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ある少年

 「じいちゃん」 
 太郎が、小さい声で祖父に声をかけた。
 いとこの花子は、寝室にいる。
 「何だい、」
 「花子ちゃんって、ずいぶんしっかり者だね。ぼく、びっくりしたよ。歳はいくつ」
 「身体は小さいけれど、十六だ。高校一年生なわけなんだが、一年だけ、みんなより遅れてるんだ。実の父親が働き者で、金の心配をすることは、なかったんだけどな」
 祖父は、それ以上は、話したくないような素振りを見せている。
 いつもなら、引きさがる太郎だった。
 今回は、真剣だった。
 「顔がまん丸くふくらんでるようだけど、どこか具合が悪いんじゃないかと思うんだ」
 祖父は、すぐには返事をせずにいた。
 「まあ、お前だって花子の身内なんだからな。実はな、病気なんだ。市内の大学病院に、月に一回くらい通っておるんだが、なかなか完治するのは難しいということなんだ」
 太郎は驚いた。
 何と答えたらいいのか、わからなくなった。
 自分よりも辛い人生を送っている。
 それでも、ぼくに意見するほどに、気丈にふるまっている。
 「人って、見かけによらないんだね、じいちゃん」
 「そうだぞ。まあ、太郎、人生は長い。ゆっくり色んなことを、覚えていけばいいことだ。花子のことは、あまり心配するな。じいちゃんとばあちゃんが、付いているからな」
 「うん」
 その夜は、あまり眠れなかった。
 外が白々としてきた。
 僕まで、祖父母に負担をかけないようにしようと決めた。
 ひとりで、上高地に行きたいんだと、祖父に告げた。
 そりゃいいや、気分が晴れるぞと、心よく承諾してくれた。
 松本電鉄に乗って、終点で降りればいい。
 そこからは、バスに乗って行けばいいと丁寧に教えてくれた。
 花子も、JR松本駅で見送ってくれた。
 これっ、と言って、祖父はチリ紙に包んだ紙幣を、太郎のポケットに入れた。
 電車が走り出した。
 幹が太いリンゴの木がたくさん生えていた。
 小さな緑色の実をつけている。
 ポケットからチリ紙をとりだして、中身を確認した。
 一万円札が二枚入っていた。
 大金だった。
 たまにしかやれないからな、と駅で祖父が耳打ちしたことを思い出した。
 バスに乗り換えた。
 急な坂道をのぼって行く。
 耳の中がツーンといって、聞こえにくくなった。
 急いで、つばを飲み込んだ。
 太郎は、一度も日本海を見たことがなかった。
 上高地からは早めにUターンして、新潟に行ってみようと思った
 どうしても、ひとりで、これからの自分の将来を考えてみたい。
 人生で一度くらい、そんな時期があってもいいじゃないか。
 太郎はそう思った。
 色んな想いが、太郎の脳裏を駆け巡りはじめた。 
 河童橋で、雪をいただく穂高連峰を望んだ。
 この景色は、人間への、神様の贈り物のように思えた。
 松本駅で、祖父の家に電話を入れた。
 「僕は、これから日本海を見に行きます。時々連絡をいれます。心配しないでください」
 「まあ、昔ならお前は、元服する歳だ。家の先祖には、偉いお武家さまがおったほどだ。いろいろ考えたいことが
あるんじゃろう。じいちゃんも、腹をくくった。好きなようにするがいい。他人様に迷惑をかけるんじゃないぞ。何かあったら、いつでもいいから、すぐに電話しろ」
 祖父の物分かりの良さに、勉は心を打たれた。
 涙が頬を伝いはじめた。

家出少年と少女 1

 性ホルモンのひとしずくが、ポトリと落ちた。
 胸の乳首がうずいた。
 声帯が痛んだような声がでた。
 勉は、体の中で、大あらしが吹き荒れているのを感じていた。
 心が、急激な身体の変化に、ついていけなかった。
 突きあげて来る生理的な衝動に、いらいらするばかりであった。
 
 親にも話せなかった。
 軽い足音が、階段をあがってくる。
 部屋の前で、とまった。
 ママだった。
 「つとむ、おやつを持って来たわ。開けてもいい」
 勉は、だまっていた。
 ママは、僕のことが分からない。
 分かろうとしない。
 自分のことばかりだ。
 最近、前よりおしゃれして、水泳教室に出かけるようになった。
 気になる男性コーチが、いるのかな。
 大人って、いやだな。
 妄想がわいた。
 「ここへ置いて行くわね。お勉強がんばってね。お兄ちゃんみたいに、私立高校に入学できればいいね」
 勉は、机の上を、こぶしでドンとたたいた。
 ガチャン。
 母は驚いて、お盆を落としたらしい。
 
 父は、いつも帰りが遅かった。
 残業だ、つき合いだ、と言いわけを繰り返した。
 勉は、男同士の話がしたかった。 
 お父さんの中学二年生の頃はどうだったの、と聞いてみたかった。
 父と母は、よく口論をした。
 時には、大声をあげた。
 「どうして、カッターシャツの襟に、口紅がついてるのよ」
 「香水の匂いがするわ」
 「遅くまで、誰といっしょだったの」
 父は、母の一言一言に、理由をつけて話していた。
 ふたりの間に、思いやりがなくなっていった。
 アラ拾いばかりするになっていた。
 妹の百合が、可愛そうだった。
 泣いてばかりいた。
 もう、うんざりだ。
 子供がいない所で、ケンカをしてほしい。
 ママもパパも大好きなんだ。
 とりつくろってもいい。
 家庭では、仲良くしてほしかった。
 
 夏休みに入った。 
 勉は、JR新宿駅のプラットホームにいた。
 表向きは、母の実家を訪ねる。
 心の中では、家から少しでも逃げ出したかった。
 松本駅で、祖父が出迎えてくれた。
 「つとむ、よく来たね。部活はどうした。夏休みでもあるんだろ。大丈夫なのか」
 「ぼくは文化部だから、わりと、フリーなんだ」
 「お母さんは、元気か」
 「うん、元気だよ。元気過ぎるくらい」
 勉は利口だった。
 祖父に心配させるようなことは、一言もいわなかった。
 「いられるだけ、ここにいるといいよ。東京より涼しいしな。お城や名所旧跡がたくさんあるぞ」
 「ありがとう。思い出をいっぱい作ろう、と思ってるんだ」 
 秘密を胸にしまいこんで、祖父の家に向かった。
 

生きがい 

 A子は、闇の世界で生きている。
 常に夫のBが寄り添っている。 
 唯一の楽しみがある。
 近所にある日帰り温泉に行くことだ。
 人の歌を聞いたり、自分が歌ったりする。
 二人とも七十歳がらみである。
 演歌が好きだ。
 妻が歌うときは、夫が後ろにいる。
 歌詞を先読みする。
 画面の歌詞を夫が読み間違えて、ふたりがステージで文句を言いあうことがある。
 大広間の客が微笑む。 
 毎週水曜日の午後にやって来る。
 夫の手のぬくもりが生きる支えだ。
 人々の間にいても、心が安らかでいられるのである。
 暗い海を航行する船を導く灯台のようなものであった。
 Bは、彼女の右手を両腕でかかえたまま館内に入って行く。
 
 ジュンは、ホストクラブで働いている。
 いつかは人気ナンバーワンになりたいと願っている。
 なかなか客の気持ちをつかめない。
 歌がうまい上に、作詞の勉強もしている。
 多才な好青年である。
 
 ある日曜日、ジュンは、時々歌の練習をしている日帰り温泉に出かけた。
 A子夫妻も、日曜にもかかわらず来ていた。
 「こんにちは」
 ジュンが声をかけた。
 「まあ、ジュンさん。久しぶりね。元気だった」
 「ええ、まあ」
 「М子さんもお元気なようですね」
 「どう、ホストのお仕事のほうは」
 「相変わらず、お店のワーストワンの記録を更新し続けています」
 ジュンは頭をかいた。
 「あなた、何かうれしいことがあったでしょ」
 「ううん。別に何もありませんよ」
 「わたしね、声を聞くだけで、その人の気持ちが分かるようになったの。不思議なくらいよ」
 「目が不自由だから、その分きっと耳が良くなったんだと思うの。恋人が出来ましたか」
 ジュンは、S子のことを思った。
 恋人と呼べるほどの人ではないが、好意は抱いている。
 「ぼくの歌の友だちなんですが、懇意にしている女の子がいます」
 「彼女、テレビのカラオケ番組で優勝したんですよ」
 「その子を今度連れて来てね」
 「はい」
 「ジュンちゃん。一曲歌って」
 A子が百円玉を二枚、ジュンに渡そうとした。 
 「そんなあ、いらないです。何でもいいですか。僕、歌いますから」 
 夫のBがいった。
 「俺、ひと風呂あびてくる」
 「ええ、いいわ。ここで皆さんの歌を聴いているから」
 「わたしがいますから、大丈夫ですよ。どうぞ、ごゆっくり」
 ジュンが言った。
 ジュンが、十八番の「ワインレッドの心」を歌い終えた。
 広間の酔っ払いまでが、手を叩いている。
 「あたしがやってみようかな」
 A子が立ちあがった。
 テーブルに手を触れながら、ゆっくりとステージに近づいて行く。
 ジュンが心配している。
 「段差がありますよ」
 声をかけた。
 A子がつまづいて、転んでしまった。
 広間には十人くらいいた。
 ジュンは、すぐに行って抱き起こしたいと思ったが、ためらっていた。
 A子は座り込んだまま、両手でげんろくをさすっている。
 「大丈夫ですか」
 ジュンは、思い切ってA子の右手を両手でにぎった。
 彼女は、右腕に力をこめた。
 夫のBが戻って来た。
 妻が席にいないのに気付いて、辺りを見回している。
 両手をA子の体に回して、抱き起こした。
 「おめえ、また太ったんじゃないか」
 「余計なこといわないの」
 「ジュンさん、悪かったね。ありがとう」
 Bが礼をいった。 
 「いいえ、もっと気をつけていないといけなかったのに。すみません」
 「俺の代わりをあんたにやらせられないよ。喜んでるよ。女房のやつ。あんたのファンなんだから」
 Bは、顔にしわを寄せて笑った。
 俺も夢を捨てずに、地道にがんばらないといけないやと、ジュンは思った。
 
 

闇に咲く

 電車が通るたびに、部屋全体が揺れる。
 ガード下に建てられたアパート。
 街で一番家賃が安い。
 体の芯が燃えていても、女は冷静だった。
 男の背中をポンポンとたたいた。
 「もうおよしなさいよ。帰る所があるんでしょ」
 女は、男の重みをずっと感じ続けていた。
 つい先ほどから、ぐっと重みが増した。
 「眠っちゃだめよ、あなた」
 両手で下から、男の体をグイッと押した。
 ごろっと、わきに転がる。
 ずいぶんお腹が出っ張ってる、と思った。
 
 女は、下着を素早く身につけた。
 上着を羽織る。
 あの人の為に、ちょっと荒療治をしてやらなくっちゃ、と思った。
 部屋の隅にある台所に行った。
 水道の蛇口をひねる。
 両手を洗う。
 しずくが垂れている。
 可愛そうかな、と思った。
 男の顔をなでた。
 「なっなんだ。つめてえな」
 目をあけた。
 「顔を洗ってあげたの。いつまでも眠っているから」
 「ひでえことをする」
 男は、ゆっくりと上体を起こした。
 腕時計を見た。
 「あれっ、やばいな」
 「さっき、終電が通ったわよ」
 「ちえっ」
 「だから起こしてやったのよ。あたしを可愛がってくれるのは嬉しいけど。なんなら、泊まって行く」
 「いや、それは」
 男は、衣服を身につけた。
 上がり框で、靴を履きはじめた。
 「あっちへ行ったりこっちへ来たり、蜜蜂が花を求めて、飛びまわっているようだわ」
 「まあ、もう少し待ってろ。女房と別れて、お前と一緒になるからな」
 「聞きあきたわ。そのセリフ。あたしだって、あなたがあたしのことを、まともに考えてくれているかどうかくらい分かるわ」
 キッとした表情で、男をにらんだ。
 男がドアを開けた。
 踊り場に立った。
 女は、ドアを閉めはじめる。
 男は、ノブをさっとつかんだ。
 「しあわせにするって、言ってるじゃないか」
 「みんな寝てるんだから、静かにして。どこまでも甘ちゃんね。あなたって人は」
 声を低めて言った。
 女は、ドアをバタンと閉めた。
 男は、階段をよろけながら下りていく。
 靴をきちんと履いていなかった。
 途中で、足を踏み外した。
 階下で、わめく声がしている。
 
 
 
 
 

闇鏡

 右手で手鏡を持って、Т子は自分の顔をのぞいた。
 眼差しが輝いている。
 今までは、心の憂いが表情に現れているかもしれない、と怖がっていた。
 今回は、危ういところで、大切な人を失くすところだった。
 自分の意識がとどかない心の闇は、つくづく恐ろしいものだと思った。
 考えすぎる自分の欠点を、М子の応援や祖母の言葉でクリアできた。
 
 Т子は、Sをずっと愛していた。
 Sも同じように、自分のことを想っていてくれるものと信じていた。
 五月の最初の日曜日だった。
 曇り空である。
 私鉄のL駅の上りホームに立っていた。
 D町のあるデパートで、衣料品のバーゲンセールを開催する。
 その初日であった。
 開店と同時に入りたかった。
 初夏向きのТシャツが、ほしかったのである。
 
 電車がホームに入ってきた。
 鎌倉方面に向かう客で混雑していた。
 昇降口の近くに立つことにした。
 次の駅で降りるからである。
 吊革につかまり、何気なく外を見た。
 向かいのホームにいる男が気になった。
 Sだった。
 そう思った。
 女と連れだっている。
 手をつないで歩いている。
 微笑みあっていた。 
 寄り添って、キスをかわした。 
 やっぱりそうなんだ。あたしの胸の内がざわつくと、いつも何かが起こる、とТ子は思った。
 心の中で、何かがバチンとはじけた。
 電車が動きだした。
 彼らの姿が視界から消えるまで、Т子はずっと見つめていた。
 
 翌週の月曜日。
 Т子は、お茶当番だった。
 早めに出社した。
 「おはよう、Т子。調子はどう」
 同期のМ子が気遣ってくれた。
 「おはよう」
 М子は営業部に所属している。
 Т子は総務部だった。
 М子は、いつも微笑んでいる。
 明るい性格のおかげで、得意先の受けが良かった。
 「どうしたのよ。さえない顔してるわ」
 「そおう」
 「そうよ。もうじき結婚するって人が、そんなんじゃね」
 「ううん」
 「彼とケンカでもしたの」
 やはり顔に出るんだ、とТ子は思った。
 「目は心の窓だよ。気をつけなさい」
 去年亡くなった祖母が言い残した。
 
 「ううん。別に」
 Т子が、間をおいて答えた。
 「煮え切らないのね。良かったら何でも言ってね。あたしは今まで、随分あなたに力を貸してもらったんだから。恩返しをしなきゃと思っているんだ」
 М子が励ます。
 「ありがとう。そう言ってくれるだけで嬉しいわ。でも、今回は自分で解決したいの」
 「それなら仕方ないけど。がんばってね」 
 Sは、М子と同じ部署であった。
 М子の上司である。
 「おはようございます、係長」
 「おはよう」
 「Т子にあいましたわ」
 「そう」
 「それだけですか」
 Sは、怪訝な表情を浮かべた。
 「それだけって、どういうこと」
 「Т子、元気なかったですよ。六月には、花嫁になるっていうのに」
 「どうしたんだろうね。あとで尋ねてみるよ」
 「それはそうと、今日の仕事の段取りはついたの」
 「はい。午前十時にA社のBさんとお会いすることになっています。午後は二時にC社に出向いて、新発売の事務用品の売り込みをする予定です」
 「がんばってくれたまえ」
 「はい」
 
 お昼休み。
 Т子とSは、屋上にいる。
 手すりによりかかって、海の方を眺めている。
 ふたり並んでいる。
 「元気ないんだって。М子が心配していたよ」
 「気になる。あたしのこと」
 「気になるさ。当たり前だろ」
 「そうかしら」
 「あなた、あたしのこと、本当に愛してくれているの」
 「俺が信じられないんだ」
 Т子は遠くを見た。
 「あたし、見ちゃったのよ。あなたを。L駅のホームで、女と仲良くしているところを」
 「ええ、そんな」
 「日曜の朝よ」
 「誰かと見間違えたんじゃないか。ずっと友だちのBとテニスをしていたんだから」
 「そうなんだ。テニスをね」
 人違いをするわけがない。
 彼の体の隅々まで知っているんだから、あたし。愛するって、そういうことだもの。
 Bに聞いても、ムダなことである。口裏を合わせているかもしれない。
 そう思った。
 
 Т子は、ひとりで海岸にいる。
 断崖に立っている。
 波が岩にくだけている。
 夕陽をじっと見つめている。
 風が出てきた。
 長い髪がなびいている。
 涙が頬をつたう。
 小指のエンゲージリングをぬきとった。
 
 左手に持っていたバッグの中で何かが、キラッと光った。
 愛用の手鏡だった。
 
 夕陽が当たった訳でもないし、何かのお告げかしら、と思った。
 ひょっとしたら、彼の事。あたしが見間違ったのかも知れない。
 あたしって、独りよがりなところが昔からある。
 結婚を控えて、ちょっとのことでも、とても感情的になっていた。
 「妄想するなかれって、お釈迦様がおっしゃっているよ」
 「何だって人を疑うからには、とことん納得するまで調べてからにしなさい」
 祖母は、色んなことを教えてくれた。
 「あたしが、幸せになれるかどうかの瀬戸際よ」
 そう声に出した。
 手鏡が、リングを投げるのを思いとどまらせてくれたんだ。
 バッグから取り出した。
 顔の前にかざす。
 あたしの顔が明るく見えた。
 「明るいのよ、あたしの前途は」
 「闇の向こうには、光の世界が広がっているんだ」 
 「あたしは幸せになるんだ」
 海に向かって、大声で叫んだ。
 鏡面が夕陽をあびて、キラキラ輝いていた。
  
 
 
 
 

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