短編集

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 私は思いあまって、M子の背後にまわった。
 両手で彼女の腰のあたりを抱いた。
 「どっ、どうしたんですか」
 「ねえ、部長さんさあ。あなたのこと、可愛がってくれたの」
 耳元でささやいた。
 「ええっ、何のことですか」
 右腕を彼女の細い首にまわす。
 鏡の中のM子の顔が、恐怖にひきつった。
 「しらばくれるんじゃないわよ。かわいい顔して、やるもんだわねえ」
 早口で言って、右腕をぐっと手前に引きつけた。
 「ううっ」
 M子は、うめいた。
 「正直に、お言い」
 ゆっくりした口調で言った。
 M子の体が震えだした。
 激しく、左右に首をふる。
 私は、腕をゆるめた。
 M子はぐったりして、その場にしゃがみこんだ。
 すすり泣きをはじめた。
 「なっ、何にもしていません。部長さんとは、何もありません。本当です」
 「あら、そうなの。さっきは良くしてくださるって、言ったじゃないの」
 「そっ、それは。お仕事のことです」
 私は、M子の背中を抱いた。
 両手を前にまわす。
 服の上から、そっと胸をさわった。
 「見かけより、ずいぶん大きいのね、あなた」
 私は、自分の上着を胸元まで引き上げた。
 ノーブラである。
 ふたつのオッパイが、プルンと揺れた。
 「ほら、見て。私の胸。小さいでしょ」
 と言った。
 ひゃああ、あっはっはっは。
 M子が、突然取りみだした。
 はっとして、私は手を引いた。
 これ以上やると、この子。どうかしちゃう。
 そう感じた。
 M子をトイレに置き去りにして、私はドアを開けた。
 
 
 
 
 M子が鏡の前に立った。
 両手を洗い、ハンカチでふく。
 顔をいじる様子はない。
 上から下まで眺めて、身支度をととのえている。
 となりに立った私は、鏡のなかのM子をのぞきこんだ。
 十八歳。
 番茶もでばな、である。
 まあ、きれい。
 私は、心の中で感嘆の声をあげた。
 M子がうらやましい。
 それに比べて、私は・・・・・・。
 三十路なかば。
 肌の衰えがめだつ。
 くやしいったら、ありゃしない。
 思わず歯ぎしりした。
 憎い。
 憎い、この娘が。
 憎いったら、ありゃしない。
 ふつふつと心の中で、何かが煮えたぎる。
 鏡に映る自分の顔を見たくない。
 容貌は人並み以上だ、と思っている。
 こんな気持ちでは、白雪姫の魔法使いみたいだ。
 「鏡よ、鏡よ、かがみさん」である。
 M子が、ちらっと鏡の中の私を見た。
 眉をひそめた。
 いけない。気づかれたか。
 私の醜い心を。
 私は、わざと笑顔を作った。
 「とてもお肌がきれいね」
 心とは裏腹なお世辞が、口をついて出た。
 M子は、ポッと顔を赤くした。
 「どう。お仕事、だいぶ慣れましたか」
 「ええ。皆さんが良くしてくださるんで」
 「部長さんはどう。親切に教えてくださいますでしょ」
 気になっていることを、言わずにはいられない。
 M子の表情の変化を見落とすまいと、ぐっと前に乗りだした。
 「はい。もちろんです」
 ほほ笑んで、言った。
 やっぱりそうか。
 部長と関係があるのか。
 あいつに抱かれているのか。
 厚い胸の下で、この娘は歓喜の声をあげているのか。
 妄想が、急激に、私の中でふくらんだ。
 
 
 
 女子トイレに入った。
 手洗い場に、年輩のB子がいた。
 鏡の前で、自分の顔をじっと見つめていた。
 小じわが気になるのか、目のまわりを丹念に手入れしている。
 総務部では、最古参だ。
 私は、わきに立った。
 横向きの彼女に、頭をさげた。
 まったく表情を変えない。
 ちらっと見ただけで、B子は、すぐにもとの姿勢にもどった。
 私は、部長の好みを知っている。
 この女は部長の相手ではない、という気がした。
 よっつのうちのひとつを選んで、入ろうとした。
 背後で、ドアが音を立てた。
 ふりかえると、誰もいなかった。
 トイレの前を、ひととおり歩いた。
 青がみっつ。
 赤がひとつ。
 使用中のトイレがひとつある。
 誰がいるのか。
 静かだ。
 物音が聞こえない。
 使用中のドアの前で、じっとしているのも、気が引ける。
 空いたトイレに入ることにした。
 ドアのノブをまわした。
 そっと、ドアを開ける。
 我慢をしていたせいで、おなかが痛くなってきた。
 すばやく入りこむと、内側からロックした。
 最中に部長の相手が出て行っても、仕方ないと思った。
 水を勢いよく流す。
 一息で用をすますと、身支度をととのえた。
 カチャ。
 ふたつ向こうのトイレで、戸が開く音がした。
 どうするか。
 一呼吸おいて、私はドアを開けた。
 若い女が、前を歩いて行く。
 あまりに若い。
 高校を出たばかりのM子だった。
 テレビでよく見かけるタレントそっくりだ。
 とてもかわいい。
 長い髪が匂う。
 こんな小娘を、Fは相手にしていたのだろうか。
 手洗い場で、彼女の様子をうかがうことにした。
 関東一帯で、カラオケ店を展開する会社である。
 本社がU市にある。
 私は、そこで事務の仕事をしている。
 Fは、総務部長だ。
 JR駅まで、大通りを歩いて、約五分のところにビルが立っていた。
 部長とパート社員。
 表立っては、何の話もない。
 時折、Fの姿を見るくらいである。
 女子社員たちが、彼についてしゃべっていることを、伝え聞くくらいのものだ。
 ある日の休み時間。
 用を足そうと、私は総務部の入っている二階の廊下を歩いていた。
 トイレは、廊下のつきあたりにあった。
 Fが壁にもたれて立っていた。
 誰かとおしゃべりしている。
 Fの前は、トイレの入り口だ。
 私からは、壁がひとつづきになっているように見える。
 話し相手が、まったく見えなかった。
 Fの様子が変だ。
 いやに、にこにこしている。
 というか、でれでれしている。
 めったに、あの苦み走った顔をくずしたことがない男だ。
 相手は、誰だろう。
 とても興味がわいた。
 女。
 きっと、そうだ。
 私の直感は、よく当たる。
 一言いってやるぞ、と意気込んだ。
 歩みが自然とはやくなった。
 靴音に気づき、Fがこちらを見た。
 顔がゆがむ。
 だまりこんだ。
 小さく、Fはあごをしゃくった。
 「あのう、部長さん」
 五メートルくらい離れたところから、私は話しかけた。
 初めて気づいたかのように、Fは
 「おおっ」
 と言って、私を見た。
 「ここで、何をなさっていたのですか」
 ゆっくりとした口調で言った。
 「ううん、いや、別に何も」
 Fは、からだをやたらと動かす。
 私は、廊下の角を、さっと曲がってみた。
 話し相手は消えていた。
 おそらく、あわててトイレの中に入ったに違いない。
 私は、目をほそめ、Fの顔を下からにらみつけた。
 わきに寄って、Fのお尻を思い切りつねった。
 「いててっ」
 悲鳴が廊下にひびいた。
 ギシギシと鳴っていたベッドが、急に静かになった。
 私は、そっと目をあけた。
 F部長の顔が、真上にある。
 真面目くさった表情だ。
 この顔がとても憎い。
 両腕で上半身をささえている。
 嬉しいときには、嬉しそうな顔をしてほしいと思う。
 五十五歳だ。
 定年まじかだが、まだまだ身体は若い。
 二十くらい年下の私を相手にしても、息が切れない。
 ふいに、Fは、どさっと、私の胸に上体をかぶせた。
 乳房が押しつぶされる。
 苦しくて、ううっとうめいた。
 この瞬間、すべての心地よさが、私の体から消し飛んでしまう。
 「今日も、おんなじ顔だったわね」
 と、不機嫌な顔で、不満をぶつけた。
 Fは、ふふふっと苦笑いする。
 ベッドから体をおこし、端にすわった。
 枕もとのタバコに手をのばし、ライターに火をつけた。
 タバコをくわえる。
 癇癪をおこした私は、そのタバコを右手で払いのけた。
 「あちっち。何すんだよ」
 「いつもいつも、おんなじ顔で。少しは、女の気持ちをわかってって、言ってるのよ」
 わっと、私はベッドの上で泣きだしてしまった。
 Fは、こんな時、すぐにだまりこんでしまう。
 タオルを腰に巻きつけると、浴室に行った。
 私は、数ヶ月前に、パートで会社に入った。
 Fの男らしさに、一眼で惚れてしまった。
 歓迎会のあとで、途中まで送ってもらった。
 その場の雰囲気で、キスを許してしまった。
 濃厚なキス。
 キスだけで、私はいってしまった。
 夫とは違った愛し方だった。
 私は新鮮な気持ちを味わった。
 一度きりのはずの逢瀬が、二度三度と重なった。
 身体が、Fを忘れられなくなっていた。
 既婚の女が、男と会うのにどれほどの気をつかうか。
 もっと考えてもらいたいと思う。
 俺が好きなんだろと、あの無表情な顔で言われると、はたいてやりたくなる。
 会った時くらい、感情をむき出しにしてほしい。
 
 
 
 
 

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