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渋谷駅まで、魔子は俺を送ってくれた。
魔子。すげえ名前だよな。
悪魔、魔女。魔界。
ずらずら気味わるい言葉が浮かんでくる。
本名は、麻子なんだけど。
「こっちの方が、お気に入りよ。通り名にしてるの」って。
俺がしつこく書き方を訊くものだから、ようやく教えてくれた。
いい気分になった俺は、すっかり打ちとけて、
「俺さあ、鳶やってるし、毎日手伝うってわけにいかないけどお」
腕を組んでいた魔子が、ふいに俺の肩に頭をのせ、
「それって、オーケーっていうことなの」
「うううん、まあな」
「うれしいっ」と、俺の体に抱きついてきた。
くちびるをとがらせ、俺の頬にふれた。
道玄坂下の交差点で、信号待ちである。
彼女の行為は、まわりの連中の視線をあつめた。
ちょっとやそっとの若者の醜態には驚かないが、突飛な魔子の行動に
唖然とする年輩が多かった。
「でもさ、山に芝刈りにって、なんだかおとぎ話みたいだぜ」
と、ハンカチで赤い口紅をふきとりながら、訊ねてみた。
魔子は、俺の体をはなすと、
「まあ、それは冗談だけどさ・・・・・・」と答えて、下を向いた。
「それで、何だよ。もったいぶらずに言ってくれよ」
「言っても、信じないだろうし」
「やっぱりおとぎ話なんだ」
魔子の身に付けている緑色の服が、ふいに生々しく感じられて、俺はぎょっとした。
服というよりも、皮膚に近い。
カメレオンみたいなひとつの生き物に感じられた。
美人と歩いているルンルン気分が、すっ飛んでしまった。
しかし、それは一瞬のことだった。
俺は、右手で目をこすった。
何も変わったところはない。
魔子が歩いているだけだった。
とりあえず、土日に喫茶店の仕事をすることにした。
泊まり込みでたのむ、とマスターは連絡してきた。
直近の土曜日、俺は朝早くアパートを出発した。
あたりはうす暗い。
住んでいるところは、墨田区だ。
田舎育ちの俺は、小さい頃からこの街が気に入っていた。
東武浅草駅まで徒歩で行き、地下鉄東西線に乗りかえた。
電車は揺れっぱなしだった。
大きな音を立てて、モグラのように進んで行く。
渋谷駅でドアが開いた。
シュー。
よいしょと声をかけて、俺は飛び降りた。
あたりを見まわすが、それほど降りる人がいない。
足取りが次第に重くなってくる。
ええい、しょうがない、乗りかかった船だ。
くそっ、俺は男だ。
あがったり、くだったりしながら、ようやく地上に出た。
ハチ公前に立った。
いつだって、まずはここに来る。
面と向かって、ハチ公に頭をさげ、両手を合わせていた。
俺は、運動靴をはいている。
歩くたびに、きゅっきゅっと音がした。
あれやこれやと、妄想がわいてくる。
何やら、背中がぞくぞくしてきた
都会は、夜も昼もない。
車がひんぱんに往来している。
ちょうど青だったので、横断歩道を走ってわたった。
道玄坂をのぼっていく。
人通りは少ない。
腕時計を見ると、約束の時刻が迫っていた。
午前六時だ。
最後は駆け足になって、ドアを開けた。
店内は、薄暗い。
「おはようございます」
勇気を奮いおこすようにして、奥に声をかけた。
黒い影が近づいてくる。
怪物か。
影になっていて、顔が見えない。
どきっとして、思わず胸をおさえた。
どうもいけない。これじゃ心臓にわるい。
先だっても、魔子が化け物に見えたし。
カチッ。
スイッチが入る音がして、あたりが明るくなった。
マスターがにこにこ笑っていた。
ふいに顔がぐにゃりと曲がり、鼻がするすると伸びた。
俺は、思わず目をつぶった。
まただ。また、幻覚だ。もういやだ。
「悪かったな、無理言って」
マスター自身の顔が、まじかにあった。
「いいえ、大丈夫です」
「時給は、はずむからさ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、こっちへ来てくれ。ちょっと説明するから」
厨房で話を聞いた。
いくら聞いても、やはりこの仕事。
チンプンカンプンだった。
江戸時代がどうの、山賊がどうのって。
まったくわけがわからなかった。
厨房わきに小さなドアがあった。
それを開けてみろと、言われた。
「俺もお前に続く。外に出てからだ。仕事の話をするのは」
おそるおそる俺は、油の付いた黒っぽいドアを開けた。
ひんやりした空気が流れこんできた。
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短編集
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俺が好むような曲とは、まったく違う。
しっとりとした雰囲気のある曲だ。
名前は分からないが、クラッシックだ。
それくらいはわかる。
一階正面にスピーカーがある。
それを囲むようにして、吹き抜けが作られていた。
二階にいても、一階とあまり遜色のない音色が楽しめる。
「どうしたの、ずいぶん静かじゃないの」
まこが俺の目をのぞきこんだ。
「だってさ、これじゃバカやってらんないじゃん」と低い声で言い、
外人がよくやるように、両手を軽く上にあげた。
「こういうの、あまり聞かないの」
「ぜえんぜん。中学校以来さ」
テーブルをはさんで、すわっている。
低音が腹の中で響いた。
両手で耳をおさえ、目をつぶると、昔の記憶がよみがえって来た。
残念ながら、うれしいことじゃない。
悲しかった少年の日の思い出だ。
父方の祖母の死に顔が浮かんできて、叫びだしそうになった。
まこが立ち上がって、俺の肩に両手をおいた。
「ねえ、だいじょうぶ」
俺は返事をせずに、うつむいたままだ。
目がしらがうるんでいた。
涙なんか見せちゃ、かっこ悪くてしょうがないと思った。
コツンと小さく音がして、カップが置かれた。
顔をあげると、ウエートレスがいた。
何も言わずに、お辞儀をする。
トレイを小脇にかかえると、階段をくだって行った。
音楽が明るくなった。
それでも俺は下を向いたままだった。
ふううっとため息がでた。
指で涙をぬぐうと、まっすぐにまこを見た。
ようやく、話をする気分になった。
砂糖とミルクをどちらも好きなだけ入れ、
カップの耳をつまんで、コーヒーをすする。
ズルズル音をたてた。
まこは、ほほ笑みながら、右手の人差し指を口元に持って行った。
「案外、おセンチなのね」
「ほっといてよ、べつにいいだろ。それより、自分の着てる服さ」
「服がどうしたの」
「言ってもいいかい」
「どうぞ、あたし気にしないから」
「ちょっと地味」
「そうかしら。あたし、グリーンが好きなの」
「春なんだしさ。もうちょっと明るいのが、似合うと思うよ」
「気にしてくれるんだ、ありがと。ところでさあ、あなたね」
「なんだい」
「ここで、働く気はない」
「何だよ、やぶからぼうに」
「マスターが人手をほしがってるの」
「足りてるんじゃないの」
俺はあたりを見まわした。
「女は充分なんだけど。男手がほしいの」
「力仕事をやるわけでもないのに、一体どうしたわけだい」
さっき、ふたりで話していたことだろう。
俺は、ちょっと身がまえた。
喫茶店で働いたことがなかった。
まこは、どうしたことか、その先を話さない。
両手を膝の上において、組んだり放したりしている。
「むずかしい仕事なのかい」
「うううん。ぜんぜん。いやなら、いいわ。行きましょ」
注文票を持つと、立ち上がった。
さっさと階段をおりて行く。
支払いを済ますと、厨房に入って行った。
なかなか出て来ない。
俺はしびれを切らして、暖簾をあげた。
まこが丸い椅子に腰かけて、下を向いていた。
匂いが鼻をつく。
色んなものが混ざっているからな。
納得しながらも、何故かなじめない。
マスターが、奥で手招きした。
そばに寄ると、「山で芝を刈るんだ」と言って、笑った。
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先ずはお茶でも、とA子に誘われた。
飲食街が立ちならぶ大通りを曲がると、急にひっそりした。
「ずいぶん静かですね」
「いいところでしょ」
手をつないだままだ。
知らない人は、きっと恋人同士だと思うだろう。
俺は、さっと手をひっこめた。
「いいのよ」
「ええ、だって悪いからさあ」
「こんなふうに街を歩きたかったんでしょ」
「そりゃあ、夢だったさ」
「だったら」
A子は、俺の手を再びつかみ直した。
あっと言う間に腕を組んだ。
「あっ、いいの」
前にも感じたが、腕っ節が強い。
毛が生えていたら、男だと言ってもおかしくない。
A子は返事をしない。
コツコツコツ。
ハイヒールを地面に打ちつけるようにして、歩いて行った。
曲がりなりにも、アベックで歩いている。
俺の胸はドキドキしてきた。
こんな美人と一緒だなんて。
「さあ、ここよ」
二階建ての古い建物だった。
軒先に看板が出ている。
真ん中に動物をかたどった絵が描いてある。
「なんだか古そうですね」
声がうわずった。
「ここのマスターとは、知り合いなの」
「へえ、すごいですねえ」
「ちょっと待って」
A子は携帯を取りだして、相手を呼びだしている。
もしもしから、ありがとうまで一分足らずの会話だった。
重そうなドアが開き、年輩の男の人が現われた。
白髪頭が素敵だ。
カジュアルな服装をしている。
どこかのおじさんって言うか、そんな感じの人だった。
「いらっしゃい、まこさん」
とてもいい笑顔で、出迎えた。
へえ、A子は、まこって言うんだ。
俺は、まこ、まこ、まこ、と心の中でくり返した。
「ご無沙汰していました」
驚くほど丁寧に頭をさげた。
「今日は、お友達と」
「ええ、勇ましい人です。有望ですわ」
「それは良かった」
「お力になれるといいんですが」
何のことやら、俺はチンプンカンプンだ。
友達は、俺のことだろうし、勇ましかったり有望だったりするのも、
俺のことに違いない。
なんでそうなるんや、俺は初めて来たんや。
どこかの漫才師みたいに、そう訊きたくなった。
ふたりして俺の顔を見ては、笑い合っていた。
店に入るなり、音楽に心をつかまれた。
こんな表現がふさわしいかどうか、わからない。
でも、ほかに言い方が思いつかない。
「二階がいいですか」
「空いていましたら、お願いします」
アンチークな装いをこらしている。
天井を見あげると、シャンデリアがぶらさがっていた。
俺の田舎には、こんな喫茶店はない。
建物からにじみ出て来るオーラもようなものに、頭がしびれた。
なんていうのか、いやでも歴史を感じさせられる。
ぽかんと口を開けたままでいると、
「ほら、かっこ悪いわよ」と、A子に指摘された。
「あ、うん」
先頭のマスターがふり返り、
「お気に召しましたか」と、笑顔を向けた。
俺は首をふって、それに応えた。
ほかにも客はいるが、みんな静かに音楽を聞いている。
ほとんど満員である。
俺は忍び足で階段をのぼった。
ひょうきんな俺の性格が、なりを潜めてしまった。
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気が変わってしまわないうちに、と早足になる。
手なんか振って、一体どういう料簡なんだろう。
一度も会ったこともないのにさ。
狐に化かされた気分だった。
俺なんぞ今まで、まともに女に相手にされたことがない。
それに、見たこともないような美人だ。
二十歳を少し越えたくらいだろう。
まあ、俺と同じ世代だ。
何かの間違いじゃないか、と思いながら、A子の消えた角をまがった。
ゆったりしたのぼり坂だった。
それほど息が切れない。
ふと大江戸線という言葉が浮かんだ。
一度も乗ったことがないが、良い名だな、と思う。
東京は昔、江戸といった。
誰だって、それくらい知ってるけどさ。
その頃、ここはどんな土地だったんだろう。
ちょっと調べてみたことがある。
山があり、川が流れていた。
人気のない所で、時々、山賊が出たらしい。
その親分が、道玄坂の由来らしい。
川の名前は、渋谷川。
しぶやの「や」は、谷か。
今は、まったく当時の面影はないが・・・・・・。
家康が治めるようになってから、治水に力を入れた。
八丁堀っていうものな。
うんうん、なるほど、とうなずきながら、ページをめくった。
「あんた、何か用なの」
突然、わきから声をかけられた。
壁がしゃべったと、思い、驚いてふり向いたくらいだ。
女の声にしてはちょっと太いが、A子に間違いなかった
ちらと見ただけで、網膜に刻みつけられていた。
なにしろ、AKBの誰だっけか。まん中で歌っている女。
その人に似ていた。
俺はちょっとばかり驚いて、黙ったままでいた。
こっちへ、と手を引かれた。
けっこう強い力で、ビルとビルの間に連れこまれた。
「あんたさあ、赤の他人にこんなに付きまとって、どうしようっていうの」
A子の剣幕に圧倒される。
ひとまわり体が小さくなった気分だ。
ふふっと、A子が鼻の先で笑った。
「な、なんで笑う」
「案外、意気地がないのね」
「意気地なしだと」
「そうよ」
俺は腕を組んで、A子をにらみつけた。
「そうそう、その意気」
「てめえ、俺をバカにしてるな」
「こんなとこまで、あたしを追って来たんでしょ」
「ああ」
「用もないのに」
俺はうつむいて、
「渋谷で女の子をひっかけようと思ってたんだ」
「誰があんたなんかに」
「ひどい言い草だな」
「見れば分かるわ。あんた、地のものじゃないでしょ」
顔が赤く染まるのが、自分でもわかった。
「わかるわ、すぐに。野暮ったいもの。何なの、その頭。にわとりのトサカみたい」
自分では格好がいいと思っていたが、あまりに率直に言われたので、
急速に気力がなえて行く。
「根っから、悪い人じゃないみたいね。女がほしけりゃ、
もっと違う所で良いところを見せた方がいいわ」
A子はちょっと間をおいて、
「ところで、あんた、時間ある」
俺は、「ああ」と生返事をした。
「折角だから、一緒に来て」
A子は俺の手をとって、歩きだした。
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果敢にアタックするところは、いい。
でも、今までに十戦十敗だ。
声をかけたとたんに、じろっとにらまれた。
それで、 ジ エンド。
きれいな子ばかり相手にするからさ。
てめえのつらをよく見ろ。
高嶺の花ばかり相手にするんじゃねえ。
奴らは男にちやほやされて、わがままになっている。
俺は、頭の中で、しゃべりまくっていた。
朝のラッシュみたいに混みあう中を、無理に通りぬけて行く。
ぐにゅっとやわらかいものを踏んだ。
「なんだよ、てめえ」
突然、男の声がした。
やたらと背が高い。
百七十しかない俺だ。
そいつはスカイツリ―みたいに、俺を見下ろしている。
バンッ。
わき腹に鋭いパンチをあびた。
体をひねり、うっと唸りたくなるのを我慢した。
「わ、わるい」
「ちぇ、意気地がねえな、かかってこいよ」
そりゃ、何も用がなけりゃそうしたいさ。だけど、今は暇がないんだ。
また、前進しはじめた。
やたらと人にぶつかる。
「誰よ、お尻、さわんないで」
中年女が声をあげた。
バカ野郎、おめえのケツなんか誰がさわるか。
歯ぎしりしながら、ようやく彼女にたどりついた。
名前が分からない。当たり前だ。
仮に、A子と名付けよう。
A子はいい匂いがした。
俺はくさい。首筋やひたいが汗まみれだった。
A子は背が高い。
ビルの谷間を通りすぎる風に、黒髪をなびかせている。
ほっそりした美人だった。
それだけで、俺の心はくじけそうになった。
どうせ断られるだろう。
A子は、もう感ずいている筈だった。
きっと今、俺のツラを見ている。
右頬が彼女の視線をあびて、ジンジンした。
信号が青になって、人だかりが動きだした。
見失ってはしょうがない。
俺は顔をあげた。
A子は、いなかった。
おかしい。そんな筈はない。今いたのに。
何度も飛び上がったが、それらしき姿がなかった。
横断歩道をわたり終えると、俺はぐったりして、建物の壁に体をもたせかけた。
このあたりじゃ、一度見失うと、二度と見つからない。
それに、知ってのとおり、やたらと厳しい決まりがある。
ストーカーだの、何だのとうるさい。
つけまわすことも出来ない。
恋愛も満足にできないじゃねえか。このお。
俺は、この世をのろう。
やいっ、どこのどなたか知らないが。
てめえらは金の力で、何だって出来るだろう。
だけど、俺たちゃ・・・・・・。
そこまで考えて、やめた。
そんなにいきがる事もないからさ。俺らしくもねえ。
それもこれも・・・・・・。
暴力を使っても、ものにしようなんて、ふてえ野郎がいるからだ。
甘やかされて育ったから、わがままだし、すぐに切れる。
俺たちゃ真面目に恋愛するんだ。
ふと右手を見ると、道玄坂が見えた。
遠くに緑色の服が目に入った。
こちらを向いて、手をふっている。
俺はふううと息を吐いた。
足が自然に動きだした。
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