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薄暗いバーのカウンターの止まり木に、並んで腰かけている。
「さっきのお料理、とてもおいしかったです。ごちそうさまでした」
桜子は、栄一に向かって軽く頭を下げた。
Aとは、栄一のことだ。
「なんや、他人行儀やな」
「せやかて、他人ですやろ」
「そら、そうや」
栄一は、右手で桜子の左手を、カウンターの陰でにぎった。
桜子は、その手を軽くつねってみた。
大げさに痛そうな顔を、栄一はした。
「えらい機嫌がわるいんやな。先が思いやられるわ」
「女は、こわいんでっせ。気いつけておくれやす」
本気で怒っているわけではない。
「さくらちゃん。何飲む」
栄一が、やさしい声をだした。
「そうですわね、何をよばれたらええんですやろなあ」
桜子はわざと、かまをかけるように言った。
今晩、どこかで泊まりたいのが、栄一の本音だ。
最後には、いいなりになるにしても、できるだけじらしてやりたかった。
「お酒のまへんか。わてが、なんぼでも介抱したるさかい」
栄一は、桜子の耳元で、ささやいた。
「ほら、きた」
「何がきたんや」
「赤鬼さんや」
「どこにいるんや」
栄一は、首を大きくまわした。
「わかってるくせに、何をばっくれていらっしゃるの」
「ばっくれるって」
栄一は、桜子とのやり取りを楽しんでいる。
桜子の身体の隅々まで知っている、という自信があった。
顔じゅう髭だらけのようなバーテンが、にこにこして寄って来た。
その様子が、桜子はおかしかった。
「ウイスキーをロックでふたつ」
栄一は、桜子の顔を見ながら、頼んだ。
「飲みませんよ、わたしは」
桜子は、プイと横を向いた。
栄一の右手が、せわしなく動いている。
桜子の左手の甲を、やさしくなでていた。
以前のように、上に行ったり、下に行ったりはしない。
桜子は、余計なことは、話さなかった。
「どうぞ」
グラスが、目の前に置かれた。
左手に持って、グラスをゆすった。
ころころと、音がした。
天井のライトの灯りが、グラスの氷に反射している。
きらめいていた。
琥珀色。
桜子は、この色が大好きだった。
もちろん、慣れ親しんだものだからだが、それだけではない。
幼い頃から目にしてきたというか、自分の性分にしっくり合っているように思えた。
ふふっと、微笑みがもれた。
栄一は、見逃さなかった。
「笑ってくれたね」
グラスをつかんだ桜子の手をそっとにぎった。
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花シリーズ
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九月の中旬。
嵐山が、うっすらと色づきはじめている。
保津川を渡る風は、まだ暖かく、夏の名残りを感じさせた。
桜子は、渡月橋の上にいる。
めづらしく和服をきている。
カクテルバー美雪の売れっ子ホステスとして不動の地位を占めていた。
瞳が輝いていた。
ぼんやりと、せせらぎの音を聞いていた。
Aさんの誘いで、こんなとこまで来てしもたけど、これで良かったんやろか。
ひとりでもお客さんを失くしとうない。大事にせんといかん。
今じゃ、Aさんは、前のAさんとはだいぶん変わらはった。助べえ心は同じやけど、あん
まり表にださはらへんようになった。その分、上品や。
会社がしっかりしてくるということは、男はんには、自信がつくていうことなんやろな。
昔でいうたら、一国一城のあるじや。
東京の銀座でも、昔からのお店が、ひとつふたつと暖簾をおろしていくそうや。
ここ祇園でも、おんなじや。
寂しいかぎりや。
せやけど、うちら、まだがんばってるほうや。売り上げはあんまり伸びひんけど、下がりも
せえへん。横ばいや。まあ、これで上等や。
そう思わんと、ばちがたかる。
神社の氏神さんが付いていてくれてはる。
夕暮れが近い。
雁が西の空に、くの字になって飛んでいく。
ひとりの男が、彼女の肩をなれなれしく、ポンと叩いた。
桜子が、驚いてふりむいた。
「ああ、びっくりしたわ、ほんま」
それほど驚くとは、男も思わなかったようで、しきりにあやまっている。
頭のてっぺんが薄くなっている。
小柄の恰幅のいい男だ。
茶系の背広姿である。
口の端が、少しまがっている。
仕事の上での人間関係が、容易ではないことが知れた。
三カ月余りで、こんなにも人は変わってしまうものだろうか。
桜子の悩みの種になっていたAさんだった。
「えらい待たせたかいな」
桜子は、かぶりをふった。
「いえいえ、そんなに待ってしまへん」
「ほなら、いこか。まずはうまい物でも食べよ」
「はい、おおきに」
桜子は、Aとならんで歩きだした。
あたりは、うす暗くなっていた。
Aの右手が動きはじめていた。
桜子の尻のあたりを、着物の上からなでている。
彼女は、わざと、腰を大げさにふってみせた。
どうやら人間というのは、そのキャラは、あまり変わらないようである。
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Aは連れの男と談笑している。
仕事の話が一段落したようである。
桜子は、Aとは話がついている。
店に入ってきた時から彼の顔色を見て、安心していた。
素面であったことが嬉しかった。
今もまじめに仕事の話をしていた。
男の人には限らないけど、人間って咽喉に引っかかった魚の小骨のような物が取れさえすれば、すっかり変わることができるものなんだなと感じている。
「いらっしゃいませ」
Aの前で丁寧にお辞儀をした。
Aは上機嫌である。
うむといって、連れに桜子を紹介した。
「この店でナンバーワンの桜子さんだ。こちらGさん」
「ナンバーワンだなんて。褒めすぎですわ」
「いや、大したものなんだ。客の気持ちをつかむのは、天下一品だよ。ひいきにしてやってくれたまえ」
GはAの気持ちをくんだ。
「はい、わかりました。社の者にも話しておきます」
桜子は、Gのとなりにぬかづいて、お絞りを渡した。
「何がよろしいでしょうか」
Aがいった。
「冷たい生ビールでいいかな、Gさん」
「はい。懸命にお話をさせていただいたので、咽喉が渇きました」
「じゃあ、ジョッキをふたつ頼む。きみも好きなものを飲んでいいよ」
「ありがとうございます」
「まだ少し仕事の話のツメがあるから、ふたりにしておいてくれ」
「はい。わかりました」
桜子は、店の奥にいったん消えた。
化粧直しをするためである。
ママとY子が、カウンターの隅で小さな声で話している。
ふたりとも、Aの変わりように驚いている。
「ねえ、Aさん、どうしちゃったんだろうね」
ママがY子に尋ねた。
「さくらちゃんがうまくあしらったみたい」
「そうかい。でも大変だったろう。代償が大きかったんじゃない」
「桜子、覚悟を決めていたみたいだから、大丈夫。いざとなったら、女は強いんです」
「そりゃそうだけどね。あの子のお母さんに、あたし頼まれているからさ。心配なの」
チャリン。
ドアが開いた。
Kに付いている若手の編集者Bが入って来た。
紺のスーツに赤いネクタイがよく似合う。
「いらっしゃいませ」
桜子が迎えた。
「Bさん、お待ちしていました」
ホステスにとって、まずは名前を覚えるのが仕事である。
Kのとなりにすわった。
顔が紅潮している。
うわずった声を、Kに投げた。
「せんせいっ」
「どうしたんだ。いつも落ち着いているきみらしくないな」
「落ち着いていられないですよ」
「何があったんだ」
桜子が、お冷やをBの前においた。
「どうも」
一息で飲んだ。
「当たったんです。先生の小説が」
「当たったって」
「そうです」
Kは腕を組んだ。
考えこんでいる。
「逃げる火が映画になるんですよ」
「そうか。あれを取りあげてくれる人が現れたか。有難いことだ」
「わが社は始まって日が浅いですが、これで弾みがつきます。みんな喜んでおります」
「特殊な撮影がいる箇所がある。今は技術が発達しているからなんとかなるだろう。物語を、少しふくらませなくちゃならないな」
「原作は先生ですし、脚色してもらえばいい事です。大丈夫です」
桜子は、ふたりのやり取りを聞いて、胸がわくわくしてきた。
「先生、万々歳じゃありませんか。努力が実りましたね」
「ありがとう」
「きょうはあたしがおごりますから、たくさん召し上がってください」
「桜子。それじゃ商売にならないよ」
Kが微笑んだ。
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五月下旬の水曜日。
夜十時をまわっている。
雨が降っている。
作家のKは、ドアに近い止まり木にすわっている。
彼の耳には雨音がとどいている。
お気に入りのブルーのカクテルを味わっている。
店内には客が少ない。
Kを除くと、あちこちに三人いるだけである。
男がふたり、女がひとりであった。
桜子がそばを通りかかった。
「桜子さん」
Kが改まったようにいった。
桜子がふりむいた。
「なあに。先生。びっくりするじゃありませんか」
「どうして」
「急にあらたまった呼び方をされるんですもの」
「ちょっと、大丈夫」
桜子がKのとなりにすわった。
Kは桜子の顔をちらっと見て、ポケットからセブンスターの箱を取り出した。
一本口にくわえた。
桜子はさっと、Kの顔の前にライターをさしだした。
カチッ。
左手をそえたままで、タバコに火がつくのを待った。
Kは煙を吸い込んで、前方にゆっくりとはきだした。
洋酒が並んだ棚をながめながらいった。
「このごろ桜ちゃん、一皮むけたようになったね」
「ひと皮」
「うん。自分でもわかるでしょ」
右手を黒檀のカウンターの上で遊ばせている。
「弱虫のさくらちゃんは、どこへ行っちゃたんだろうね」
「先生って、意地悪ね」
「どうしてそう思うの」
「なんとなくよ」
「僕は小説を描いているからね。人をねちねちと観察する所がある」
「そのせいかしら。ちょっと怖いと感じる時がありますわ」
Kがグラスをかたむけた。
チャリンと音がして、Aが入って来た。
今夜は足元がしっかりしている。
「いらっしゃいませ」
ママが迎えた。
同い年くらいの男連れである。
仕事の話しでもあるんだろうか、さっさと奥のソファにすわった。
Y子がおしぼりを持って行った。
桜子は、ちらっとAを見た。
Kの疑問に答えた。
「大丈夫ですよ。さくらは、ちゃんとこの胸の奥にいますから。正座してしたりして、ちょっと前より行儀良くなりましたけど。子供から娘になったくらいです。あたしもいただいていいかしら、同じもの」
「あっ、気がつかないでごめん。どうぞどうぞ」
「Dさん、お願い」
バーテンのDさんがうなずいた。
作曲家の宇崎竜童さんによく似ている。
面長で優しそうな眼差しをしている。
「何が桜子をそうさせたか。どうして、このように落ち着いた身のこなしが、できるようにだったのか。チャンチャンチャチャアン」
芝居のせりふのように、Kが言った。
桜子は、大声で笑いたくなるのをこらえた。
「先生だから、何でもお話できるんですけど」
「うんうん」
Kは身をのりだした。
「母もホステスだったんですよ。昔はこの色町一番でした。苦労話をしてくれました。もうあたしに、何を話しても大丈夫だと思ったんでしょう」
「そうだったんだ」
「あたし、それを聞いて、何にでも体当たりしてみよう。命がけでやってみようって」
桜子の目もとが潤んでいる。
Kは目をそらした。
「それに先日の夜、М公園で先生にもお逢いしましたよね。あのときは、ちょうどY神社にお参りしたんです。そのあとで池のそばのベンチに腰掛けました。いつの間にかどうしたことか、眠ってしまいました。夢の中で誰かが耳もとでささやいたんです」
「不思議なことってあるよ。僕もこの街のあちこちを取材して歩いているから分かるけど」
「お前は大丈夫だ。がんばれって。おばあさんがしわがれ声でいったの」
「へえ、おばあさんがね」
Kは心当たりがあるような顔をした。
「それは、神社の守り神だったんだよ、きっと」
「それじゃ、先生。お客様がお待ちかねですから」
「うん、がんばれ、サクラコ」
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大きな湖のほとりに宿をとった。
十階建てのホテルの一室である。
夕陽が湖の向こうの山に沈んでいく。
湖面がキラキラ輝いている。
遠くに島影が見えた。
砂浜を犬を連れて散策する人がいる。
若いひと組の男女が、波打ち際でたわむれている。
桜子は、窓際にたたずんでいる。
自分でも、ここにこうしていることが、不思議なくらいであった。
よく踏ん切りをつけたな、という思いでいる。
好きな人はいた。
専門学校の生徒だったころに、D大の学生だったEに逢った。
身も心もささげたが、相手の親が格式がどうのと言いはじめた。
ご縁がなかった。
以来、母と同じ道を歩むことにした。
Aは階下の温泉に行った。
桜子は、ソファに腰かけた。
タバコに火をつける。
吸わずにはいられない心境であった。
お店では、酒は飲むがタバコは吸わない。
両方やると、肝臓を悪くするのを知っている。
Aが気持ちよさそうな表情で戻って来た。
「ここはいい温泉だね。さくらちゃんもどうぞ」
「ええ、それじゃお言葉に甘えて。すぐに戻りますから」
「ゆっくりでいいよ」
Aは窓際のソファにすわった。
自分について来てくれた、桜子の心の内を思いやっている。
俺のことを、あんなに嫌がっていたのになあ。
酒が入ると、俺は人が変わってしまう。
やたらと、女の体に触れたがるんだ。
物ごころが付くかつかないうちに、母親が男をつくって家出してしまった。
心がひねくれてしまった。
そのことが、今の俺を創りあげるのに、一役買ったに違いない。
仲居さんが、お膳を運んできた。
湖の幸がいっぱいである。
アルコールランプに火をつける。
小さな土鍋の中は、白ネギやシイタケ、牛肉や糸こんにゃくが入っている。
桜子が帰って来た。
Aは、浴衣をきた湯あがりの桜子に見とれている。
桜子が酌をする。
「よくその気になってくれたね。驚いたよ」
「社長さんがあんまり可愛そうだから、体を許してあげようかなって」
Aは、うんうんとうなずく。
「体だけなの」
桜子は横を向いた。
「心までもなんて、ぜいたく過ぎます。あたしはホステスですよ。いちいちお客さんに身も心もささげていたら、たまったものじゃありませんわ」
「きみもどうだい」
Aがグラスにビールを注いだ。
桜子は一気に飲み干した。
「ほう、いいのみっぷりだ。もう一杯やるかい」
「もうたくさんです。酔った勢いを借りるのはいやですから」
隣の部屋には、布団が敷かれてあった。
お客と寝るのは、初めてであった。
さすがに緊張している。
昔の色街の事を、母から聞いたことがある。
家が貧しく舞妓になった。
若いみそらで、年老いた旦那をとらされた。
影で泣きながらも、辛い人生をしたたかに生きた女たちを想った。
今は昔ほどじゃないけど、下積みの女の暮らしは変わらないわ、と桜子は思う。
桜子が先に布団に入った。
Aが部屋に入って来て、枕元のランプをつけた。
タバコをくゆらす。
桜子がせきをした。
あわてて、Aがタバコをもみ消した。
「灯りを消してくださいな」
「点いていた方がいいんだがな」
「だめです」
Aが浴衣の合わせ目から、胸に右手を入れてきた。
「くちびるには、触れないでくださいね」
桜子は、きっぱりと言った。
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