放送室の戸締りをしようと、Mは鍵穴にキー
を差し込んだ。
体育館のライトはついているが、黒幕が垂
れているせいで、あたりが暗い。
ドアについた小窓から、明かりがもれている。
あれ、誰かいるのかな。
ドアが開くと同時に、室内は暗くなった。
淡い光を放った玉が、ドアの下からすっと外
に出て行くのに、Mは気づかなかった。
不審に思い、懐中電灯で隅々まで照らした。
何も変わりはなかった。
マイクがのっている机の上に、高さ三十セン
チくらいのケースに入った人形があった。
大昔のお姫様をかたどったものだ。
いつ見ても、可愛い顔をしてるな。
Mは、笑みをもらした。
はてな、この人形。どこかで見たような気がす
るんだがな。
Mは、腕組みして考えこんだ。
いや、そんなわけないか。
あわてて、打ち消した。
「よし、異常なし」
Mは、外に出ると、ドアの鍵を閉めた。
人形の目が、大きく開いた。
優しい表情が、恐ろしい形相に変わっていく。
放送室のわきにグランドピアノが置いてある。
ピアノの後ろが、淡く光っていた。
Mは、ステージの階段を降りようとした。
「おじさん」
聞き覚えのある声だった。
「なんだい」
ふりむいて、暗がりに声をかけた。
「びっくりしないの」
「しないね。この間の子だろ」
「当たり」
ぴょんと、ピアノの陰から飛び出した。
「何か、用事があるのかい」
「ええ、そうよ。おじさんの力を借りたいの」
「年寄りだから、何にもできないよ」
「あのね、このピアノを、時々弾く女の子
のことなんだけど」
「その子がどうしたんだい」
「ひどいいじめにあっているの。あたしだ
けでは、どうしようもないのよ」
「詳しく話してみて」
Mは、真剣な表情になった。
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キッキキイ。
小石がはさまったような音がして、玄関の
網戸が開いた。
「おかあさん、ただいま」
百合子は、咽喉の奥から声をしぼりだした。
台所から、カレーの匂いが漂っている。
百合子は、かすかに微笑んだ。
台所へ顔を出さずに、すぐに二階への階段
をのぼった。
今のあたしは、どんな顔をしているだろう。
人に見せられないわ。
あの先生は、あたしのこと・・・・・・。
恥ずかしくて、最後まで言い切れない。
泣くしかなかった。
母には、どんなことがあっても、絶対に涙を
見せたくない。
臨終間際の父に誓ったのだ。
「父さんは、もっとお前のことをみていてや
りたかった。でもな、どうしたわけか神様が迎
えに来られたんだ。ゆり・・・母さんを、頼む」
父は、そう言って、目を閉じた。
四十五歳になったばかりだった。
母ひとり子ひとりに、なってしまった。
「おかしいわ。いつものゆりの声じゃない」
台所で夕食の用意をしている母は、娘の身を
案じた。
先生に叱られたのかしら。
いや、あの子にかぎって、そんなはずはない。
先生の言いつけは、しっかり守れる。
勉強だって、それなりにやっている。
誰かにいじめられたのかしら。
父親がいないからって。
目の前の窓ガラスは、真っ暗になっていた。
やっぱり、何かあったんだわ。
いつもより、帰りが遅いもの。
カレーの具にルーがしみこんだので、幸子は
かきまわすのをやめた。
ガスを止めた。
急いで、階段下まで行き、灯りをつけた。
「ゆりい、ご飯ができたわよ。おりていらっ
しゃい」
と、明るい声で呼びかけた。
ギイッ。
ドアが開いた。
ゆりが階段の上に立った。
花柄のパジャマに着がえていた。
青いジャージの上着は、くず入れにほうり
込んだ。
ふいに、長い髪の毛を両手でつかみ、顔に
垂らすようにした。
両手を前に出し、手首を折った。
「母さん」
「ゆり、何よ、その格好は」
「お化けええ」
母は、笑いだした。
「うそ、うそ、何もかも、うそよ」
ゆりは、 明るい声で言いながら、階段を下り
てきた。
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「百合子は、ほんと、ピアノ上手なんだか
ら」
青いジャージの裾を、くるぶしまでまくった
三年生の美知が、百合子の胸ぐらをつかん
で言った。
邪気を含んだ視線を浴びせかけながら、
「ゆりこ、なんとかいいなよ」
といって、ほっそりした身体を壁におしつけ
た。
百合子のくちびるは、青ざめていた。
身体が震えている。
何も言いかえせないでいた。
「そうだそうだ、音楽の先生のお気に入りだ
からって、いい気になるんじゃないよ」
ほかの取り巻き連中が、声をそろえた。
放課後の体育館裏。
五人の女子が、ひとりの髪の毛の長い女の
子をかこむようにしている。
百合子の長い髪の毛をもてあそんだり、引っ
張ったりしはじめた。
「よおよお、どうなんだよ」
美知が、ジャージの上着をぬがそうとした。
むりやり、両手で引っ張り上げた。
白いブラがあらわれた。
「ブラ、取ってやれ」
美知の部下のサチが、手をかけた。
ほかの連中が、百合子のからだを動けない
ように押さえつけている。
パチン。
ブラが、はずされた。
百合子は、その場にうずくまって泣き出した。
「おい、こらっ。そんな所で何やってるんだ。
早く運動場に来い」
後ろで、怒気のある男の声がした。
体育のA先生だった。
五人は、わっと散らばった。
百合子が、ひとり、残された。
髪の毛がくしゃくしゃになった百合子は、
うずくまったままだ。
「なんだ、どうした」
Aは、百合子のそばに寄って、しゃがみ込
んだ。
百合子の肩に、右手をおいた。
安心したのか、すすり泣きが大きくなった。
「うん、どうした。だっ、だいじょうぶか」
Aの左手が、百合子の胸に伸びた。
ジャージの上から、オッパイをさわった。
百合子は、ええっと、思った。
先生まで、あたしをいじめるんだ。
信頼していたのに。
誰も見ていないのをいいことに。
百合子の心は、恐怖感で満ちあふれた。
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踊り場に一歩足を踏み入れると、Mのから
だは、固まったように動かなくなった。
意識は、しっかりしている。
目は、じっと人影を見すえた。
しだいに暗闇に目が慣れてきた。
十二単を着た黒髪の人形が、床にしっかり
と足を付けて立っていた。
暗闇でふわふわしていた光り玉が、ふいに
人形の中にすううと、入りこんだ。
人形は、淡い光を放ちはじめた。
光りが強くなってきた。
Mは、まぶしくて見ていられない。
思わず、両目を閉じた。
金縛りというものだろう。
恐ろしい夢を見た時に、こういう状態にな
ったことが幾度かある。
目覚めていて、なるのは初めてだった。
不思議と、恐怖は感じなかった。
幼い頃に母の胸に抱かれた。
そんな安心感に似ていた。
からだがようやく動きだして、Mはその場に
くず折れるようにすわりこんだ。
「おじさん、怒ってるの」
声のした方を見た。
小さな女の子が立っていた。
五歳くらいの子供だ。
赤いスカートをドレスを身に付け、黒い皮
靴を履いていた。
こんな夜更けにひとりでいるなんて。
一体どうしたのだろう。
奇妙に思った。
「ほら、見ていて」
手足をかろやかに動かしはじめた。
足の動きが、めまぐるしくなってきた。
タップを踏みはじめた。
トン、トン、トットン、トーン。
タンタン、タンタタ―ン。
足に合わせて、踊るように両手を動かして
いる。
からだをくるくる回した。
「おじさんもやってみて」
両手で、Mの左手をひっぱった。
「おじょうちゃん、おじさんには無理だ」
「そんなことないわ、ほら」
と言って、Mの手のひらに息を吹きかけた。
何か温かいものが、Mのからだをかけめぐった。
二十歳くらいのからだに戻った気分になった。
女の子に手をとられて、いっしょに踊っていた。
どのくらい踊っていただろうか。
「あっ、いけない。時間だわ」
と、女の子が口走った。
ボオン。ボオン。
体育館の柱時計が、十時を打った。
「おじさん、また来てね」
「なんだ、もう帰るのか」
「ええ、いつまでもいたいけど、そうもい
かないのよ。約束があるの」
「誰と約束したんだ」
「か・み・さ・ま」
「ふうん。なるほど」
Mは、その子をじっと見つめた。
「はずかしいわ、おじさん。そんなに見つ
めないで」
「家まで送って行ってあげようか」
女の子は、うふふっと笑った。
「ここが、あたしのおうちなの」
Mはあまりに楽しくて、初めに何があった
のか、忘れていた。
「そうだそうだ。そうだった」
「おじさんの、忘れんぼ」
小さな柔らかい手が、Mのひたいにふれた。
Mは、両目を閉じた。
若き日の母の顔が、目に浮かんだ。
涙がにじんできた。
そっと目を開くと、女の子の姿がなかった。
あたりが、元の静けさに戻っている。
Mのはげしい息遣いだけが聞こえている。
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体育館の扉を両側にいっぱいに開くと、生温
かい空気が、Mの年老いた身体を包んだ。
今さっきまで、二十歳くらいの男たちが、バス
ケットボールの練習をしていた。
なつかしいな。
若者たちの汗のにおいが混じっている。
青春の香りだ。
Mは、深呼吸した。
一回、二回、そして三回。
身体が少し、若返ったような気持ちになった。
はい、ご苦労様。
体育館のすべてのライトを消そうとした。
スイッチを押した。
ザンッ。
あたりは、真っ暗になった。
ザアアアッ。
Mは、耳を澄ました。
午後九時を過ぎている。
車が一台近づいてきて、通り過ぎる音だった。
館内は、静かになった。
山の中の中学校である。
トン、トン、トン。
ステージの上で、音がした。
やれやれ、空耳だろう。
この頃、耳が遠くなってしまって生活に支障を
きたすようになった。
耳鳴りがひどい。
Mは、ため息をついた。
トン、トン、トン。
トン、トン、トン。
トン、トットン、トン。
小さな革靴で、誰かが軽いタップを踏んでいる。
そんな音だ。
バカな。
誰もいない筈だ。
Mは、ライトをもう一度つけた。
ステージには、誰もいなかった。
「こらっ、まだ誰かいるのか。早く帰れ」
館内は、森閑としている。
やはりな。俺の気の迷いだ。
大きなため息を、もうひとつつきながら、Mは
ライトを消した。
何気なく、ステージの闇に目をこらした。
ひとだまが、豆電球のような淡いひかりを放っ
てふわふわしていた。
Mは、あっと声をあげそうになったが、考え
直した。
耳だけじゃなく、目も悪くなったんだ。
どうせ、目の錯覚だ。
バタンッ。
Mは、怒ったように、両側から戸を閉めた。
まさか、今のご時勢に幽霊でもあるまいし。
誰かのいたずらだとしたら、人が悪すぎる。
年寄りをバカにせんでくれ。
廊下に出て、スイッチを押した。
廊下も階段も、暗くなった。
「おじさん、ねえ、おじさん」
小さな女の子の声が、耳元で聞こえた。
ええいっ、いつまでも。悪さしおって。
Mは、階段の手すりを、ひとつ思いきって
たたいた。
一段ずつ、足元を、懐中電灯で照らしていく。
ボール状の物体がひとつ、淡い光を放ちな
がら、踊り場で飛びまわっていた。
人形のような人影が、その下に見えた。
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