|
桜子は、栄一と手をつないで歩いた。
「おかげさまで、夢がかないました。本当に
ありがとうございます」
栄一はつないだ桜子の手を、ぐっと握りし
めた。
初めは、桜子を自分のものにしたくて、ひ
いきにしてきた。
いつの頃からだったろうか。
自分の気持ちが、大きく変わり始めた。
年老いたせいもあるのだろうが・・・。
親身になっている自分に気が付いて驚い
た。嵐山で逢った時、店を持たないかと言っ
た。からだがほしいだけなら、そこまでする
必要がなかった。
桜子が、バイクにぶつけられて、病院に
運ばれたことがあった。
彼女のために何ができるだろうかと、必
死に考えた。
神にも、仏にも祈った。
栄一は、桜子を愛しはじめたのだ。
彼女の母親と話した時に、それは決定的
になった。
桜子のことを、いろいろと聞かせてもらった。
彼女の人間性を、より深く理解できたのだ。
桜子も、栄一の変わりように驚いていた。
以前は、すぐにからだに触りたがった。
人の気持ちなど、まったく考えなかった。
まるで栄一のおもちゃだった。
傍若無人な振る舞いにあきれた。
心の中で軽蔑していた。
栄一の事業が順調になったのもうなずける。
人の心を、必死で受けとめようとしてきた賜物
だった。おかげで、部下やお得意様の心をつか
むことができたのだ。
まあ、今でも、昔のクセが出ることがあるけど。
それは、ご愛きょうだ。
聖人君子じゃないんだから。
勝手口で、栄一が、
「疲れたろうから、今日はこれで帰る」
と、言った。
桜子は、ふりかえって、目をつむった。
栄一は、桜子を思い切り抱きしめ、口づけを
した。
了
|
花シリーズ
[ リスト | 詳細 ]
|
その夜は、早めに店を閉めた。
初日にしては、客が少なく、寂しいもの
だった。
桜子は、外に出て、客を見送った。
夜風が冷たかった。
「先生、本当にありがとうございました。
母もよろしく言っていました」
深々とお辞儀をした。
「ぼくがいて、良かった。いろいろとこれ
からも、問題があるだろうけど、なんとかのり
きっていってね。応援するからさ」
大通りまで一緒に歩いた。
「先生、小説のお仕事の方はいかがですか」
「ありがとう。おかげで、順調だよ。ミステリー
物を書こうと頑張っているんだ。ぼくには、まっ
たく新しいジャンルなんで、ちょっと大変なんだ
けどね」
「いろいろと、ご苦労がおありなんですね」
「実力の世界だからね。ちょっとでも努力をお
こたると干されてしまう」
「私どもも、おんなじですわ」
街灯のない暗がりだった。
ふたり並んで、道端を歩いている。
ふいに、そばを自転車が通りすぎた。
無灯火だった。
Kは、身体をひねって、接触事故を避けた。
「まったく、あぶない奴だな」
「変な人が多いですね。話がまったく通じない」
「小説の世界より、恐ろしいことが起きるしね」
橋のたもとに出た。
Kは手をあげた。
方向指示器を点滅させたタクシーが、すぐにそ
ばに寄って来た。
「おおっ、さすがに早い」
「餅はモチ屋ですものね」
桜子は、笑顔になっていた。
タクシーが見えなくなるまで、見送っていた。
ふりかえると、栄一が立っていた。
「さくらちゃん、ご苦労さまでした。疲れたろう」
「ええっ」と言って、栄一の胸にとびこんだ。
「今晩は、さくらちゃんのわきで寝るかな」
栄一の手が、以前のように動き出した。
|
|
奥の席で様子を見ていたKが、突然立ち
あがった。
にこにこ笑いながら、歩いて行く。
カウンターで息巻いている男に近づいた。
男は、まるでザリガニが大きな前足を大き
く広げたようだった。
放った言葉を、戻すに戻せない。
こわばった顔つきのままで、桜子の反応を
うかがっていた。
どうせすぐに弱腰になるだろう。
あとひと押しだ。
「どうなんだい」
口をへの字に曲げた。
「よお、たっちゃん」
と、道で知りあいを見かけたように、Kは、気
安く男に声をかけた。
誰だ、俺の名前を気安く呼びやがって。
男は、ぎろっと、Kをにらんだ。
うん、あれは、確か。
この間の料亭で、親分と酒を酌み交わしてい
た人だ。
Kさんって、親分が呼んでいたな。
これは、まずいことになった。
ある人に嫌がらせを頼まれてやって来たが、
これ以上は無理だ。
男は、Kの顔を見るなり、態度をあらためた。
「なんで、Kさんじゃありませんか。この店と
お知り合いなんで」
「ああ、ここのママとは、古くからのつき合い
なんだ」
「そりゃ、まったく失礼いたしました」
「今日は、めでたい席なんだ。気に入らない
こともあるだろうが、ぼくに免じてかんべんして
もらえないだろうか」
「そりゃもう。作家先生は、うちの親分の
お気に入りなんですもの」
たっちゃんは、両手をこすり合わせている。
「そうしてくれますか。ありがたい。どうです。
向こうで、ぼくといっぱいやりませんか」
「折角ですから、それじゃ一杯だけ」
サングラスの男は、身なりを整えると、Kに
従った。
「あなたもどうぞ」
Kは、若い衆も招いた。
「いや、あいつは、よろしいですので」
辰は、遠慮した。
「かずさん、何か好きな物をうかがってく
ださい」
「はい」
「すみやせん」
若者は、恐縮して、頭をさげた。
差し向かいで、Kと辰はすわった。
桜子が、おしぼりをひとつ持って、テーブ
ルに行った。
「何がよろしいんで」
Kに、たずねた。
「たっちゃん、何飲む」
「じゃあ、水割を一杯」
「わかりました」
辰は、ひたいに汗をかいている。
おしぼりを広げて、ふいた。
「どうです。商売の方は」
「これからは、秋祭りがあちこちであるん
で、結構いそがしくなります」
「それは、それは。結構な実入りになりますね」
「まあ。ぼちぼちですがね」
「よかったら、連絡ください。私もご一緒します」
「先生が、何の用事なんでしょうね」
「今僕はね、各地の神社の祭りを調べているん
ですよ」
「お仕事と関係があるんで」
「もちろんそうです」
「わかりました。連絡いたしやす」
「じゃあ、ここへお願いします」
Kは、ペンで数字をすらすらと書くと、手帳を
引きちぎった。
たっちゃんは、それを受け取ると、
「先生、ちょっと用事がありますんで。今日の
所は、この辺で失礼します」
「そうですか。それは、残念ですね」
Kは、上着の内ポケットから札入れを取り
だした。
一万円札を二枚つまむと、たっちゃんの手に
握らせた。
「あっ、先生。こんなこと、いいんですよ。親分に
叱られますから」
「黙っていれば、分からないですよ。何かうまい
ものでも食べて帰ってください」
たっちゃんは、手下に、
「おいっ」
と、呼びかけた。
桜子の方に向きなおると、
「どうもすみませんでした」
と、消え入りそうな声で言った。
|
|
桜子は店の奥で、ドアをじっと見つめていた。
栄一の会社の人が三人来ただけで、あとは、
客足がとだえている。
チャリン。
桜子は、威勢良く声を上げようと、身構えた。
黒いサングラスをかけ、茶系のジャケットを
肩にかけただけの男が、入ってきた。
口髭を生やしている。
背に虎の顔を描いたジャンパーを着て、青い
ジーパンをはいた若い男が、あとに続いた。
うしろのポケットに両手をつっこみ、ハの字
を描くように歩く。
「いらっしゃいませ」
桜子が声をかけたが、途中で声がしぼんだ。
ふたりは、カウンターの止まり木にすわった。
「ありがとうございます。ようこそいらっしゃい
ました」
桜子は、わきに行って、頭を軽く下げた。
「いい店だな」
サングラスの男が、ジャケットのポケットから
タバコを出した。
桜子は、袂に手を入れ、ライターをつかんだ。
男が口にくわえると同時に、タバコの先に火を
点けた。
深く吸い込んだ煙を、桜子の顔めがけて、
はき出した。
ゴホン、ゴホン。
桜子はせきこんだ。
その筋の人だと思うけど、一度も見たことが
ないわ。
バーテンのかずさんに、要注意だと、目で合
図した。
チャリン、チャリン。
桜子の表情が、ぱっと明るくなった。
小説家のKだった。
手に花束を持っている。
「いらっしゃいませ」
今度は、終わりまで、しっかりと発声ができた。
「さくらちゃん、おめでとう」
赤いバラが、二十本はある。
「すてきなお花。ありがとうございます」
「歳幾つだっけ、さくらちゃん。少なめに持って
来たよ」
Kは、無遠慮に言った。
桜子は、微笑んで、頭を下げた。
「花輪まで、飾っていただきまして」
と、奥の席に案内しながら言った。
ガチャン。
後ろで、ビンの倒れる音がした。
久美が、かずさんの後ろで震えていた。
「よお、ママよ」
桜子が、ふりむいた。
サングラスの男が、カウンターにのった灰皿を、
棚に投げつけたのだ。
「ここじゃ、なにか。客によってサービスに
差をつけるんか、ええっ」
立ちあがって、すごんだ。
|
|
四条大橋のたもとに、物件が見つかった。
栄一が、知り合いの不動産屋に頼んでお
いてくれたのだ。
資金繰りにいきづまり、前の経営者が手放
した店だ。礼金、敷金そして三か月分の家賃
を、栄一は、ぽんと出してくれた。
桜子の実家が近い。
開店の日。
店の前には花輪がならんだ。
「このたびは、えらい娘が世話をかけまして。
こんな立派な店を出してもらいまして、ありが
とうございます」
お気に入りの年代物の西陣を着て、千代が
栄一に向かって、お辞儀をした。
栄一は、頭をかきながら、
「祇園一のママさんとうたわれた、えらい
お母さんに頭さげられたら、かないまへんな。
俺は、土下座せんと」
と、栄一は床に頭をこすりつけた。
「このたびは、俺くらいの者が出過ぎたマ
ネをしまして」
「なっ、なに、しはりますねん」
千代は、栄一の肩を抱いた。
「頭、あげておくれやす。さくら、なんや。
だんはんに、こんなこと、さしてたらあかん」
千代は、本気で怒っていた。
「お母ちゃん、ごめん」
桜子は店の奥からタオルを持って来て、
ズボンの汚れを落とした。
バチャッ。
表通りで、バケツをぶちまける音がした。
ホステスが飛び出した。
戻って来るなり、
「えらいことですで。玄関のドアに黄色い
ペンキが投げつけられました」
と、興奮して言った。
ほんまにもう。
誰がやらせたかは、だいたい察しがつく。
桜子は、ドアを開けようとした。
「待ってたらええ」
栄一が、にこにこして言った。
「俺がうまいこと、始末する。あんたは、見
ない方がええ」
早速、知り合いに電話をかけた。
栄一は、変わった。
笑顔を絶やさない。
「まあ、どうぞこちらへ。特等席があいと
ります」
千代を、席まで案内しようとした。
「私は、すわらんでもいいんです」
昔風の千代は、義理がたい。
祇園のオキテが、からだにしみこんでいる。
使い古した割烹着をつけると、掃除を始めた。
「えらい母ちゃんやな」
「夏の暑さで、ちょっと体調を崩していた
んですけど、開店という声で、元気になりま
した」
「そうか、さすがやな。現金なこっちゃ。」
栄一は、苦笑いを浮かべた。
桜子は、栄一が特別に作らせた西陣を
着ている。
インテリアは、匠の技だ。
棚には、和洋を問わず、ボトルをずらりと
並べた。
さて、どのくらいのお客さんがおいでやろ。
美雪ママと、あんな別れ方をしたんや。
ペンキをぶつけられたことといい、しばらく
は、若いくせに生意気な奴やと、同業者から
目の敵にされるやろ。
しゃない。しゃない。
かずさん。五十五歳、独身。
お母ちゃんの肝いりのバーテンさん。
新米のホステスさんの久美ちゃん。
新聞に出した求人広告を見て来てくれた。
この業界は初めてだという。
当面は、泥縄式だ。
三人で、船出することにした。
バー桜子の灯りが、晩秋の京に点った。
|



