|
男が歩いている。
夕方決まった時刻に、その家の前をとおる。
築六十年のあばら家である。
昔は商いをやっていた。
軒先に、サビ着いた四角い金属板がある。
飲料水の宣伝用であった。
跡取りは、いない。
都会に出てしまった。
中年の女が、その家を借りていた。
ある日の夕方。
女は、男の視線が自分に注がれているのを感じた。
女は一瞬で、男の意図を読んだ。
十年前に夫を失くしていた。
男には妻がいたが、永らく夫婦生活がなかった。
還暦をすぎているが、あまり体力を使う仕事をしていない。
精力が余っていた。
その日の深夜。
細い雨が降っていた。
男は、傘をささずにその家の玄関口に立った。
戸が十センチくらい開いている。
淡い灯りが土間を照らしていた。
男は、戸に手をかけた。
家の中から、女の長い右手が伸びた。
男の手を引っ張った。
左手も伸びて来る。
両手で、男の体を引っ張りこんだ。
女の口は大きくて、男を体ごと丸のみにした。
男は、オンナの胃の中にいる。
すえた匂いが漂っている。
男の体は、半分溶けている。
それでも男は、愉悦の表情をしていた。
|
手のひらの小説
[ リスト | 詳細 ]
|
終業を知らせるチャイムが鳴った。
二階から下りてきたS子に、М課長が声をかけた。
「お疲れ様」
二階から続いて下りてきたマスクをしたB子に、М課長は素知らぬ顔をした。
S子とB子は一階のトイレの鏡の前でならんで、身づくろいをしている。
互いに一言も発しない。
М課長の応対に、それぞれ疑問を持っていた。
S子は思う。
「課長さん、あたしのこと気になるのかしら。挨拶を欠かしたことがないわ」
B子は思った。
「М課長って、思いやりがあるわ。風邪をひいて、咽喉が痛いことを気づかってくれてるんだわ」
Мは思っていた。
S子って、挨拶をしないと、不機嫌な顔をするんだ。
B子は、俺が好きなのを知っているくせに、マスクをして顔をかくすんだ。
ふたりとも、嫌な女だ。
S子とB子は、Мの応対がそれぞれに違うことに、不審の念を抱いている。
挨拶をしたかしないかで、気をもんでいる。
互いに嫉妬や羨望の種が、心の中に芽生えている。
こうして、日常生活が行われている。
意志の疎通など、まったくないままに
。
|
|
О通りの真ん中あたりに、歌声喫茶店がある。
二階席は、ヴェランダが付いている。
興がのると、若者は通りの方を向いて大声で歌いだす。
女性が通ると、冷やかす者もいる。
どう見ても、酒がはいっているとしか思えない。
動物園のチンパンジーが、見物客を相手に、牙をむいてほえたてるのに似ている。
節電のお上げで、通りは八時を過ぎると薄暗い。
その夜も、若者たちがヴェランダに出て騒ぎはじめた。
声をそろえて、がなりたてる。
スピーカーから、声が出ているようなものである。
辺りは静まっている。
久しぶりに、О通りをKは散策している。
あまりの変わりように驚いている。
三十年前は、もっと人間らしい、恥じらいを知る街であった。
Т県一の文化都市であった。
男たちの声に驚いて、若い女性は足を速めた。
途中から駆け足になった。
ヒュウヒュウと口笛を吹き鳴らしている。
さんざんな通りになってしまったな、とKは嘆いた。
まったく、窮すれば鈍すだ。
俺たちの知っている歌声喫茶とは全く違うな。
ロシア民謡といった静かな曲を斉唱したものだった。
時代が変わったんだなと、考えるしかなかった。
あんな形でしかストレスを発散出来ない若者も、哀れと言えばあわれであった。
ここ十年で、閉じる店が続出した。
一流どころは、逃げ足がはやかった。
気が付くと、夜中は酔っ払いが闊歩するだけの通りになっている。
怖がって、女性たちは誰も近づかない。
ますます通りは、さびれていった。
店の三階に住む年輩の女性が、バケツにいっぱい水をくんで窓際に立った。
窓を静かに開けた。
下に水をぶんまけた。
すぐに窓を閉めた。
不意に大声が止んだ。
Kは不審に思って、見上げた。
若者たちが、濡れネズミのようになって上を見上げている。
Kは、思い切って店に入った。
二階にあがる。
この事態を放ってはおけない。
遺恨がのこる。
あの若者たちを、このまま見過ごしておくわけにはいかない。
これからまだ人生は長い。
そう思った。
マスターに訳を話した。
ソロをやらせてもらうように頼んだ。
優しい風貌の六十がらみの男である。
すぐにKと意気投合した。
ヴェランダにいる者は、どうしたらいいかわからず、寒そうに震えていた。
マスターから、タオルを一枚ずつ渡してもらっていた。
「やりすぎだったぞ。いい薬だ。俺の言うことを聞かなかっただろ、お前たちは」
「すみませんでした」
「三階のおばさんには、俺からあやまっておく」
「早く帰って風呂でもあびろ」
「はい」
いっせいに、返事をした。
「その前に、ちょっとだけお前たちの耳を貸せ。昔の歌声喫茶がどんなものだったか、聞いてみなさい。ひとりの人生の先輩に歌っていただく。それじゃ、お願いします」
Kがマイクなしで歌いだした。
部屋にいる者たちの心に、哀愁の気分がしみる。
夜霧のかなたへ 別れを告げ おおしきますらお いでてゆうく
窓辺に またあたく ともしいびいにい つきせえぬ おとおめえのお 愛のかあげえええ
若者たちは、しんみりしている。
聞き入っている。
Kもマスターも、この子たちはまだ大丈夫だ。
それぞれに希望が持てる。
そう感じていた。
|
|
ビル街の谷間にある小さなレストラン。
近くにはТ証券取引所がある。
昼休みである。
芳美と由美子は、通りに面した窓際にすわった。
歩道の街路樹が、季節を告げている。
人々が忙しげに行き来している。
「ここは、オムライスがいちばん人気なのよ」
芳美がいった。
「じゃあ、あたしは初めて来たのだから、それをいただこうかな」
由美子はそう言って、棚にあった女性週刊誌を手にとった。
彼女は、占いに興味を持っている。
手相のことが詳しく書いてある。
胸がわくわくしてきた。
夢中で読んでいる。
芳美が、不満そうな顔をしている。
「ねえ、ふたりなんだもの、何かお話しましょうよ。入社したばかりの男性のこととかさ」
「ああっ、ごめんごめん。ついつい我を忘れちゃって」
由美子は、まだ手相占いが気になるのか、右手を広げて眺めている。
感情線の端が三本に分かれているから、人の顔色をみて行動するのがとても上手か。
ひとりで、しゃべっている。
「あなたの右手をみせて」
芳美が右手を差し出した。
「感情線の上には、一本の枝線もなく、下側に枝線がたくさん出ているから、恋愛が悲劇的な結末におわる。
うううん。でも、心配ないわよ。人の運命って、生まれつき決まっているものではなく、刻々と動いているんだって。努力で、ある程度変えられます」
芳美の声が、急に野太くなった。
「ねえ、由美ちゃん」
由美子は、あっと驚いた顔をしている。
芳美の顔を見つめている。
「あたしは、左手でうらなうのよ」
まわりのОLが、一斉にふたりを見た。
|
|
Т新幹線の車中。
東京に向かっている。
四角く切り取られた風景に、富士山が現れはじめた。
進行方向右側の三人がけの窓際の座席に、Мがすわっている。
四十年前と少しも変わらないなと、ホッとした気持ちでいる。
日本一の長いトンネルに入った。
Мの顔が黒い窓ガラスに映る。
笑ってみた。
深いしわが顔中にできた。
ひたい。
目じり。
口の周り。
顔は、まるで細長い溝だらけである。
白いモノが髪にも髭にもめだつ。
トンネルをようやく抜けた。
光がまぶしい。
通路をはさんだ反対側の二人掛けの窓際の座席に、学生らしい女性がすわっている。
青いジーパンをはいている。
初夏らしいラフな服装である。
今はやりの花柄のバッグを棚にのせている。
富士の遠景に向けて、ケータイカメラのシャッターを押している。
Мは不意に、学生に戻ったような気持ちになった。
無謀にも、その女性に声をかけた。
「富士がきれいですね」
怪訝な表情をされると覚悟していた。
彼女はほんの数秒、Мの顔をじっと見た。
そして言った。
「あたしは、K大学の文学部英文学科の学生です。あなたはどこの大学生ですか」
Мは、自分が聴き間違ったと思った。
最近、耳が遠くなっていたからである。
あの学生はちょっと変じゃないか。
還暦を過ぎた私がそんなに若く見えるわけがない。
列車はまたトンネルに入った。
Мは、窓に映った自分の顔を観察した。
あっと、声がでた。
二十歳くらいの自分の顔が、そこにあったからである。
|



