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一本の矢が、ひろ子に向けられていた。
木立のなかである。
曲者の姿は、見えない。
弓は、きりりと引きしぼられ、今にも放たれ
ようとしていた。
たつまきが、たくさんの桜の花びらを巻き
こんでいた。
ひろ子の姿が見えにくい。
なかなか照準を合わせられないでいる。
矢先が右に左に動く。
「ちっ」
曲者は、舌を打った。
白い羽織、袴をまとっている。
ざああっ。ざっ。
大粒のひょうが降るような音がした。
オオワシが、木立のなかに舞いおりたのだ。
鋭い爪で、弓弾く者に襲いかかった。
藪の中が騒がしくなったが、少しの間だった。
最初の一撃で、暗殺者の目が突かれ、えぐ
りとられた。
生い茂る若草の上に、血しぶきをあげて、
倒れた。
オオワシは、ふたたび空に舞いあがった。
ふわりとブランコの横棒にとまった。
「さわひめかっ」
重々しい声だ。
だが、人間の声ではない。
ひろ子は、聞き覚えがあった。
「あなたは、どなたですか」
「わしか。名前など、ない」
「今、竜巻が起こりましたが」
「わしが、羽ばたいたのじゃ。曲者がお前を
ねらっておったのでな」
「ええっ」
「驚くのも無理ないことだ。山の一族の急進
派が暗殺を企てたのじゃ」
「信じられぬのなら、あの木立の中を見て来
るとよい。奴のむくろがころがっているぞ」
ひろ子は、顔をおおった。
「案じるでない。お前はひとりではない。ヤッシ
ンもおる」
オオワシは大きく羽ばたくと、ふわりと空中に
舞いあがった。
二度、三度と羽ばたき、見る間に黒い点になっ
て消えた。
「十年間、何の襲撃もなかったのに」
ひろ子は、悲しくなった。
涙がこぼれ落ちた。
だが、すぐに敵に立ち向かうための新しい力が、
ふつふつと身の内からわいて来るのを感じた。
ブランコからさっと立ちあがると、つかつかと
歩き出した。
酔客でにぎわう、U公園内の通りにでた。
下宿のアパートへ向かうのだ。
これからは周りに用心しなくてはならない、
と思う。
前方をじっと見つめた。
見覚えのある男性が、歩いてくるのが見えた。
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怪奇小説
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十年後の春。
沢田ひろ子は、Т芸大に入学した。
栄二とゆり子の、いわばハーフである。
芸術的な才能があったのか、小学生の頃か
ら高校まで、一貫して絵画の評価が高かった。
ゆり子は、大切なひとり娘を大都会に住まわ
せることを心配したが、ひろ子は自分の意志を
押しとおした。
山の一族の襲撃は、最近はない。
ひろ子が小学生の低学年の時に、お婆に山
に連れさられそうになった。
それ以降は、表だった動きが見られない。
お山でも、変化があった。
オサのタイジンが病気で亡くなり、一番上
の息子が跡とりになっていた。
だが、彼らは決してあきらめたわけではない。
油断はできないが、戦いの間のつかの間の
平和が、沢田家にも訪れていた。
U公園は、桜が満開になった。
人々が花の下で、宴を開いている。
ブランコに乗っているひろ子の肩に、花び
らがふりかかる。
風が吹くたびに、長い髪をなびかせた。
十八歳のわりに、大人びている。
憂いを帯びた知的な陰りを、顔に滲ませて
いた。
とても、栄二に似ている。
ひろ子は、涙を流していた。
ブランコが前にふれるたびに、S池が見
えた。
この冬は、例年になく、厳しい寒さだった。
祖母の美代が肺炎をわずらい、あっけなく
世を去ってしまった。
とても優しかった。
世間の心ないウワサを気にせずに、心から
可愛がってくれた。
とてもあつかいにくい子どもだった、と思う。
成長してくるにつれて、とんでもない力を
発揮した。
いっそ、ふつうの子どもであれば、良かっ
たのにと、祖母は考えたに違いない。
ふいに、桜の花びらがひろ子のからだに
激しくふりそそいだ。
ひろ子の姿が見えないほどだ。
ごうごうと音を立てて、空気が渦巻きはじ
めた。
一羽のオオワシが、ひろ子の頭上を旋回
していた。
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車はバックせずに、そのまま、坂道をのぼって行く。
「ねえ、お家へ帰るんじゃないの」
ひろ子は、不安げな顔で、窓の外をながめている。
最近、身のまわりで不思議なことばかり起きる。
そのたびに、小さな胸を痛めた。
山の一族は、変わり身の術を使う。
目の前にいるヤッシンとて、本物かどうかわからない。
「おうちへ、帰って。お願い。ばあちゃんが待ってるの」
ひろ子は、泣きそうになった。
でも、歯をくいしばった。
優しい母の顔が、不意に脳裏に浮かんだからだ。
ひろ子の手に、何か光る物を渡そうとしていた。
あっ、そうだわ。この鏡。
ひろ子は、大切なことを、ひとつ、思いだした。
母のゆり子が、
「いいこと、ひろ子。もしものことがあったら、この手鏡を
お使いなさい。これは、相手の本当の姿を映し出します」
スカートのポケットから、手鏡をとりだした。
運転席のヤッシンを映してみた。
鏡がキラッと光った。
別に変わった姿は、映らない。
ひろ子が見ている、ヤッシンそのままだった。
この人は、だいじょうぶだわ、と思った。
ほっとため息をついた。
でも、お返事くらいきちんとしてくれても、よさそうなものなのに。
ひろ子は、独り言を言った。
「いい鏡を持ってるんですね」
「うん。母さんからもらったの」
バックミラーに、ヤッシンの笑顔が見えた
「そうだったんですか。お母様はさすがですね。用心深い。さあ、着きましたよ」
道は、そこで行き止まりだった。
あたりに人影はない。
「ちょっと待っていてください」
ヤッシンは、ドアを開けて、外に出ようとした。
「あたし、こわいわ。ひとりにしないで」
ひろ子は、ヤッシンの背中の衣服を右手でつかんだ。
バックミラーに、大人の女性が映ったように思えた。
にこにこ笑っていた。
「あっ、母さんだ」
「ほらっ、だいじょうぶだと言ったでしょ」
ヤッシンは、外にでると、後ろのドアを開けた。
ゆり子が入るなり、ひろ子が飛びついて来た。
「ねえねえ、母さん。あたし怖かったのよ。ヤッシンたらね、
お母さんに逢いに行くって、言わなかったの」
「よしよし、ひろ子。泣くんじゃない。今まで偉かったね。
お母さんは、もうだいじょうぶだよ」
「姫様。よく出て来られましたね。今、お迎えに行こうとして
いたんです」
「あなたを待ち切れなかったんです。周囲をうかがいながら、
洞窟を抜けだして来ました」
ひろ子が、ゆり子の胸に抱かれた。
「ちょっとの間に、とても重くなったこと。それにしても、ヤッシン。
こんな子どもに心配させてはいけませんね。一言足りないのは、
小さい頃と変わらないわ」
ヤッシンは、すまなそうに、ぺこりと頭をさげた。
「ばぶう、ばぶう」
ひろ子は、赤ちゃんのマネをしはじめた。
[第一部 了」
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ヤッシンの腕だった。
手のひらをたたいた枯れ枝は、ぽきりと折
れた。
変わり身の術を使ってはいない。
筋骨隆々としたからだではなかったので、
痛みはある。
「ひめさまっ。沢姫様」
初めて見るヤッシンの素顔である。
両ひざを地面につき、頭をさげている。
家の庭先で敵と戦った時は、まるでゴリラだ
った。
切れ長の目をしたいい男だ。
ひろ子は驚いて、目をみはった。
テレビで目にする俳優に似ている、と思った。
長い黒髪を後ろで束ねていた。
ミョンギは坂道をはいずって行こうとしている。
早く逃げたいのだが、腰が立たない。
「こんな奴でも、たたいてはいけません。私に
おまかせ下さい」
ひろ子はヤッシンの言うことが、分からない。
自分を姫と呼び、うやまってくれている。
「お前は、沢姫なるぞ。行儀良くしなさい」
何者かは、分からない。
重々しい男の声だ。
聞いたことがない声が、ひろ子の心の中で響
いた。
大人しくしないといけないと、思った。
「わかったわ、ごめんなさい。なんだかよくわか
んないけど」
「それでいいんですよ。だんだんに分かって来
ますから」
「あれっ」
と叫んで、ひろ子がミョンギを指さした。
ミョンギのからだが変わっていた。
老いさらばえた野人が、地面にうずくまっていた。
悲しげに吠えている。
「姫様、ちょっと向こうを見て、耳をふさいでいて
ください」
ヤッシンはそう言うなり、
「ぐわっ」と吠えた。
ひとりの野人が、ミョンギのからだを肩にかつぐと、
走り出した。
数分後。
ヤッシンが、ひろ子のもとへ舞い戻った。
イケメン姿である。
にこにこしながら、
「さあ、帰りましょう」
と言って、後部座席のドアを開けた。
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車のギアが、セコンドに入った。
Aは、アクセルを踏んだ。
エンジン音が大きくなる。
はきだす煙が多くなった。
「とめて、とめて。せんせい、とめて」
ひろ子は、窓ガラスをどんどんたたいている。
前庭に美代の姿をみとめたのだ。
竹ぼうきで枯れ葉を掃いていた。
わあっと、泣き出した。
今度は、両足でドアをけり出した。
「やれやれ、もっとやれ。どうせ、誰も助けに
来やしないぞえ。子どもなんぞ、うるさいだけで、
ちっともかわいくなぞあるものか」
老婆はおのれのみにくい心をあらわにして、言った。
小さな子をさらってくるのは、山の一族の誰もがいや
がった。
オサのタイジンは、嫌われ者のこの老婆に、白羽の
矢を立てたのである。
「ほんとの担任のA先生は、どこにいるのよおお」
「えへっへっ。今頃は、水車小屋のなかで泣いている
ことだろうて。
学校に来る途中で、このババのミョンギと入れかわったのさ。
あの気のいい美人先生。わしが、ちょいとイケメンになりすま
したら、すっかり信じて、だまされおったわい」
もうすぐ、栄二の小屋である。
突然、ミョンギは車を停めた。
「なんだ。あの木は」
道をよこぎるようにして、大木が倒れていた。
「まったく邪魔な木だ。ちょっと、じっとしていろ」
と、ひろ子に言い残すと、ミョンギは、ドアを開けた。
その木を持ち上げようとした。
うううん。
グキッ。
腰が鳴った。
ミョンギは、地面にころがった。
「いっててっ」
ひろ子は、チャンスをうかがっていたのだ。
静かにドアを開けると、ドアと車体の狭い隙間から抜けだした。
そろりそろりと、坂道をくだりはじめた。
ミョンギは、
「こら、逃げるな。待て」
と、叫んだ。
ひろ子は、ふりかえって、
「いやだよお、あっかんべえ」
と、ふざけてみせた。
「おいしいものをやるからな。こっちさ、来い。
なっなっ、ひろちゃんは、とっても優しい子なんだよな。
ばあちゃんこと、助けてくれるよな」
ミョンギは、しくしく泣きはじめた。
ひろ子は、ミョンギがいるところに戻って行く。
しめしめ。何と言っても幼い子どもだ。戻って来るわい。
よしよし、もう少しだ。もう二、三歩。こっちさ、来い。
そしたら、・・・・・・。
ミョンギの胸がわくわくした。
ひろ子は、落ちていた太い枯れ枝をつかむと、ミョンギの頭に
打ちおろした。
だが、頭に当たらなかった。
大きな太いこぶしが、枝をつかんでいた。
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