花シリーズ

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桜子 その3

 「さくらちゃん、好きだよ」
 Aが低い声でいった。
 体の中で動いているのは、口と右手だけである。
 桜子の体をぐっと、強い力で引き寄せた。
 「隣にすわって」
 桜子は怖くなって、言う通りにした。
 Aは五十がらみである。
 妻が病で二年前に他界した。
 子供はいない。
 Bセラミックの下請け仕事をしている。
 
 河川敷にせりだした向こう岸の料理店の灯りは、ほとんど消えている。
 午前零時をまわっている。
 Aは小声で、好きだ好きだと、繰り返している。
 お尻をなでまわしている。
 桜子は、じっと我慢している。
 泣き出しそうになっていた。
 店内にはY子と店主、そしてひと組の若いカップルがいた。
 桜子は気がいいのだ。
 大きな声を出さなかった。
 Aの行動は大胆になってきた。
 スカートの下に手を入れてきている。 
 桜子は父を失くして、しばらくになる。
 父の面影を、Aの中に見てしまうのかも知れなかった。
 Aのことを、哀れに思う自分に驚いていた。
 でも、父さんはこんなふうには絶対にしない。
 大切にしてくれる。
 桜子は、不意に立ち上がった。
 
 「あれ、どうしたの。大丈夫」
 Y子が声をかけてくれた。
 こちらに来いと、手招きしている。
 Aが元の眠っている姿勢にもどった。
 Y子が不審に思って、やってきた。
 Aの背中を、ポンとたたいた。
 ビクッと、体が動いた。
 「やっぱりね。このいたずらさん」
 Y子は桜子の肩をだいて、席まで連れていった。
 桜子は、うつむいている。
 「つらかったでしょ。ほんと、しょうがない奴だわ」
 「わたしも悪いのよ。どこかにスキがあったのよ」
 「今度から気をつければいいわ」
 Y子は、桜子のグラスにビールをついだ。
 「飲みなさい。飲んで忘れるのよ。嫌なことは。おいしいわよ。たまごも大根も何もかも」
 店主がAにいった。
 「お客さん、店を閉めますから」
 「うん。もう終わりか」
 「へい。あんただけね。俺は行儀のよくない人は、大嫌いだ」
 Aは素早く立ち上がると、回れ右をした。
 桜子の方をチラッと見ると、暖簾をくぐって出て行った。
  
 
 
 
 
 
 

桜子 その2

 風が強まった。
 暖簾がぱたぱたと音を立てている。
 Aが外からきた。
 Y子と桜子の間に立った。
 「よお。今お帰りですか」
 Y子の耳元でいった。
 後ろから二人の肩に手をかけている。
 酒が匂った。
 Y子が気を強くしていった。
 「ああら、社長さん。今日は何てご縁のある日なんでしょうね」
 肩にのったAの手をつかんでおろした。
 「あっいててて」
 「もう少し手加減しろよ。どうした。まだ持っているのか。カエル」
 桜子はひやひやしながら、ふたりのやりとりを眺めている。
 Y子の太ももを指でつっついた。
 「ええ。なんなら、お見せしましょうか」
 「いい、いい。もうたくさんだ」
 「一代で身を起こした人なんですもの。あれしきのこと、どうってことありませんでしょう」
 「まあな。ごめん。俺もやりすぎたよ」
 「わかっていただければいいの。今後もよろしくお願いします」
 Y子は椅子にすわったまま、ぺこりと頭を下げた。
 
 部下二人が立ちあがった。
 暖簾の向こうからAにいった。
 「社長、ぼくらはこれで失礼します。ごちそうになりました」
 Aは振り向いた。
 暖簾の外に顔をだした。
 「そうか。また月曜日、会社で逢おうな。仕事、早く覚えてくれな」
 「はい。よろしくお願します」
 職が見つかっただけでも有難いと、ふたりは考えている。
 酒が人を変えるくらいのことは、知っていた。
 「社長、桜子さんのことが好きなんだ」
 Cが思いだすような顔でいった。
 「どうだろうね。ただの悪ふざけかもしれない。ほんとに好きなら、当人が困るようなことはしないぜ」
 Dが応えた。
 「そりゃそうだ」
 
 「よく煮えましたよ。Yちゃん、いつものでいいかい」
 手ぬぐいを鉢巻きにした、七十がらみの店主がいった。
 「ああっ、おじさん。遅くなってごめん。それでいいわ。二人分ね」
 「へい。ありがとうよ」
 「桜ちゃんは、飲み物は何がいい」
 「ビールがいいわ。咽喉がかわいてしょうがないの」
 Aが、元の席にふらつきながら戻って行った。
 よいしょっと言って、止まり木にすわった。
 テーブルに両手をついて、頭の右側をのせた。
 お休みと言って、眠りはじめた。
 ネクタイがゆるんでいる。
 結び目がずいぶん下にある。
 
 「社長さん。眠っちゃったわ」
 「ほっときなさい」
 「風邪ひくわ」
 「いいのよ。寒けりゃ寒いようにするから。大人だもの」
 「ちょっと冷たいんじゃないの」
 「じゃあ、桜子。好きにしたら」
 「おじさん、毛布ありますか」
 店の奥にあった厚手の上着を桜子にわたした。
 「良い人だね、あんたは」
 肩にかけてやろうと、Aに近づいた。
 すぐそばに来た。
 Aの右手が動きだした。
 桜子の体を抱いた。
 
 
 
 

桜子 その1

 カクテルバー美雪の灯りが消えた。
 店内では、奥のソファで、今日の反省会が開かれている。
 ママとホステス二人が、テーブルをはさんですわっている。
 ママのミユキが切り出した。
 「大丈夫かな、Aさん。部下の手前もあっただろうし。心配だわ。ちょっとやりすぎじゃなかった」
 「常連客だし気心が知れてるから、また来てくださると思いますわ」
 Y子が応えた。
 「それにしても、ゴムのカエルを膝の上に置いておくとはね。Aさんの顔ったら、見られたものじゃなかったわ」
 ミユキが腕を組んでいった。
 「オイタがすぎるわ。だんだんエスカレートしてくるんですもの」
 桜子がいった。
 「あれさえなければ神士なんだけど」
 Y子がおひやを飲みながらいった。
 ポンと、カエルをテーブルに置いた。
 「ひやあ。びっくりさせないでよ」
 ミユキが驚いた。 
 「よくできてるわねえ。見れば見るほど本物みたい。どこでこんなもの手に入れたの」
 桜子がたずねた。
 「小二のうちの子が、おもちゃ屋で見つけてきたのよ」
 「この目といい、この背中のイボイボといい。ああっ気味が悪いくらい。ぐえって鳴くのは、どういうしかけ」
 「おなかの中に音が出る、ちょっとした機械があるみたい」
 ミユキが締めくくるようにいった。
 「まあね。お客様あっての商売。ひとりひとりを大切にしましょう。こんな不景気な時代よ。せっかく癒しを求めていらっしゃるのだから、臨機応変に応対してね。プロなんだから、逃げるところは、うまく逃げる。我慢するところは我慢する。それと、自分なりの芸を磨いてください。以上、終わり。ご苦労さまでした」 
 化粧部屋に、桜子とY子がいる。
 帰り仕度をしている。
 「どう、桜子。屋台で一杯やっていかない」
 「ええ、いいわよ、少しくらいなら。Y子は子供さん、大丈夫なの」
 「ばあちゃんがいるから、平気。よくなついているわ。帰宅する頃は、いつもすやすや眠ってるわ」
 「旦那さんはどう。あたしは独り身だから平気だけど」
 「今夜は花金よ。会社の接待で午前様。毎度のことよ」
 
 K川の土手ぎわに、屋台の灯りがならんでいる。
 柳が風をうけて揺れている。
 三日月が出ていた。
 桜子が両手を合わせた。
 「何をお祈りしたの」
 「内緒。小さなお願い」
 「桜子はお母さんとふたり暮らしね」
 「ええ、そうよ」
 Y子は、それ以上詮索するのをやめた。
 人それぞれに重荷を背負って生きている。
 生傷をえぐるようなことになるかもしれない。
 「さあ。ここよ。おでんがおいしいの」
 「楽しみだわ」
 暖簾をくぐった。
 先客が三人いた。
 A社長と彼の部下だった。
 Y子は驚いたが、逃げるわけにはいかない。
 どんと構えることにした。
 Aが桜子を認めた。
 立ち上がって、ふたりのそばに寄った。
 足元がふらついている。
 
 
 
 
 
 
 

花ふたつ

 ネオン街の一角。
 カクテルバー美雪に灯りがともった。
 この街では一番人気の店である。
 金曜の宵である。
 大通りを外れて、人々が路地に入りこんで行く。
 ひいきにしているバーに、ひとりふたりと吸い込まれていく。  
 
 М公園が近い。  
 桜の木が多い。
 新緑が匂い立つようである。
 暗闇の中に灯りが点々と続いている。
 坂道に男の声がする。
 「これからがんばってくれよ。ふたりとも」
 「はい、社長」
 「がんばります」
 三人の男がМ神社にお参りしての帰り道らしい。
 「お守りをいただきまして、ありがとうございます。妻が喜びます」
 「Cくん。お子さんが無事に産まれてくれるといいな。我が社で君の前途が開けるようにな。子にも金がかかる」
 「お気づかい感謝します」
 「Dくん。君は独り身だから、縁結びのお守りじゃ」
 「ほんとにすみません」
 「悪い事をしたわけじゃないんだ。すみませんじゃなく、ありがとうだ」
 「はい。ありがとうございます。言葉づかいは難しいですね」
 「そうだよ。社会人第一歩だ。言葉を大切にしろ」
 大通りに出た。
 タクシーが頻繁に行きかっている。 
 車のライトがまぶしい。 
 信号が青に変わった。 
 「これから良い所に連れていってやる」
 「良いところですか」
 「そうだ。この通りを渡ってしばらく歩いた所にある。行きつけのバーだ」
 
 社長のAが、バー美雪のドアを押した。
 軽やかな鈴の音が鳴った。
 店内は薄暗い。
 「いらっしゃいませ」
 ママの美雪である。
 「あら社長さん、今日はお連れさんが」
 「そうだ。新入りだ。よろしく頼む」
 「はあい。わかりました。カウンターになさいますか」
 「いや、ソファがいいな」
 「ご指名は」
 「わかってるだろ」
 「ええ。桜子さん、おめでとうございます」
 三人は、向かい合ってすわった。
 ママが、ひとりひとりにしゃがんでおしぼりを手渡した。
 大学を出たばかりの男は緊張している。
 おしぼりを広げて顔を拭いている。
 
 桜子が現れた。
 薄桃色のドレスを身にまとっている。
 社長のわきに立った。
 「素敵な衣装だな。良く似合うよ」
 「お口が相変わらず、お上手だこと」
 「いや、ほんとにそう思ったまでのことさ」
 桜子が隣にすわった。
 「今日はお連れさんがおいでなんですね」
 「うちの会社に入ったばかりなんだ。CくんにDくん」
 「こんばんは。ごひいきに」
 ふたりは頭をさげた。
 桜子は微笑んだ。
 「あたし、初心な人が好きなの」
 「おいおい、俺はどうなんだ」
 「あれ、いらしたの」
 「それはないだろう。冗談がきついなあ」
 「何を飲みますか。Cさん」
 「私はビールを」
 「あなたは、Dさん」
 「ぼっぼくは、ウイスキーの水割りをお願いします」
 
 テーブルの下で、社長の右手が動きはじめていた。
 桜子のドレスのスカートに触れている。
 「社長さん、あたしカクテルを頼んでいいかしら」
 「ああいいよ」
 「バーテンさん、いつものお願いね」
 カウンターの奥で男がうなずいた。
 社長の声がうわずってきた。
 「おっおれにも、同じものを頼む」
 「はい。承知しました」
 男が桜子に目配せしながらいった。
 社長の右手が、そろそろと桜子の体の真ん中に近づいて行く。
 手に汗がにじんでいる。
 彼の心は会話にはない。
 桜子がどこまで許してくれるかに、神経が集中している。
 ふわふわしたシャクナゲの花びらのようなスカートの上で、まるでひとつの生き物のように手がさまよっている。
 
 ナンバー2のY子が、社長のわきに立った。
 男のバーテンダーが、社長の手の動きに気付いたのだ。
 「ああら、社長さん。桜子ばかりじゃいやですわ。あたしもたまには可愛がってください」
 いまいましい。もう少しのところだったのにと、Aは悔しがった。
 一陣の風にあおられて、蝶が花を失くしたようであった。
 社長の右手がソファをひっかいている。
 「いいい、あたし桜子と同じものを頼んで」
 「ああ」
 社長がぞんざいに答えた。
 「なあに、そのお顔。いやよ。あたしが来たからって、それはないでしょ。これでもあたし、社長さんのことを前から尊敬してたんですもの」
 目をふせた。
 長い黒髪が顔をかくした。
 Y子はお芝居がうまい。
 実際素人劇団でヒロインを演じることがあるくらいだ。
 桜子は、部下のふたりにサービスしはじめた。
 「はい、しーさん、おビールをどうぞ」 
 「どうぞ、でーさん、ウイスキー」
 しゃがみこんで、ひとりひとりに丁寧に接待している。
 社長は、苦々しい表情で見つめている。
 
 「あっ」
 不意に大きな声がした。
 社長が言った。
 顔が青ざめている。
 Y子の股の間で、社長の右手が何かをつかんだ。
 やわらかくて、ぶよぶよしている。
 それを確かめるように、ゆっくりとなでまわしている。
 ゴム製の蛙であった。
 社長がつかむと、ぐうっと鳴いた。 
 
 
 
 
 
 
 

ヒロイン その2

 本選の日の朝。
 よく晴れている。
 S子は、Dテレビ局のロビーに入った。
 受付係にハガキを渡す。
 ジュンだった。
 「お早うございます。記入していただくことがあります。あとで書面をお渡しします」
 事務的に言った。 
 「はい」 
 S子は、ジュンの顔を見ながら、小声で答えた。
 
 隅のベンチにすわった。
 楽譜をバッグから取り出した。
 足で拍子をとりながら小さく歌う。 
 本番撮りの時刻は、八時半である。
 あと少し時間がある。
 S子は玄関わきで練習することにした。
 あたりに人影はない。
 イアホンを耳に差し込んだ。
 カセットのスイッチを入れた。
 声を出して歌いはじめた。
 
 背中をポンと叩かれた。
 振り向くと、ジュンの人懐っこい顔があった。
 「おはよう。がんばってね。いつもの調子なら大丈夫だよ」
 「ええ、ありがとう」
 「これ、受け取ってくれる」
 紫色の短い紐のついた水晶玉である。
 「何なの」
 「おまじないだよ、合格の」
 S子の掌にのせた。
 ぐっとにぎった。 
 目に涙がにじんできた。
 「あっ、だめ。泣いちゃ。お化粧がくずれる」
 ジュンに思わず抱きついた。
 彼は建物の柱の陰に誘った。
 ジュンがS子の額にキスした。
 自分は男の人とは縁がない。
 S子は、長い間そう思い込んでいた。
 その思い込みが壊れた。
 彼女は幸せだった。
 彼がほしい、ほしいと思わなきゃいいんだ。
 自分に正直に生きてさえいれば、それで良かったんだ。
 あたしの魅力に気付いた人が、自然と寄って来るんだ。
 あたしの、ジュン。
 
 彼女は顔をあげた。
 目を閉じた。 
 「あっ、時間だ。ロビーに戻って」
 ジュンが言った。
 スタッフの顔つきに戻っている。
 「出場者の皆さんは、集まってください」
 ジュンの声が、ロビーに響いた。
 S子はいとおしく感じた。
 出場者は全員で八名である。
 それぞれに応援の人がついている。
 S子は誰にも内緒にしていた。
 一番最後に名前が呼ばれた。 
 スタジオの中は、ひんやりとしていた。
 予選で来ているから、二度目のスタジオであった。
 緊張しているせいか、前より寒く感じられた。
 ひとりひとりが、一番だけ歌うことになっている。
 司会者ふたりと話をしたり、審査員のコメントを聞いたりする。
 一時間くらいの番組を形作る。
 
 待ちくたびれちゃったわ。
 心の中で思った。
 スタッフが、スタンバイするようにと、手招きした。
 ようやく彼女の番がきた。
 ステージわきの椅子にすわる。
 S子は、もう一度気を取り直そうとした。
 手のひらに、指で人という字を書く。
 飲み込むマネをした。
 女性のスタッフが化粧を直してくれた。
 小さく、ありがとうと言った。
 彼女は微笑んだ。
 ステージに立った。
 S子なりに、精一杯の衣装を身に付けている。
 春らしいピンクを基調とした装いである。
 普段は、引っ込み思案な性分である。
 前奏がはじまった。
 人が変わったように大胆になった。
 歌の世界に入りこんで行く。
 
 春色の 汽車に 乗って
 海に 連れて 行ってよ
 
 手振り身振りをまじえる。
 メリハリをつけている。
 感情をこめる。
 まるでプロ歌手のようであった。
 ジュンはスタジオの隅にいる。
 じっと見つめていた。
 S子が歌い終わった。
 ジュンの目から、涙がすうっと流れた。
 
 
 
 
 
 
 

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