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「さくらちゃん、好きだよ」
Aが低い声でいった。
体の中で動いているのは、口と右手だけである。
桜子の体をぐっと、強い力で引き寄せた。
「隣にすわって」
桜子は怖くなって、言う通りにした。
Aは五十がらみである。
妻が病で二年前に他界した。
子供はいない。
Bセラミックの下請け仕事をしている。
河川敷にせりだした向こう岸の料理店の灯りは、ほとんど消えている。
午前零時をまわっている。
Aは小声で、好きだ好きだと、繰り返している。
お尻をなでまわしている。
桜子は、じっと我慢している。
泣き出しそうになっていた。
店内にはY子と店主、そしてひと組の若いカップルがいた。
桜子は気がいいのだ。
大きな声を出さなかった。
Aの行動は大胆になってきた。
スカートの下に手を入れてきている。
桜子は父を失くして、しばらくになる。
父の面影を、Aの中に見てしまうのかも知れなかった。
Aのことを、哀れに思う自分に驚いていた。
でも、父さんはこんなふうには絶対にしない。
大切にしてくれる。
桜子は、不意に立ち上がった。
「あれ、どうしたの。大丈夫」
Y子が声をかけてくれた。
こちらに来いと、手招きしている。
Aが元の眠っている姿勢にもどった。
Y子が不審に思って、やってきた。
Aの背中を、ポンとたたいた。
ビクッと、体が動いた。
「やっぱりね。このいたずらさん」
Y子は桜子の肩をだいて、席まで連れていった。
桜子は、うつむいている。
「つらかったでしょ。ほんと、しょうがない奴だわ」
「わたしも悪いのよ。どこかにスキがあったのよ」
「今度から気をつければいいわ」
Y子は、桜子のグラスにビールをついだ。
「飲みなさい。飲んで忘れるのよ。嫌なことは。おいしいわよ。たまごも大根も何もかも」
店主がAにいった。
「お客さん、店を閉めますから」
「うん。もう終わりか」
「へい。あんただけね。俺は行儀のよくない人は、大嫌いだ」
Aは素早く立ち上がると、回れ右をした。
桜子の方をチラッと見ると、暖簾をくぐって出て行った。
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花シリーズ
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風が強まった。
暖簾がぱたぱたと音を立てている。
Aが外からきた。
Y子と桜子の間に立った。
「よお。今お帰りですか」
Y子の耳元でいった。
後ろから二人の肩に手をかけている。
酒が匂った。
Y子が気を強くしていった。
「ああら、社長さん。今日は何てご縁のある日なんでしょうね」
肩にのったAの手をつかんでおろした。
「あっいててて」
「もう少し手加減しろよ。どうした。まだ持っているのか。カエル」
桜子はひやひやしながら、ふたりのやりとりを眺めている。
Y子の太ももを指でつっついた。
「ええ。なんなら、お見せしましょうか」
「いい、いい。もうたくさんだ」
「一代で身を起こした人なんですもの。あれしきのこと、どうってことありませんでしょう」
「まあな。ごめん。俺もやりすぎたよ」
「わかっていただければいいの。今後もよろしくお願いします」
Y子は椅子にすわったまま、ぺこりと頭を下げた。
部下二人が立ちあがった。
暖簾の向こうからAにいった。
「社長、ぼくらはこれで失礼します。ごちそうになりました」
Aは振り向いた。
暖簾の外に顔をだした。
「そうか。また月曜日、会社で逢おうな。仕事、早く覚えてくれな」
「はい。よろしくお願します」
職が見つかっただけでも有難いと、ふたりは考えている。
酒が人を変えるくらいのことは、知っていた。
「社長、桜子さんのことが好きなんだ」
Cが思いだすような顔でいった。
「どうだろうね。ただの悪ふざけかもしれない。ほんとに好きなら、当人が困るようなことはしないぜ」
Dが応えた。
「そりゃそうだ」
「よく煮えましたよ。Yちゃん、いつものでいいかい」
手ぬぐいを鉢巻きにした、七十がらみの店主がいった。
「ああっ、おじさん。遅くなってごめん。それでいいわ。二人分ね」
「へい。ありがとうよ」
「桜ちゃんは、飲み物は何がいい」
「ビールがいいわ。咽喉がかわいてしょうがないの」
Aが、元の席にふらつきながら戻って行った。
よいしょっと言って、止まり木にすわった。
テーブルに両手をついて、頭の右側をのせた。
お休みと言って、眠りはじめた。
ネクタイがゆるんでいる。
結び目がずいぶん下にある。
「社長さん。眠っちゃったわ」
「ほっときなさい」
「風邪ひくわ」
「いいのよ。寒けりゃ寒いようにするから。大人だもの」
「ちょっと冷たいんじゃないの」
「じゃあ、桜子。好きにしたら」
「おじさん、毛布ありますか」
店の奥にあった厚手の上着を桜子にわたした。
「良い人だね、あんたは」
肩にかけてやろうと、Aに近づいた。
すぐそばに来た。
Aの右手が動きだした。
桜子の体を抱いた。
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カクテルバー美雪の灯りが消えた。
店内では、奥のソファで、今日の反省会が開かれている。
ママとホステス二人が、テーブルをはさんですわっている。
ママのミユキが切り出した。
「大丈夫かな、Aさん。部下の手前もあっただろうし。心配だわ。ちょっとやりすぎじゃなかった」
「常連客だし気心が知れてるから、また来てくださると思いますわ」
Y子が応えた。
「それにしても、ゴムのカエルを膝の上に置いておくとはね。Aさんの顔ったら、見られたものじゃなかったわ」
ミユキが腕を組んでいった。
「オイタがすぎるわ。だんだんエスカレートしてくるんですもの」
桜子がいった。
「あれさえなければ神士なんだけど」
Y子がおひやを飲みながらいった。
ポンと、カエルをテーブルに置いた。
「ひやあ。びっくりさせないでよ」
ミユキが驚いた。
「よくできてるわねえ。見れば見るほど本物みたい。どこでこんなもの手に入れたの」
桜子がたずねた。
「小二のうちの子が、おもちゃ屋で見つけてきたのよ」
「この目といい、この背中のイボイボといい。ああっ気味が悪いくらい。ぐえって鳴くのは、どういうしかけ」
「おなかの中に音が出る、ちょっとした機械があるみたい」
ミユキが締めくくるようにいった。
「まあね。お客様あっての商売。ひとりひとりを大切にしましょう。こんな不景気な時代よ。せっかく癒しを求めていらっしゃるのだから、臨機応変に応対してね。プロなんだから、逃げるところは、うまく逃げる。我慢するところは我慢する。それと、自分なりの芸を磨いてください。以上、終わり。ご苦労さまでした」
化粧部屋に、桜子とY子がいる。
帰り仕度をしている。
「どう、桜子。屋台で一杯やっていかない」
「ええ、いいわよ、少しくらいなら。Y子は子供さん、大丈夫なの」
「ばあちゃんがいるから、平気。よくなついているわ。帰宅する頃は、いつもすやすや眠ってるわ」
「旦那さんはどう。あたしは独り身だから平気だけど」
「今夜は花金よ。会社の接待で午前様。毎度のことよ」
K川の土手ぎわに、屋台の灯りがならんでいる。
柳が風をうけて揺れている。
三日月が出ていた。
桜子が両手を合わせた。
「何をお祈りしたの」
「内緒。小さなお願い」
「桜子はお母さんとふたり暮らしね」
「ええ、そうよ」
Y子は、それ以上詮索するのをやめた。
人それぞれに重荷を背負って生きている。
生傷をえぐるようなことになるかもしれない。
「さあ。ここよ。おでんがおいしいの」
「楽しみだわ」
暖簾をくぐった。
先客が三人いた。
A社長と彼の部下だった。
Y子は驚いたが、逃げるわけにはいかない。
どんと構えることにした。
Aが桜子を認めた。
立ち上がって、ふたりのそばに寄った。
足元がふらついている。
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ネオン街の一角。
カクテルバー美雪に灯りがともった。
この街では一番人気の店である。
金曜の宵である。
大通りを外れて、人々が路地に入りこんで行く。
ひいきにしているバーに、ひとりふたりと吸い込まれていく。
М公園が近い。
桜の木が多い。
新緑が匂い立つようである。
暗闇の中に灯りが点々と続いている。
坂道に男の声がする。
「これからがんばってくれよ。ふたりとも」
「はい、社長」
「がんばります」
三人の男がМ神社にお参りしての帰り道らしい。
「お守りをいただきまして、ありがとうございます。妻が喜びます」
「Cくん。お子さんが無事に産まれてくれるといいな。我が社で君の前途が開けるようにな。子にも金がかかる」
「お気づかい感謝します」
「Dくん。君は独り身だから、縁結びのお守りじゃ」
「ほんとにすみません」
「悪い事をしたわけじゃないんだ。すみませんじゃなく、ありがとうだ」
「はい。ありがとうございます。言葉づかいは難しいですね」
「そうだよ。社会人第一歩だ。言葉を大切にしろ」
大通りに出た。
タクシーが頻繁に行きかっている。
車のライトがまぶしい。
信号が青に変わった。
「これから良い所に連れていってやる」
「良いところですか」
「そうだ。この通りを渡ってしばらく歩いた所にある。行きつけのバーだ」
社長のAが、バー美雪のドアを押した。
軽やかな鈴の音が鳴った。
店内は薄暗い。
「いらっしゃいませ」
ママの美雪である。
「あら社長さん、今日はお連れさんが」
「そうだ。新入りだ。よろしく頼む」
「はあい。わかりました。カウンターになさいますか」
「いや、ソファがいいな」
「ご指名は」
「わかってるだろ」
「ええ。桜子さん、おめでとうございます」
三人は、向かい合ってすわった。
ママが、ひとりひとりにしゃがんでおしぼりを手渡した。
大学を出たばかりの男は緊張している。
おしぼりを広げて顔を拭いている。
桜子が現れた。
薄桃色のドレスを身にまとっている。
社長のわきに立った。
「素敵な衣装だな。良く似合うよ」
「お口が相変わらず、お上手だこと」
「いや、ほんとにそう思ったまでのことさ」
桜子が隣にすわった。
「今日はお連れさんがおいでなんですね」
「うちの会社に入ったばかりなんだ。CくんにDくん」
「こんばんは。ごひいきに」
ふたりは頭をさげた。
桜子は微笑んだ。
「あたし、初心な人が好きなの」
「おいおい、俺はどうなんだ」
「あれ、いらしたの」
「それはないだろう。冗談がきついなあ」
「何を飲みますか。Cさん」
「私はビールを」
「あなたは、Dさん」
「ぼっぼくは、ウイスキーの水割りをお願いします」
テーブルの下で、社長の右手が動きはじめていた。
桜子のドレスのスカートに触れている。
「社長さん、あたしカクテルを頼んでいいかしら」
「ああいいよ」
「バーテンさん、いつものお願いね」
カウンターの奥で男がうなずいた。
社長の声がうわずってきた。
「おっおれにも、同じものを頼む」
「はい。承知しました」
男が桜子に目配せしながらいった。
社長の右手が、そろそろと桜子の体の真ん中に近づいて行く。
手に汗がにじんでいる。
彼の心は会話にはない。
桜子がどこまで許してくれるかに、神経が集中している。
ふわふわしたシャクナゲの花びらのようなスカートの上で、まるでひとつの生き物のように手がさまよっている。
ナンバー2のY子が、社長のわきに立った。
男のバーテンダーが、社長の手の動きに気付いたのだ。
「ああら、社長さん。桜子ばかりじゃいやですわ。あたしもたまには可愛がってください」
いまいましい。もう少しのところだったのにと、Aは悔しがった。
一陣の風にあおられて、蝶が花を失くしたようであった。
社長の右手がソファをひっかいている。
「いいい、あたし桜子と同じものを頼んで」
「ああ」
社長がぞんざいに答えた。
「なあに、そのお顔。いやよ。あたしが来たからって、それはないでしょ。これでもあたし、社長さんのことを前から尊敬してたんですもの」
目をふせた。
長い黒髪が顔をかくした。
Y子はお芝居がうまい。
実際素人劇団でヒロインを演じることがあるくらいだ。
桜子は、部下のふたりにサービスしはじめた。
「はい、しーさん、おビールをどうぞ」
「どうぞ、でーさん、ウイスキー」
しゃがみこんで、ひとりひとりに丁寧に接待している。
社長は、苦々しい表情で見つめている。
「あっ」
不意に大きな声がした。
社長が言った。
顔が青ざめている。
Y子の股の間で、社長の右手が何かをつかんだ。
やわらかくて、ぶよぶよしている。
それを確かめるように、ゆっくりとなでまわしている。
ゴム製の蛙であった。
社長がつかむと、ぐうっと鳴いた。
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本選の日の朝。
よく晴れている。
S子は、Dテレビ局のロビーに入った。
受付係にハガキを渡す。
ジュンだった。
「お早うございます。記入していただくことがあります。あとで書面をお渡しします」
事務的に言った。
「はい」
S子は、ジュンの顔を見ながら、小声で答えた。
隅のベンチにすわった。
楽譜をバッグから取り出した。
足で拍子をとりながら小さく歌う。
本番撮りの時刻は、八時半である。
あと少し時間がある。
S子は玄関わきで練習することにした。
あたりに人影はない。
イアホンを耳に差し込んだ。
カセットのスイッチを入れた。
声を出して歌いはじめた。
背中をポンと叩かれた。
振り向くと、ジュンの人懐っこい顔があった。
「おはよう。がんばってね。いつもの調子なら大丈夫だよ」
「ええ、ありがとう」
「これ、受け取ってくれる」
紫色の短い紐のついた水晶玉である。
「何なの」
「おまじないだよ、合格の」
S子の掌にのせた。
ぐっとにぎった。
目に涙がにじんできた。
「あっ、だめ。泣いちゃ。お化粧がくずれる」
ジュンに思わず抱きついた。
彼は建物の柱の陰に誘った。
ジュンがS子の額にキスした。
自分は男の人とは縁がない。
S子は、長い間そう思い込んでいた。
その思い込みが壊れた。
彼女は幸せだった。
彼がほしい、ほしいと思わなきゃいいんだ。
自分に正直に生きてさえいれば、それで良かったんだ。
あたしの魅力に気付いた人が、自然と寄って来るんだ。
あたしの、ジュン。
彼女は顔をあげた。
目を閉じた。
「あっ、時間だ。ロビーに戻って」
ジュンが言った。
スタッフの顔つきに戻っている。
「出場者の皆さんは、集まってください」
ジュンの声が、ロビーに響いた。
S子はいとおしく感じた。
出場者は全員で八名である。
それぞれに応援の人がついている。
S子は誰にも内緒にしていた。
一番最後に名前が呼ばれた。
スタジオの中は、ひんやりとしていた。
予選で来ているから、二度目のスタジオであった。
緊張しているせいか、前より寒く感じられた。
ひとりひとりが、一番だけ歌うことになっている。
司会者ふたりと話をしたり、審査員のコメントを聞いたりする。
一時間くらいの番組を形作る。
待ちくたびれちゃったわ。
心の中で思った。
スタッフが、スタンバイするようにと、手招きした。
ようやく彼女の番がきた。
ステージわきの椅子にすわる。
S子は、もう一度気を取り直そうとした。
手のひらに、指で人という字を書く。
飲み込むマネをした。
女性のスタッフが化粧を直してくれた。
小さく、ありがとうと言った。
彼女は微笑んだ。
ステージに立った。
S子なりに、精一杯の衣装を身に付けている。
春らしいピンクを基調とした装いである。
普段は、引っ込み思案な性分である。
前奏がはじまった。
人が変わったように大胆になった。
歌の世界に入りこんで行く。
春色の 汽車に 乗って
海に 連れて 行ってよ
手振り身振りをまじえる。
メリハリをつけている。
感情をこめる。
まるでプロ歌手のようであった。
ジュンはスタジオの隅にいる。
じっと見つめていた。
S子が歌い終わった。
ジュンの目から、涙がすうっと流れた。
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