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ひろ子の心は、本当は穏やかではなかった。
若い女である。
「初めての変身が、あのような生き物とは」
と、自分の身の上をのろった。
今まで何度も、まわりの者のからだが変わ
るのを見てきた。
いずれは自分だって、何かに変身するもの
と覚悟してもいた。
それが、なんと巨大なヒルに変わるとは。
神の思し召しとはいえ、情けなかった。
自分の意思とは関わりなく、からだが突然
変わってしまったのである。
あのままでは、間違いなく清人に化けた曲
者に殺されていた。
隠れていた能力が、極限状況とみて、出現
したといえる。
これで、人としての幸せを求めることは、無
理だと知った。
大学に入って以来、清人を好ましい男性と
見ていた。何だって、彼と相談してきた。
ほのかな恋心をいだいて来たのだ。
それなのに・・・・・・。
ひろ子は、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
本物の清人に、自分の素性を知られたわけ
ではないが、いずれは分かることだ。
彼がそれを知った時、何と思うだろう。
ひろ子は、それが怖かった。
しかし、そのことで、ひろ子を捨てるような男
であれば、それはそれで、仕方がない。
ひろ子は、腹をくくった。
結局は、自分の血が許さなかったのだ。
ヤッシンに、おのれの決意を示したのも、道
理であった。
ふりむくと、康夫がいつもの男らしい姿に戻っ
ていた。
ひろ子は思わず、ほほ笑んだ。
「姫様、お笑いになりましたね」
「ええっ」
「安心しました。ひどく心配していたんですよ」
「何がなの」
「おきれいな姫様が、あのような変わり身を
なされたので」
ひろ子は、ふっきれた表情で、
「もう心配にはおよびません」
と、真面目な顔つきで言った。
あえて、涙はぬぐわなかった。
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怪奇小説
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アパートの裏は、空き地になっていた。
雑木が生い茂っている。
道のきわに、「M不動産管理」と記した看板が
立っていた。
巨大なヒルは、用が済んだとばかりに、もぞも
ぞと裏手に向かった。
「よし、あとかたづけだ」
すぐに気を取り直したヤッシンは、曲者のムクロを
ひょいっと肩にかつぐと、ヒルのあとを追った。
「やれやれ、お姫様も変わった術を使うわい。
ヒルに化けるとわな。さすがに山里生まれだけの
ことはある」
人間なら、約七割が体液だ。野人も、それは
ほとんど変わらない。
体重が半分以下になっていて、とても軽かった。
空き地の地面は腐葉土だった。
太い枯れ木で、容易に地面をほることができた。
敵とはいえ、もとは仲間である。
そっと穴に置くと、土をかぶせた。
「こうなる前に、ちょっと俺に相談してくれれば
いいものを」
ヤッシンは、手を合わせて冥福を祈った。
「えらいわ、康夫さん」
後ろで、ひろ子の声がした。
ヤッシンはふり返り、
「今は敵同士になってしまいましたが、もとは同
族ですから」
と、うつむいたままで言った。
「とにかく、平和だったのは、きのうまでです。こ
れからは、気を引き締めなくてはなりません」
ひろ子が、悲壮な決意を述べた。
ヤッシンは、ひろ子のわきで臣下としての礼を尽
くした。
「はい。いろいろと世話をかけますが、よろしくお
願いします。この際、私の夢をお話ししておきます」
「はっ」
「いずれは山奥のわが故郷に帰ろうと思います。
私は今でも、山の民が平和に暮らすことを望んで
います。跳ねあがりの連中との戦いが終われば、
穏やかな変化を望む一族の人々との話し合いの
道も開けるでしょう。里の民と山の民が、自由に行
き来することができる世の中が、きっと来ると信じ
ています。そのための学問です」
ヤッシンの眼から涙がこぼれた。
夕陽が木々の間にさしこんできた。
あたりが茜色に染まる。
ひろ子は、沈みゆく太陽をまぶしそうに眺めた。
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アパートの玄関先にひろ子がいる。
長い髪を肩までたらした若い男と話しこん
でいた。
右手に青いポリバケツを持っている。
ひろ子は、ヤッシンがそばを通り過ぎても、
まったく気づかない。
「ねえ、清人くん。今さっきまでここにいた
連中。やっぱりあれかな。二階に住んでいる
人の仲間なの」
「どうもそうらしいんだ。風紀がわるくなるか
ら、大家さんは早めに出るように話している
らしいんだけれど、なかなかそうはいかない
ようなんだ」
階段を、誰かが降りて来る。
靴音が響いた。
螺旋階段を見上げると、黒い靴と紅い靴が
見えた。
エレベーターがあるが、二人はめったに使
わない。
サングラスをかけ、頭髪をスポーツ刈りにし
た中年の男が若い女を連れて、下りてきた。
男は黒いジャンパーを腕を通さずに肩にか
けている。
女は、男の腕に右手をからんでいる。
男が、青いポリバケツを見た。
清人が軽く会釈をすると、男はちょっと唇の
端を動かした。
「ねえ、まだなのかしら。迎えの連中は」
「ううん。そんな訳ねえんだけどな」
「時間を守るように言ってね」
「わかってるよ」
男は腕時計を見た。
「野郎どもめ、十分遅刻だな」
女が路地の奥を見つめた。
黒い乗用車が走って来るところだ。
「ねえ、あれじゃない」
「そうだ。とっちめてくれる」
ふたりのそばに、停まった。
車のドアが開いて、二人がとび出してきた。
「どうもあにさん、遅れてすみません」
「どうもじゃねえだろ。遅れやがって」
背の高い若者を手をふって呼びつけた。
左の耳たぶをつかんで、
「今はな、わかってるだろ、組同士のケン
カの最中なんだぞ」
と、低いがどすの利いた声で言った。
二人が車に乗り込むと、運転手はアクセルを
ふかした。
またたく間に大通りに出る角まで走り、右の
方向指示器を点滅させた。
「やれやれね」
ひろ子のとなりで、ピンクのスーツ姿の女が
声をかけた。
ひろ子は、あっと思った。
「それじゃ、清人くん。また明日学校でね」
「うん。それじゃ」
ふいに、ポリバケツが床に転がった。
清人は、ひろ子をはがいじめにして、ナイフを
のどに当てた。
ひろ子は、声も出ない。
「ふっふっふ、油断したのが運のつきさ」
顔見知りの清人の声ではない。
曲者が、ひろ子の咽喉を貫こうとして、力を
込めた。
ひろ子のからだが、ずるりと下に落ちた。
「げっ。なっなんだ、これはっ」
ぬめぬめした茶色の皮膚でおおわれたヒルが、
コンクリートの上をはい出した。
大人のからだくらいの大きさだ。
曲者の足もとにはいより、からだにまとわ
りついて行く。
ヒルの重みに耐えきれずに、倒れこんだ。
チュッチュチュ。
曲者の咽喉に食いついた口が、盛んに血を
吸っている。
見る間に、魚の日干しのようになった。
ヤッシンは、びっくりして声も出ない。
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春の日は長い。
午後五時を過ぎても、明るかった。
大通りを右に曲がり、路地にはいった。
ひろ子が借りているアパートは、もうすぐだ。
康夫は、先ほどから何も言わなくなった。
緊張しているのだ。
ひろ子のボデーガードである。
久しぶりにヤッシンに逢えた嬉しさから、
ひろ子はのんびりしていた。
故郷のことをしきりに思いだしていた。
二、三分歩いたろうか、左側に立派な建物が
見えてきた。
「ほら、あれよ。私のアパート」
康夫は、視線を前方に移した。
「ずいぶん立派なアパートですね」
「今は、学生だって、こんな所に住んでいるのよ」
ひろ子は、得意そうに言った。
「家賃が結構高いでしょうに」
「アルバイトするから、平気よ」
「そんなもんですかねえ」
アパートの玄関先に黒い乗用車がとまっている。
運転席にサングラスをかけたスーツ姿の男が
ひとりいる。
二人の男が車に寄りかかって、タバコをくゆらし
ていた。
ガムでもかんでいるのだろう。
しきりに口を動かしている。
暗い雰囲気が、まわりに漂っていた。
敵か味方か。
瞬時に判断しなくてはならない。
山で見かけたことのない連中だが、気はぬけない。
悪だくみを抱いている人間からも、妖しい気は発
するものだ。
「姫様、ちょっと待っていて下さい」
ひろ子を物陰に誘導すると、康夫は歩きだした。
山からさし向けられた奴らかどうかは、はっきりし
ない。
少なくとも暗殺者ではない。
このように、おおっぴらに、姿を見せるはずはない
からだ。
わざと、彼らのわきを通って行った。
車の左側にいた男のそばを、通り過ぎる。
康夫をにらみつけ、左足を康夫の前にだした。
すばやく、康夫は跳びあがった。
「ちえっ、見かけによらず、はしっこいな、てめえは」
悪態をついた。
「さっきから、こっちをじろじろ見やがって」
康夫は身構えた。
車のテールランプのあたりのボデーを、ドンと蹴飛
ばした。
「野郎、何をしやがる」
康夫は、路地の奥へと走り出した。
外にいた二人が追いかけてくる。
車も動き出した。
バックして、二人の後をゆっくりついて来た。
康夫は、狭い路地に身をかくすと呼吸をととのえ、
両手で印を結んだ。
山の中で変身するようなわけにはいかない。
ふわっと白い煙がたちこめ、康夫の身を包んだ。
康夫を見つけようと、躍起になっている二人の
わきを、ピンクのスーツを着た若い女性が歩いて
通りすぎて行った。
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十年ぶりに見るヤッシンの顔だ。
肌がライトブラウンだ。
長かった髪の毛をばっさりと切り、七三に
分けている。
相変わらずハンサムであるが、黒い毛に
白いものがちらほらまじっている。
人間なら、三十歳台前半である。
ひろ子は、わざと知らんふりをしてやりすご
した。
ヤッシンは五、六歩進んで、きびすを返した。
ひろ子の五メートルくらいあとを、ぴたりと
ついてくる。
ひろ子は、手鏡をショウルダーバッグから
取り出し、手に持った。
それを合図にしたかのように、ヤッシンが
そばに来た。
「ひめさま、お久しぶりです」
と、言いながら、となりにならんだ。
ひろ子は、うんとうなずいて、手鏡を見た。
「ここにいることが、よくわかりましたね」
ヤッシンは、指で鼻をこすり、
「なんだって、お見通しです」
と、微笑んだ。
「まあ、こわい」
「こわくはありませんよ。あなたに危険が
せまれば、かけつける手はずになっています」
「それはいいけど、お風呂の中までのぞか
れるのは、いやですもの」
ヤッシンは、顔を赤らめて、
「とっとんでもない。そんな場面まで、見られ
ませんよ」
と、むきになって言った。
「冗談よ。何でも本気にとるところなんて。
昔と変わらないわ。手鏡を使うまでもなく、あ
なたは、ヤッシンさん」
ひろ子は、ヤッシンと腕を組もうと手をのば
した。
「えっ」と言って、ヤッシンは腕をひっこめたが、
ひろ子は、無理に手をこじいれた。
ヤッシンは、厳しい表情であたりを見まわした。
人ごみのなかに、ふたりはまぎれこんでいるも
のの、油断はできない。
ヤッシンは、ひろ子の成長ぶりに眼をみはった。
まるでサナギが蝶に変わったようだ、と思った。
からだから若いオーラが放たれている。
まぶしいほどだった。
「これから、アパートに帰ります」
ひろ子は、緊張した表情で言った。
「はいっ」
「いっしょに来れますか」
「ええっ、お共します」
「じゃあ、その前にお茶でも飲みましょう」
急にくだけた口調になった。
「お茶、ですか。すみません、都会の暮らしは
初めてなので」
「私にまかせて」
「よろしくお願いします」
ひろ子は、ぷっとふきだした。
「ヤッシンなんて、変よ。やすおさんにしたら」
と、笑いかけた。
「やすおさん」
「そう。山中康夫。あなたは、私のお兄さん役。
私の強い味方よ」
ひろ子は、そう言って、頭を康夫の肩にのせた。
ヤッシンは、ぎこちなく歩きだした。
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