせて」
青年は、手に汗を握っている。
必死で、彼女にあわせようとしていた。
エミは、商売抜きで彼がいとおしく感じた。
彼の耳元でささやいた。
「あたしが応援してあげる。がんばって。悪いときばかりじゃないわ。夢をあきらめないで」
青年は感激している。
「哀しかったら泣けばいいのよ。男だって。その方がいいのよ」
涙をこぼしはじめた。
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釜川の女シリーズ
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五月の最後の日曜日。
昨夜から雨が降っている。
午後になって、雨脚が強くなった。
釜川の水位が上がっている。
土手の柳が、風で横になびいている。
南から台風が近づいているのだ。
陽子は、昔のように不安な気持ちには
ならない。
そばに男がいた。
一郎がいる。
先だって、魚芳でたまたま出逢った。
話しあいの結果、復縁することにした。
娘の穂の香は、昨秋結婚した。
今の幸せな気分が、お天気が悪いくらいの
不快感をふきとばしていた。
昨夜の客の接待で、疲れた体を茶の間で横たえている。
お店に出かけるぎりぎりまで、今日はそうしているつもりだ。
一郎は、U駅の構内にある鮨屋で勤めている。
客が市の郊外に、車で買い物に行ってしまうようになった。
О通りに客足がとだえた。
魚芳は暖簾をおろした。
カラオケパブ「美咲」に、灯りがともった。
ママは、ホステスをふたり増やした。
カウンターの中でママと陽子、すなわち百合が話をしている。
「今夜は客の入りは、どうかしらね」
「足元が悪いから、あまり期待できそうにありませんわね」
「でも分からないわよ。結構常連さんが増えたわ。
みんなが頑張ってくれてるおかげだわ」
「そう言って下さると嬉しいですわ」
バーテンダーさんがグラスをふき終えた。
今度は、カウンターの上を丹念に拭いている。
ママが言った。
「Fさん、今夜もよろしくお願いしますね」
返事の代わりに会釈をした。
「昔のお客さんと比べるのはどうかと思うけれど、
上手にお酒を飲める方が少なくなったわね」
「不景気がずっと続いている上に今度の大震災でしょ。
日本中どこでもシュンとしちゃったわ」
チャリン。
ドアの鈴音が、心なしか重く響いた。
「いらっしゃいませ」
ママが言った。
初めての客である。
暗い表情をした中年男であった。
足元が濡れている。
靴が泥だらけである。
店の奥にすわった。
百合がぬかずいて、おしぼりを手渡した。
潮の香りがした。
「ありがとう。ビールをジョッキで頼む」
「ありがとうございます」
上着の内ポケットから手帳を取り出した。
ボールペンで、何やら書き込んでいる。
男の眼が充血している。
女の直感は鋭い。
この人は哀しみを背負っている、と思った。
「お靴拭いてあげますわね」
「うん。悪いね。ありがとう」
靴を脱いで、スリッパに履き替えた。
手帳の上に涙が落ちている。
百合はママに言った。
「ちょっと放っておいてあげたらいいんじゃないの」
ママが応えた。
男はジョッキのビールを、一気に半分飲みほした。
ペンを右手に持ったままで、考えこんでいる。
チャリン、チャリン。
軽い鈴の音だ。
常連の義男さんが、三人連れで入ってきた。
百合のお気に入りである。
気分が軽くなった。
従業員三十人のネジ工場を経営している。
東南アジアにも工場がある。
月に一度は、飛行機で通っている。
ママが話しかけた。
「義男さん、しばらくですわ。お仕事、お忙しいようで
結構なことですね」
「そうなんだ。今日は下請けの社長、ふたりといっしょだ。
よろしく頼むよ」
「ええ。こちらこそよろしくお願いたします。
ご指名はございますか」
「百合ちゃんは」
「ちょっと、先のお客様に付いていますので。
すみませんね」
「新人さんがふたりいるのですが、よろしいですか」
「じゃあ、ふたりともよんでくれ」
「ありがとうございます。えみちゃん、りっちゃん。
ご指名ですよ」
ふたりが、店の奥からドレスアップした姿で現れた。
えみはオレンジ、りつ子は黄色のドレスに身を
つつんでいる。
「はじめまして。どうぞ、ごひいきに」
ふたりそろってお辞儀をした。
ふたてにわかれて、接待をはじめた。
店の奥にひとりでいた男が、突然立ち上がった。
「勘定を頼む」
レジの前に立った。
百合は、足元に靴をそろえた。
「ありがとう。親切は忘れないよ」
ぽつんと言った。
ドアから外に出た。
百合は、テーブルの上に手帳を見つけた。
広げたままであった。
家族らしき名前が、みっつ書き連ねてある。
いずれの名の上にも、バツが記されていた。
住所はМ県であった。
百合は、はっとした。
一瞬で、すべてがわかった。
男の後を追った。
懸命に走った。
О通り方面に、釜川沿いを歩いていた。
背中がさびしかった。
「お客様、お忘れ物ですよ」
「ありがとう。わざわざ届けてくれて。大切な物なんだ」
「どうぞ、よろしかったらまたお越しくださいね。
お待ち申しております」
百合は丁寧に頭を下げた。
男の眼が、涙できらりと光った。
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