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A駅の改札口を淑子は、通りぬけている。
午後十時だ。
駅前広場には、タクシーが列をつくっている。
新入社員の歓迎会があったから、帰りが遅くなっちゃたわ。
どうしようかな。タクシーをひろえば、二、三分で寮まで帰れる。
お酒が入ったから、少し体がふらふらする。
夜風に当たるとするか。
酔いがさめるしな。
徒歩だと、どのくらい時間がかかるかな。
昼間、歩いたことがあるわ。
思いきって、歩きだした。
駅前の雑踏をすぐに通りぬけた。
桜並木がつづく。
このところの暖かさで、蕾がかなりふくらんでいる。
もう少しね。
夜桜が見られるのも。
ライトアップされるそうだし、友だちと花見に来なくっちゃ。
冷たいものを飲もうと、コンビニに立ち寄った。
店内で、同じ寮に住む総務課のS子に逢った。
二十五歳だ。三歳年上である。
淑子は、経理課に配属された。
「あら、淑子さん。今帰りなの」
「ええ、駅から歩いてきたんです」
「まあ、強いのね。ここまでけっこう時間が、かかったでしょ」
「学生時代にテニスで足腰をきたえました」
「気をつけてね。ここから寮まで十分くらいだわ。街灯もまばらで、暗がりが多い。寮の付近は、この頃変な人がうろついているようよ。おどかすわけじゃないけど」
「ええそうなんですか。あたし来たばかりで、何も知らないものですから。走って行きます」
「一緒に帰れればいいんだけど、ちょっと寄るところがあるから。ごめんね」
S子は自転車を乗りだした。
駅方面に向かった。
痴漢がいるのかあ。来るなら来てみろ。
この鍛え上げた足で蹴りあげてやる。
ずいぶん勇ましい。
まだ酔いがまわっている。
寮につづく坂道まで、小走りにかけてきた。
夢中だった。
あと少しだわ。よかった。何もなくて。
ほっとした。
スポーツドリンクで、喉をうるおした。
坂道を登りはじめた。
街灯は二十メートルくらいの間隔で、道の右側に立っていた。
左側が暗い。
寮の灯りが、丘の上に見えている。
つけられていると感じたのは、歩きだしてすぐだった。
二人分の足音を聞いた。
誰の足音だろう。
重い音だわ。
男だ。
どうしよう。
後ろは振り向かない方がよさそうだわ。
男は、歩みをそろえている。
淑子は、怖くてたまらない。
駆けだした。
寮の正門が見えた。
もうちょっと。
頬を正面から叩かれた。
鼻と口をふさがれた。
ショルダーバッグのひもを引っ張られた。
道に倒れた。
そのまま路地に引きずりこまれた。
男が蔽いかぶさる。
タバコの匂いがした。
もうだめ。
目をつむった。
ぎゃあと、男が叫んだ。
股間を両手でおさえている。
「淑子、あぶなかったね」
聞き覚えがあった。
弘樹の声だわ。でもこんな所にいるわけない。
「ひろき、ひろきなの」
街灯を背にしている。
顔がよく見えない。
「そうだ。びっくりしたかい」
「ええ。でもどうして、ここにいるの」
「今朝早く、布団の中にいるとき、きみの声をきいたような気がしたのさ」
「ええ、あたし、何て言ったの」
「たすけてって」
「だから会社を休んでかけつけたのさ。間にあってよかった」
「休んでまで来てくれたんだ」
「電車で二時間くらいかかるもんな。ここまで来るのに」
「本当にありがとう」
「いいんだよ。俺は大学時代の元彼だもの」
淑子は、弘樹に抱きついた。
「あたし、今もあなたのことが」
後は、言葉にならない。
弘樹が、淑子にキスをしている。
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逃げるシリーズ
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