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ドアの鈴の音が、ひんぱんに鳴るように
なった。
「さくらちゃん、お願い」
ママが、うわずった声で、桜子に、客の応
対を頼んだ。
桜子は、急いで、電話のわきのメモ紙を
一枚、むしり取った。
カウンターの上で、ペンを走らせた。
これっと言って、栄一に渡した。
栄一は、すばやく受け取ると、書かれた内
容をちらっと見た。
渋い顔がくずれた。
きちんと折りたたんで、背広の右ポケットに
しまいこんだ。
お話しが、あります。
店が引けたら、連絡します。
八坂神社の入り口で、待っていて下さい。
そう、書かれてあった。
栄一は、立ち上がった。
「ママ、また」
と言って、店を出て行った。
Y子が、
「さくら。えいさん、いっちゃうけど、大丈夫」
と、気遣ってくれた。
桜子は、笑顔で、
「大丈夫」
と言って、笑った。
栄一と桜子が、カウンターの隅で、ひそひそ
話しているのに気付いていたのだ。
店内は、にぎやかになった。
さくらちゃん、さくらちゃん、さくらちゃん。
さくらちゃんの大合唱が、閉店まで続いた。
桜子は、嬉しくて涙がこぼれるほどだった。
常連さんの有難さが、つくづく胸にしみた。
午前一時をまわっていた。
桜子は、痛む足を引きずって、八坂さんに
急いだ。
栄さん、待ってていてくれはるやろか。
電話は、入れたけど、圏外の印が出た。
嵐山では、あんなに一所懸命あたしをく
どかはった。
きっと、いてくれはるやろ。
不安な想いが、胸の中で渦巻いていた。
金曜日の夜だった。
タクシーのライトが、頻繁に暗い神社門や
木々を照らしだした。
店を持たしてあげたいが、どうだろう。
その返事をしようと思っていた。
母と、よく相談した。
「ええお話しやけどな。お母ちゃんは、お
前はまだ若いし、祇園でお店をやって行く
器量はないと思うけど。まあ、自分自身の
ことやから、最後は、自分で決めたらええ」
桜子は、若くても、お店のママとして、経
営から人事まで、うまくやりくりして、成功し
ている人がいることを知っていた。
水商売に対する情熱は、十分だった。
要は、桜子にその才覚があるかどうかだった。
やってみなけりゃ、分からないわ。
桜子は、意欲的だった。
ライトアップされた神社の門の前には、人影
はない。
もう遅いしな、帰らはったんや。
桜子は、あきらめて、歩道で立ちつくした。
一台、二台と、タクシーが、彼女の前で停まっ
ては、通り過ぎて行った。
三台の目のタクシーが停まった。
なかなか発進しない。
後部座席のドアが、バタンと開いた。
栄一が、
「さくらちゃん」
と呼んで、車内から、笑顔をのぞかせた。
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花シリーズ
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一カ月後、桜子は、店に顔を見せた。
少し歩きづらいようだ。
「ママ、すみませんでしたね。ご心配をお
かけしまして」
「まあ、もう大丈夫なの。傷が治るまでゆ
っくりしていたら、いいのに」
「これくらい、平気、平気」
「さくらこちゃんは、まだかい、なんてお客
さんが多いのよ。来てくれたら、助かるわ。
でも、あんまり無理しないでやってね」
「はい。ありがとうございます」
Y子が、桜子を見るなり、かけよってきて、
抱きついた。
「サクラコ」と言ったきり、あとは言葉になら
ない。
涙ぐんでいる。
気は強いが、涙もろいところもある。
「さあ、時間がないわ。掃除をはじめてね」
ママがきっぱりと言った。
カクテルバー美雪の淡い灯りが、ともっ
たのを見て、通りかかった若いカップルが
ささやいている。
「きれいなお店ね。どんな方がやってお
られるのかしら」
「きっと、京美人じゃないか。奥ゆかしい」
男がそう答えた。
「今度寄ってみましょう」
ふたりが通り過ぎたあと、恰幅のいい男が
ドアを開けた。
チャリンと、鈴が鳴った。
栄一だった。
連れは、ない。
桜子は、栄一に
「店に今日から出ます」
と、連絡をいれておいた。
「いらっしゃいませ」
ママが、はりのある声で迎えた。
カウンターの一番奥の席に、すわった。
灯りが、あまりとどかない。
桜子が、オールドとグラスを持って来た。
「ご心配をおかけしました」
桜子は、軽く会釈をした。
栄一は、
「うん」
と言ったきり、黙ってしまった。
グラスにウイスキーを少しいれると、そのまま
一口で飲んだ。
あの日、自分が嵐山に誘わなければ、彼女は
事故にあわずにすんだかもしれない。
俺のせいだ。
栄一は、考えすぎていた。
「まあ、からだに悪いわ。氷で割ってください」
桜子が、心配して声をかけた。
「俺の身を、気遣ってくれるんかい」
「そうです。あきまへんか」
桜子は、言葉を変えた。
「あたしのことやったら、大丈夫です。ただの事
故です。栄さんのせいやあらしまへん」
ひどく疲れているように見えた。
頬がこけている。
「社長さん、元気出してくださいな。お見舞いや
お花を、たくさんいただいてありがとうございました」
桜子は、顔を近づけて、小さな声でいった。
栄一の顔が、ぱっと明るくなった。
桜子は、あたりに人影がないのを確かめると、栄
一の右手に、そっと自分の左手を重ねた。
栄一は、目を丸くして、桜子の顔をじっと見つめた。
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桜子は、東山区のR病院に緊急搬送された。
意識がないのが、一番に憂慮された。
すぐにCТスキャンによる脳の検査が行わ
れた。
幸いなことに、脳内出血は見られなかった。
後ろから衝突され、前に倒れたとき、路面
で、前頭部を打ったのだ。
とっさに、両手で額をかばっていた。
左足のげんろくの下を骨折していた。
全治三カ月だった。
「路面で強打したために、脳震盪をおこした
と考えられます。意識はじきに戻るでしょうが、
今晩は、つきそってあげてください」
母、千代は、主治医の話を聞いて、ため
息をついた。
翌朝、夜が白々と明ける頃に、桜子は目
覚めた。
母が椅子にすわり、ベッドに上体をあずけ
て眠っていた。
桜子が、枕元のブザーを押した。
その音で、千代が目をさました。
「かあさん」
「おまえ、大丈夫かい」
千代の目から、涙がこぼれている。
桜子の左手を、両手でにぎった。
「心配かけて、ごめん」
涙が頬をつたって流れた。
主治医と看護婦が、かけつけた。
左手首をかるく握って、脈をとったり、血
圧を測ったりした。
計器類で、脳や心臓の動きを確認した。
「どうです。頭が痛みませんか」
医師の問いかけに、桜子は、
「痛いです」
と言って、左手で隠していたおでこを見せた。
大きなこぶが、できていた。
主治医は、白い歯を見せて、
「腫れがひけば、痛みがおさまります。お
母さん、良かったですね」
と、千代の看護をねぎらった。
「ありがとうございました」
千代は、からだをふたつに折り曲げて、お
辞儀をした。
医師と看護婦が部屋から出ていった。
「お前がどうにかなったら、母さん、何の楽
しみもなくなるんやから。いっそ、死んでしま
おうと思ったんやで。もう二度と、無茶なこと
をせんといてや」
千代は、自分の言葉に感動し、声をあげて
泣きはじめた。
桜子は、黙ったまま、母の手をにぎっていた。
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栄一は、からだを求めもせずにすんなり帰
してくれた。
渡月橋のそばで、タクシーを拾った。
「運ちゃん、すまんけど、祇園まで行ったっ
てくれるか。釣りはええから」
五千円札を一枚渡した。
「ええんですか。おおきに、すんません」
「ほんじゃまあ、さくらちゃん、よう考えとい
てや」
桜子は、
「ほんま、おおきに」
といって、乗り込んだ。
振り返って、栄一を見た。
手を振っていた。
どないしはったんやろ。いつもと様子がちがう。
寂しならはったんやろか。本気で「店持たす」て
言うてくれてはんねやったら。考えないとあかん。
まずは、お母ちゃんと相談や。
深夜である。
道路の渋滞は、なかった。
四条大橋のたもとに、早くついた。
「どうもお世話様」
「お客さん、釣りは、どうしましょ」
「もろといてください。大した金額やあら
しまへんやろ。せっかくの気持ちですから」
「はい」
桜子は、バタンとドアが閉まる音を背中に
聞いた。
賀茂川の流れを見たくなった。
橋の北側を、ながめた。
ネオンの灯りは、ほとんど消えている。
街灯が、川岸の暗闇を照らしていた。
幼い頃から親しんだ川である。
河原できれいな石を拾ったり、平たい小石
を見つけては、水の上をすべらせたりした。
高校生の頃は、男友達と手をつないで歩いた
こともある。
ひとりでいても、少しも怖くはなかった。
マフラーをはずしたバイクが、スロットルを
小刻みに動かしているようだ。
エンジン音がうるさく、桜子は耳をふさいだ。
Sの字を描いて、走ってくる。
後続車が二台いた。
隊列を組んでいる。
五十メートルくらい離れて、赤色灯が見えた。
サイレンの音が近づいて来た。
桜子は、以前、男に追いかけられたことがあ
った。
急いで道を横切ろうとした。
桜子が道を渡っているにもかかわらず、五
十ccのバイクは、スピードをゆるめない。
無灯火であった。
バン、という音は聞こえたが、その後のこと
は、何も分からなかった。
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「酔ってしまう前に、言いたいことがあるんや
けど」
「なんどす、えらいあらたまって」
栄一は、言い出しにくそうだ。
「どうやろな、さくらちゃん」
栄一は、急に真顔になった。
桜子は、一瞬押し黙った栄一の顔を見つめた。
慣れないことを、これから話します。
そんな表情だ。
桜子も、視線をカウンターの先に移して、身構
えた。
この人は、こわいんやから。
何言われるか、わからへん。
栄一は、咽喉の奥でつまった物を、一気に
はき出すようにしゃべりだした。
「俺さ、あんたに店、持たしてやりたいんや」
栄一のからだが、風船のように一瞬しぼん
だように見えた。
助平を演じる彼とは、ずいぶん違った。
桜子は、
今晩どうや。いっしょに寝てくれへんか。
そういわれると、思っていた。
これまでをかえりみると、それが一番
栄一が、桜子に望むことだった。
桜子は思わず、グラスをにぎり、一口飲ん
だ。
「栄さん、あたしにもっと何せえ、いわはり
ますねやろ。みんな、あんさんにあげたです
やろ。そんなうまいこと言うても、もうあたし
には、何もありまへんで。お客さんと、ホステ
スのつき合いですやろ。」
栄一は、言い終わって、ほっとした顔をし
ている。
「そんなんやないね」
「店持つということは、大変なことですよ。
あんさんの会社が繁盛しているから、そう言
うこといわはるんやろと思います。男をあげ
はったんやから、あたしも嬉しいです。でも」
「でも、なんや」
「祇園あたりで、店なんか持つと、ぎようさん、
お金もかかるし」
「そんなこと、初めからわかってる」
栄一は、桜子の耳元に顔を近づけた。
「さくらちゃんの夢やろ」
桜子は、素直にうなずいた。
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