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ぼくのとのことを、女は知り合いのS子に
話した。
「ええっ、あのいちろうと」
「そうよ。橋の下で、押し倒してやったのよ」
「あんた、すごいことやるのね。でも、ちょっ
とやりすぎじゃない」
「いいのよ。あいつ、気持ちがいいのか、じっ
としてたわ」
「あんたなんかよりずっと若いんだから、当
たり前だわ。なんだか、かわいそう」
「あたしにかかったら、どんな男だってその
気になるんだから」
誰にでも、ちょっかい出している話しっぷり
である。
この話もおひれがついて、またたく間にウワ
サになった。
ぼくはこれまでよりすっと、肩身がせまくなっ
た。
工場の仕事仲間さえ、彼に話しかけることが
なくなってしまった。
ある日の夕方。
とみ爺さんに逢った。
ぼくのことを、心よく思っている唯一の人だ。
「お晩方です」
と笑顔で声をかけた。
とみさんはぼくをちらっと見たが、すぐに目を
そらした。
他人を見る目つきだった。
やっぱりな。ぼくのこと悪く思っているんだ。
ぼくは、もう生きているのがいやになってしまっ
た。
家に帰ると、すぐに戸に鍵をかけた。
天井のはりに、縄をとおした。
椅子をその下に持ってくる。
その上にのった。
縄を首に巻きつけた。
「どいつもこいつも、悪い奴ばかりだ」
ぼくは、独り言を続けた。
「人の弱みにつけこんで、笑い者にする」
「母ちゃん、ごめん」
目に涙がにじんだ。
膝を曲げると、縄がしまった。
すぐに息が苦しくなった。
意識が遠のいていく。
「いちろうのバカ、弱虫」
耳元で聞こえた。
膝をのばした。
土間の闇が見えた。
一部分だけが、ぼうっと明るい。
人がいるみたいだ。
女の人影だ。
見る間に、母ちゃんになった。
ふわあっと、ぼくに迫ってきた。
ぼくの胸は、幸せな気分に満たされた。
ドンドン。
ドンドン。
誰かが、戸をたたいている。
「おおい、いるかっ。いちろう。いちろう」
とみさんの声だった。
ぼくは、首に巻きついた縄をはずした。
戸を開けると、とみさんの真剣な顔があっ
た。
「てめえ、何やってたんだ」
ひと眼で、すべてを理解したようだ。
バチン。
とみさんがひら手でぼくの頬をたたいた。
ぼくの眼から火花が飛んだ。
「俺はな、亡くなったおめえの母ちゃんに
頼まれてんだ。勝手なマネは許さねえ」
と怒鳴った。
とみさんは、ぼくの肩を両手でぐっとつかん
で引き寄せた。
了
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短編集
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ぼくは、身をかたくしていた。
何ともふがいないことだと思ったが、仕方
がない。これまでに女性とまともにつきあっ
たことがなかった。
自分なりに理想の女性を作り上げていた。
恋は、あった。
でも、みな片思いで終わっていた。
女の人の生身の姿を知らないのだ。
本やテレビからの知識はあった。
すべて、うわっつらのものだった。
叫び声をあげるのも気が引けた。
人に笑われるに決まっている。
今でもひどいウワサが立っているのだ。
女の息が、鼻にかかった。
荒い息だ。
はあはあ、言っている。
ぼくの口を吸おうとして、唇を寄せてきた。
いやな匂いだ。
ぼくは頭をふった。
女は、ぼくの頭の両脇をつかんだ。
「じっとしてな、気持ちしてやるから」
やめてくれと叫ぼうとしたが、女の口が声を
とめた。
舌を入れてきた。
まるで舌が生き物のようだ。
ぬめぬめと動く。
ぼくは、目を丸くした。
口の中に、女のつばがじゅるじゅると入って
来る。
ぼくは気が遠くなりそうだった。
女の乳房がぼくの胸を圧迫している。
なんとも息苦しい。
女の右手が、下半身にのびた。
ぼくの股間は、意思とは関係なく、いきり立っ
ていた。
女は、ふふっと笑った。
「ほらね、いやじゃないんだ」
そう言うと、ぐっと手のひらでつかんだ。
ぼくは、思いきり女のからだを両手でおした。
女は、ごろんとわきに転がった。
「あいててっ。何するのよ」
ぼくは、逃げだした。
「この意気地なし。ウワサ通りやな」
女の悪態が、いやによく聞こえた。
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「女には気をつけるんだよ」
母が、今わの際にぼくに言い残した。
どういう意味なのか、わからなかった。
母ちゃんだって、女なのに、と思っただけ
だった。
ぼくは、黙ってその女のわきを通り過ぎた。
わざと、知らん顔をしてやった。
「ちえっ」
女の舌打ちが、かすかに聞こえた。
背中で、車の発車する音が聞こえた。
次の日は、朝から雪がちらついていた。
仕事が定時に終わった。
雪はやんでいた。
五センチくらい積もっている。
蛇行しながら、自転車を走らせる。
こんな悪天候だ。
今日はいないだろう、と思った。
ところが。
女がいたのだ。
ずっと手前で自転車をとめ、ぼくは河原にお
りた。
そのうちいなくなるだろう、と思った。
雪を手で払いのけて、平たい石の上にすわっ
た。
ポケットから、ハイライトの箱を取り出し、一
本口にくわえる。
沢をわたる風が冷たい。
百円ライターをさがそうと、左のポケットをま
さぐった。
見当たらない。
いらいらしてきた。
がさがさっ。
物音がした。
上を見ると、あの女がおりて来るところだっ
た。
ぼくは逃げた。
沢伝いに、上流に走る。
川底は、石ばかりだ。
走りづらい。
転んで、膝を打ってしまった。
見上げると、橋げたが見えた。
物も言わずに、女がぼくのからだにかぶさっ
てきた。
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B沢にかかる石橋を渡るのは、いつも午後
五時二十分頃。
ぼくの家は、そこから山に向かって五分も
かからない。
あたりは、畑ばかりだ。
ある日のこと。
橋の上に、人が見えた。
沢には、水がない。
セキレイのつがいが、川底の石の上で尾
羽をしきりに動かしている。
遠くからでは男か女の区別もつかない。
地味な服装をしていた。
このあたりに住んでいる人の顔を、ひとり
ひとり思い浮かべた。
ゆっくりと、ペダルをこいで行った。
人の輪郭がはっきりしてきた。
髪の毛が長い。
綿入りばんてんに、黒っぽい厚手のズボン
だ。
顔が丸くて、黒っぽい。
瞳は、大きい。
女の人だった。
五十歳くらいだろう。
見覚えがあった。
でも、このあたりの人ではない。
お寺の近くに、ひとりで住んでいる人だ。
あいさつを交わしたこともない。
その人の家まで、車で五分くらいかかる。
ぼくの胸は、どきどきしはじめた。
とにかく、あまり人に逢いたくないのだ。
ぼくについては、ろくなウワサが立ってい
ないのだ。
女の人は、特に苦手だった。
通りすぎる時、その人はぼくをじろっと見た。
うすら笑いを浮かべた。
胸で合わせた半纏を両手でひらくと、真っ
赤な毛糸のセーターがのぞいた。
女は、わざと胸をそらせた。
ふたつの丘が高く盛り上がった。
いけないとは知りながらも、思わず見てし
まった。
ぼくだって、女の人とつき合いたい。
できるならば、誰かと結婚したい。
自分の気持ちを押さえこんだままで、生き
ているのだ。
ぼくの心を察したのか、女は口元にうすら
笑いを浮かべた。
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「どうもごちそうさまでした」
ぼくは、土間でお茶の礼を言った。
上り框をつたって、よっちゃんが追いかけ
て来た。
「まだ行かないでよ」
泣きべそをかいている。
赤いセーターを着た女性が、
「おじちゃん、また来るってよ」
と、自分の子をなだめた。
どうやら、とみさんに叱られたらしい。
この街に来てまだ間がない、若いお嫁さん
だ。
狭い町である。
井戸端会議で、いろいろと聞かされる。
年輩の女性が中心だ。
ああでもない、こうでもない。
根掘り葉掘り、おしゃべりする。
人様をめったにほめない。
というか、人の不幸を喜ぶ。
会議に始終出ている人のことでも、欠席の
時は、情け容赦はない。
その人の悪口を言う。
若い人は、心配になる。
いつなんどき、自分が矢面に立たされるか
わからない。
できるだけ会議に参加したいが、忙しいの
で、そうもいかない。
とみさんが、見送ってくれた。
「気をつけてな」
ぼくの耳元でどなった。
わかるのだ。
聴こえないのが、どんなにつらいか。
自分だって、耳が遠いからだ。
よっちゃんを抱いた母親が出てきた。
「ほら、バイバイよ」
「またね」
ぼくは、きげん良くペダルをこぎ出した。
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