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「ここいらが、ものすごく痛かったんだよな」
そいつは、ぼくの顔を下からのぞきこむようにして、言った。
「なっ、そうだろ」
念をおした。
ぼくの心は、ざわめいた。
まるで湖面に小石が投げ入れられ、波紋が広がって行くようだった。
「ほんと、痛かったよな」
と、答えそうになるほど、そいつに同調していた。
正体は、まだよくは分からない。
でも、もう一人のぼくじゃないか、という気がしてきた。
ぼくは、そっと、そいつの右肩をさわってみた。
まったく抵抗なく、肩があるはずの空間を、ぼくの手が素通りしてしまった。
危うく、床につんのめりそうになった。
「気をつけろよ。俺は、とってもからだが軽い。ふ
わふわしているのが、自分でも分かるほどなんだ」
「どこから来たんだ」
「よくわからないんだ。気がついたら、ここにこうして、椅子にすわっていたんだ。
むしょうに腹が立っているんだ。誰かをぶん殴ってやりたいほどだ」
両手でこぶしをつくった。
「ぼくに、とっても似ていると思わないかい」
そいつは、じっとぼくを見つめると、「こりゃ、そっくりさんだ」
と、大声をあげた。
そいつは、急に両手で頭をおさえた。
「どうしたんだ、急に」
「頭が痛むんだ。ちっ、ちくしょうめ」と、口走った。
「あの女の先生に、仕返しをしてやろうじゃないか」
きっとした表情で、ぼくをにらみつけた。
トントン、トントン。
音楽室のドアを、誰かが軽くたたいた。
ぼくは、困った表情をして、ドアを見た。
ドアが開いて、女生徒が入ってきた。
ぼくは、あわててふりむいた。
なぜだか、あいつを見られてはいけないと、感じたからだ。
「ああっ、いたの。びっくりしたわ。ひとりだったの。もう
ひとりいたような気がしたけど」
先輩らしいが、まったく知らない人だった。
何しろ、三年の女子は、四百人くらいいる。
「すみません。さっき消しゴムを落したみたいなんで」
床の上をさがしまわる素振りを見せた。
「いっしょに探してあげようか」
「いいえ、結構です」
「これから、ここで部活がはじまるのよ。見つけたら、とっておいてあげる」
「ありがとうございます」
ドアのところに急いだ。
立ち止まって、ふりかえり、
「ぼくは、二年二組の内藤良夫です」
と、まわりを見ながら言った。
「私は、薮内早苗」
あいつが、どこかにひそんでいないか、心配だった。
どこにもいないようだ。
ぼくは、ふううっとため息をついた。
「それでは、失礼します」
頭をさげた。
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短編集
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その日の放課後。
ぼくは、もう一度、音楽室を訪れた。
なぜだか、とても気になったのだ。
音楽の授業以来、気分がむしゃくしゃしていた。
胸の中で、げじげじ虫がはっているような気分だった。
三時を過ぎていた。
ドアの前に立って、耳を澄ました。
まったく音がしない。
誰も部屋にいないようだ。
ドアのノブをまわしてみた。
くるっとまわった。
そっと押しあけて、中に入った。
後ろ手でドアを閉める。
かちゃっと、音がした。。
しばらく、そのままでじっとして、あたりを見まわした。
ぼくが、すわっていたあたりを見つめた。
一番前の机だ。
あの机の真ん中あたりに、女教師がひじをついて、ぼくを説教していた。
ぼくの顔のすぐ前に、彼女の顔があった。
そして・・・・・・。
ぼくは、当時の光景を思い出して、また悲しくなった。
目をつむった。
ふと胸騒ぎがして、目をあけた。
黒っぽい人の形をした影のようなものが、ぼくがすわっていた席に、腰かけているのが見えた。
目をこすって、見直した。
それでも、そいつはいた。
こわいもの見たさで、ぼくは近づいて行った。
歩いて行く間に、すううと、消えてしまえばいいと思った。
そいつは、ぼくがいくらそばによっても、消えないでいた。
それどころか、黒い影は、ますますその輪郭がはっきりしてきた。
どこかで見たことがあった。
ほかでもない。
ぼく自身だった。
どくんどくんと、音が聞こえるくらいに、心臓の鼓動がはげしくなった。
そいつはぼくを見て、くすくす笑った。
思い切って、話しかけた。
「きみは、だれだ」
「ぼくは、きみだ」
そいつは顔をしかめて、頭のてっぺんあたりをさすりはじめた。
つむじが、ふたつあった。
ぼくとおんなじだった。
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頭のてっぺんを、不意に、こぶしでごりごりこすられた。
あやうく「いてえっ。このオールドミスめ」と、声をあげそうになった。
ぼくは、音楽の女教師の突然の激しい怒りにさらされた。
歯をくいしばって、痛みに耐えていた。
おしっこがとびだし、パンツを濡らすのがわかった。
同級生は全員、静まりかえった。
まわりに、女生徒がいっぱいいる。
ぼくは、14歳だ。
恥ずかしさで、頬が紅潮するのがわかった。
机の上に、涙がぽつんと落ちた。
音楽室でレコードを聞いていた。
こぶしをつくり、机をとんとんたたいているのを、とがめられたのだ。
旋律に合わせて、拍子をとっていたのだ。
静かに聞き入っているのが本当なのだが、思わず、からだが動いてしまったのである。
もうひとり、両手で四拍子のリズムをとっている男生徒がいた。
「先生、何でぼくだけが怒られるんですか。
暴力を使わないでください。口で言えば、わかります」
ぼくは、そう言いたかった。
だが、言えないままでいた。
よっぽど悔しそうな顔をしていたのだろう。
女教師は、ぼくの顔をじっと見て、
「何よ、その目は。あの子は、静かにしている。要は、音を立てないことだ。みんなの
迷惑になるでしょ」
と、言った。
ヒステリーを起こしたんじゃないですか。
何かの八つ当たりじゃないですか。
「初めてですよ。気の弱いぼくには、もう少し血のかよった指導をお願いします。感じ
やすい年頃なんですからね」
と、言いたかった。
そう、叫びたかった。
終業のチャイムが鳴った。
やりきれない想いで、うつむいたまま、戸口をでた。
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花道の先端を照らしていたスポットライトが、不意に客席に移った。
恵子は、あっと思った。
背広を着た亮の姿が、浮かび上がったからだ。
ライトが横になびくと、公園で見かけた男たちの顔もあらわれた。
めいめいが正装している。
亮たちのことは、マネージャーに話しておいた。
「もしもあたしをたずねて来る人がいたら、無料で劇場に入れてあげてください」
マネージャーは、恵子の顔をじっと見た。
そして、うなずいた。
ライトが照らしだしたのは、むろん、ほんの一瞬だった。
すぐに元の位置に戻った。
天井にのびたポールにつかまり、恵子は踊っていた。
亮は、ただ、黙って見つめるだけだ。
杖をついていた老人の顔も見える。
生唾をごくりと飲みこんだ。
若い肢体を見るだけでも、十歳も若返る気がするわい、と思っている。
久しぶりに見る女のからだに、両手を合わせる男もいた。
恵子のショウが終わると、亮たちはそろって立ちあがった。
出口にいそいだ。
踊り子の衣装の上に毛皮のコートをはおった姿で、恵子が待っていた。
「みなさん、どうもね。よく来てくださいましたね」
公園の親方が代表して、礼を言った。
「ありがたいことでした。楽しませてもらいましたよ。入場料を払う気になったんですが、マネージャーさんが受けとらないと、おっしゃるものですから。甘えさせていただきました」
と言って、真っ赤なバラの花束をさし出した。
三十本ちかくあった。
「まあっ、きれい」
「どうぞ。私たちの気持ちです」
「ありがとうございます。いただきます」
亮は、集団のうしろにいた。
「おい、りょうさん。前に出てこいや」
そうだそうだと、男たちの間から声があがった。
ヒュウヒュウと、口笛が聞こえた。
亮は恥ずかしいのか、うつむいたままでゆっくりと歩いて来た。
「何だか、お知り合いなようで。バラの贈呈も亮の提案でした」
チケットを買うために、入口に男たちが列をなしはじめた。
「こっちへ来て下さい」
恵子が、劇場のわきの路地に男たちを案内した。
「どうですか。お茶でもいかがですか」
と、向かいにある喫茶店を指さした。
「いやいや、忙しいのに、とんでもありません。私たちは、これで失礼します」
恵子は、手をふって、亮を呼んだ。
茶封筒をわたした。
「帰りに、みんなで何か食べて」
亮は、にやっと笑うと、背広の内ポケットに入れた。
あの笑いだ。初めてあたしが亮に逢った時に見た笑顔だ。
「いろいろ気をつかっていただいて、ありがとう。それでは、これで失礼します。さあ、行くぞ」
親方がうながした。
空には、満天の星が輝いている。
「寒いから、からだに気をつけてくださいね」
ネオンのきらめく通りから見えなくなるまで、恵子は、男たちを見送っていた。
了
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いつもの喫茶店で、綾と会った。
久しぶりである。
恵子の結婚式に、招待して以来だった。
綾は、何か心配ごとのあるような顔をしていた。
「ごめんね、突然電話したりして。忙しかったんでしょ」
「うううん。まあね」
綾も、K街のある劇場で踊っている。
だが、風営法で警察の取り締まりが厳しくなり、客の入りが悪くなっていた。
世間のことにうとい恵子でも、うすうす感じていた。
当然、踊り子の実入りも少なくなった。
生活が苦しく、夫婦喧嘩が絶えないらしい。
夫は、パチプロだった。
まともに働こうとはしない。
経済的には、ほとんど綾に頼りきりだった。
綾がいつも不機嫌に見えるのは、そのためだ。
「何よ。亮に逢ったんだって」
「そうなのよ。まったくの偶然だったんで、驚いたわ」
綾はラークの箱を、ハンドバッグから取り出した。
箱を揺すって、一本とりだし、口にくわえた。
恵子は、すばやく、ライターの火をつけた。
綾は、一息吸いこんで、
「ありがとう」
と、言った。
「公園で暮らしていたなんてね。まったくあいつ、どうなってるんだろ」
恵子は綾の目を見て、ぞんざいに言った。
「だいたい、見当はついてたわ。私は」
綾は、灰皿のふちで、タバコの灰を落とした。
「ええ、どうして知ってたの」
「あんたが新宿に来てから、何日たっていたかな。突然、亮から電話があったのよ。今、新宿駅にいるって」
「へえっ、驚きだわ。どうして分かったのかしら。あなたの番号」
「昔、草津にいるときに教えたことがあったらしいわ。あたしは、すっかり忘れていたけどね」
「お金を借りに行ったんでしょ、その時」
綾はもう一口吸い、天井に向かって、ふうううっと、紫煙をはきだした。
「かなりたまっていたらしいわね。誰にでも見境なく、借りにまわっていたらしいから」
「そうなの。あたしもそばにいて、ひやひやだったもの。こわいお兄さんが、時折アパートのドアを叩きはじめたから。かえせえ。金、かえせえの大合唱よ。夜も昼もなかったわ。部屋にはいられずに、パチンコ屋で時間をつぶすことが多かった」
「なんとか新宿に着いたようだったわ。でも、手持ちのお金は底をつき、頼る人がいなくて、あたしに連絡したんだって」
「で、会ったんだ」
「昔の亮を知ってたからね。今は、あんなだけど、いい奴だったから」
「いくらか貸してやったの」
「一万円だけ。くれてやるつもりでね」
「ありがとう、綾さん」
恵子の目に涙がにじんだ。
「浅草の公園で会った時、亮に言ったの。何にもしてあげられないけど、たまに踊りを見に来てねって」
「で、どうした。亮は」
「肩をふるわせて、泣いてたわ」
「なんとか、立ち直ってくれるといいけどね」
「うん」
ふたりで窓の外を見た。
雪が降ってきた。
「公園は寒いでしょうね」
綾は、自分のことのように、亮を思いやっていた。
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