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ぼくは、女の人の剣幕に驚いていた。
あの子の母親に違いない。
どうして、子どもを連れて行ってしまうん
だろう。
いっしょに遊んでいただけなのに。
なんで、ぼくを嫌うんだろう。
「誘拐なんてしませんよお」
大声で、叫びだしそうになった。
なんで。
どうしてなんだ。
くそっ。
感情が、しだいに高まってきた。
右手でこぶしを作り、地面をなんどもた
たいた。
リヤカーを引いた若い男が通って行く。
「何、やってるんだ。おめえは」
ぼくの耳は、よく聞こえない」
「うるさい」
感情で、ものを言ってしまった。
「何だ。その言い草は。心配してやってい
るのに」
けっこう大きな声で、相手はしゃべってい
るのだ。
でも、ほとんど聞き取れない。
何を言っても、無駄だと思う。
ぼくは、黙っていることにした。
立ちあがって、頭をさげた。
「ふん。早く家にかえれよ」
男は、またリヤカーを引きはじめた。
しばらく、その場に立たずんでいた。
閉じられた玄関を見つめていた。
すりガラスに、木の桟が入っている。
小さな人影が映った。
戸を開けようとしている。
鍵がかけられているのか、開かない。
あの男の子の泣き声がした。
かけよって開けたかったが、じっとしていた。
大人の赤っぽい影が、小さな影に重なった。
ふたつの影が、すぐに消えてしまった。
ぼくは、がっかりした。
「いちろう、いちろう」
耳元で、母さんの声がはっきり聞こえた。
「かあちゃん」
思わず、大きな声を出しそうになった。
ぼくの耳は、聞こえないのはずなのに。
不思議だった。
背中が、じわっと温かくなった。
とんとん、とんとん。
そばで音がする。
わきを見ると、この家のじい様だった。
地下足袋の泥を落としていたのだ。
「よう、一郎じゃねえか」
ぼくに笑顔を向けている。
この人くらいだ。
ぼくを相手にしてくれるのは。
「寄って行きな。お茶飲んでけ」
とみさんは、戸を開けようとした。
だが、閉まっている。
「ちょっと待ってろ」
わき道に入ると、家の裏手にまわった。
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短編集
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ぼくは、田中一郎。
今年で満三十歳になる。
山あいの街に、ひとりで住んでいる。
五年前までは、母とふたりで暮らしていた。
そのずっと前は、父もいた。
あばら家だが一戸建てだ。
亡くなった父が残してくれたただ一つの財
産だ。
朝八時から夕方五時まで、製材所に勤め
ている。
文句を言わずに、もくもくと働いている。
そんなぼくのことを、世間の人は陰でいろ
いろ話しているらしい。
良いことなら、いいんだ。
ところが、ぼくの悪口ばかりらしい。
たとえば、車を運転しない。
どこへ行くにも自転車だ。
ほんとはしたいんだけど、できないんだ。
だってさ、からだのせいなんだ。
補聴器を使っても、十分にまわりの音が聞
こえないんだ。
どうしてこうなのかは、わからない。
家族と一緒に住んでいた頃は、母にたずね
たことがある。
「ねえ、かあさん。どうして」
母は少しだけ悲しそうな顔をしたけど、すぐに
笑顔をつくり、
「それはね、神様に聞いてみたほうがいいね」
と、まじめな顔で答えた。
ところで、世間って何だろう。
「となりの人のことさ」って、会社の同僚が教え
てくれた。
かげで悪口ばかり言う人なんて、きらいだ。
そんな世間なんて、ぼくはまったく相手にしない
ことに決めた。
ある日曜日の午後。
春のやわらかな日差しが、家々の屋根に照
りつけていた。
会社からの帰り道。
道端に五歳くらいの男の子がしゃがんでいた。
手で何かをいじっている。
ぼくは自転車を降りた。
両手でハンドルを持ったままで、
「こんにちは。何してるの」
と声をかけた。
その子の家の玄関先だった。
わきに電信柱が立っている。
そのとなりは、広い空き地になっている。
「だんごむし」
そう言って、その子は手を広げて見せた。
からだにいくつもの節がある。
細い足を何本も持っている虫。
小さな手のひらの上を、もぞもぞと動いて
いた。
その子が指でおすと、とたんに丸くなった。
ぼくも幼い頃を思い出した。
ふいに玄関の戸が開いた。
女の人が出てきた。
ぼくと目があった。
彼女は何かを言おうとして、口を開けた。
でも、声にはならなかった。
その子を両手で抱くと、男の子が泣くのも
かまわずに、家の中に入ってしまった。
戸が、音を立てて閉まった。
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S子は、恥ずかしそうに下を向いた。
「もう痛くないの」
大西は、自分がどこにいるのか分からずに
とまどっていた。
大声で叫び出しそうになった。
だが、相手は昔の親しい友達だ。
醜態は見せられない。
「ああっ、お陰さまで、だいぶ楽になったよ」
と詳しいことは聞かずに、礼だけ言った。
現在と過去が入り混じっている。
何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
何だって、神様の思し召しさ。
あなたのみ心のままに、と大西は祈った。
「学校から一緒に帰って来て、この部屋でお
しゃべりしてたの。そしたら、ひろしくんが急に
眠りはじめたものだから」
「そうだったんだ。ありがとう、ほんとに」
「いやだわ、あいつら。毎日のように校門のと
ころで待ち伏せしているんだもの」
「こっぴどくやられたんだね、ぼく」
「そうよ、三人がかりでね。いやだ、その言い
方。まるで人ごとみたいだわ。自分のことなの
に」
ひろしは、手で口をおさえた。
あぶない、あぶない。S子に変に思われない
ようにしなくちゃ、と思った。
S子は、両手でトレイを持っていた。
オレンジジュースの入ったコップがふたつのっ
ている。
「良かったら、これ、飲んで行って。あんまり
時間がないの。母さんが仕事から帰って来る
から」
「わかった」
ひろしは、コップをひとつ取ると、一気に飲んだ。
「ああっ、おいしかった。ちょっとしみるけどね」
「口の中が切れているんだわ。きっと」
「平気、平気」
ひろしは床に落ちていた学生服と鞄を拾うと、
ドアの前に立った。
ノブを持って、勢いよく開けた。
それと同時だった。
男は、自分がまだ公園の中でうずくまっている
のに気づいた。
どのくらい意識がとんでいたのか、分からない。
目の前に六十がらみの女性の顔があった。
顔の深いしわが年月の長さを物語っている。
谷川S子に違いない。
眼のあたりを見て、すぐにわかった。
「ひろしくん。あたしが治してあげるわ。家に行っ
て、またふたりでオレンジジュースを飲みましょう」
S子はそう言って、微笑んだ。
昔のように、笑窪がとてもかわいかった。
了
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男は、ベッドの上で目覚めた。
部屋全体が赤っぽい。
白いレースのカーテン越しに夕陽が射しこ
んでいた。
からだを動かすと、ふわふわした。
わきを見て、ぎょっとした。
枕のわきに、大きな縫いぐるみのクマがい
て、男の顔を見つめていた。
女の香りが、ほのかに漂っている。
自分のアパートではない。
若い男に殴られたり、蹴られたりしたことま
では、覚えている。
その先は、まったく分からない。
どうやって、こんな所まで来たのだろう。
まるで夢を見ているようだった。
起き上がって、長方形の鏡を見た。
左の眼のまわりに青あざができている。
鼻が紅くはれあがっている。
黒っぽくなった血が鼻の下にくっついていた。
「なっ何だ、これは」
男は驚きで、からだが動かない。
白いカッターシャツと黒いズボン。
中学生の自分が、鏡をのぞいていたからだ。
それに、これは女の子の部屋だ。こんな所に
寝ているなんて、一体どうしたのだろうと思った。
机があった。
一見して、女の子が使っているものと分かった。
黒いカバンが、机のわきに引っかかっている。
紺のセーラー服が机の上にのせられていた。
不意に、ドアをたたく音がした。
「大西くん、大西くん」
男は耳をすました。
誰だろう。
とても若い女の声だ。
はるか昔に、聞いたような気がした。
男は訳は分からないながらも、返事をしなくては
ならない、と思った。
「どっ、どうぞ。お入りください」
ドアが開いた。
中学生の谷川S子だった。
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「ちょっと待って」
谷川さんは、強い口調で呼びとめた。
男はふり返りたいのを、ぐっと我慢した。
「俺は、おれはあ・・・・・・」
と、叫びたいのをこらえた。
許されるものなら、彼女を抱きしめたかった。
おいおい、泣きたかった。
若い夫婦連れが、男の進行方向からやって
来た。
犬ではなく、猫の散歩だった。
首輪にひもを巻き付けている。
にこやかにおしゃべりしていた。
不意に、男が若者に体当たりした。
何が男の気にさわったのかは、わからない。
「ぎゃっあ」
と叫んで、突っ込んでいった。
「何をする」
よろけながらも、すぐに態勢をととのえた。
男につかみかかった。
若い女は、猫を胸にかかえたまま、地面に
転がった。
すぐに、決着がついた。
若者が二、三発、男のみずおちのあたりに
ひざ蹴りを入れると、どうっと倒れた。
地面に這いつくばったまま、うめいている。
「どいつもこいつも、まったく」
男がしわがれ声で言った。
「人に体当たりしておいて、その言い草は
ないだろう、うんっ」
若者はなおも、右足のサンダルで男の顔
面をふんづけた。
ぐきっ。
鼻のあたりが音を立てた。
男は、あたたかなものが噴きだすのが分
かった。
「ちよっと、あなた、やりすぎじゃありません
か」
そばで、甲高い女の声がした。
男は意識がもうろうとしている。
「だいじょうぶですかっ」
気の強い女だな、と感心した。
ひょっとしたら、谷川さんかも。
心の中に、淡い期待がわいた。
「あんまりひどいことをすると、警察を呼びま
すよ」
若者に向かって、言った。
「あんた、もうやめてよ」
連れの若い女が、若者の手を引っ張った。
「ちえっ、このくらいで許してやる。このくそオヤ
ジ」
びょっと、つばを吐きかけた。
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