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雲間から太陽がのぞきはじめた。
陽射しが木々にふりそそぐ。
小鳥が鳴きはじめた。
男は、歩道にもどると、すずめが芝生に舞
いおりてきた。
ぐうっと、おなかが鳴った。
コートのポケットをまさぐると、手に何かが
当たった。
昨日食べたメロンパンのかけらだった。
左の手のひらにのせた。
すぐに髭ずらの口を近づけたが、途中でや
めた。
チュンチュンというかわいい鳴き声が、耳に
入ったからだ。
パンくずを細かくつぶすと、芝生にまいた。
「ほら、食べろ。今日は特別だぞ」
男は、気分が少し良くなった。
小鳥たちは毎日何を考えていきているんだ
ろうな、と思う。
「秋元順子さんが最近歌ったよな。愛のまま
に、っての。あれ、いい歌だよな」
男は、「愛のままに」の出だしを、何度も声に
出してくりかえしながら、下をむいたままで歩い
て行く。
小犬を連れた女の人がやった来た。
首にマフラーを巻いている。
髪の毛を薄い紫に染めていた。
「あれっ、大西さんじゃないの」
ふりむいて、男に声をかけた。
男の足が止まった。
女は、男の身なりがあまりにむさくるしいので、
人違いかなと思ったが、昔の面影がある。
男は、彼女が中学生の同級だった谷川さんだと
分かったが、あえて何も答えない。
こんなみすぼらしい姿で、そうだとは名乗れない。
男には、まだ自尊心が残っていた。
だが、胸が高鳴っていた。
男は、昔、学校でよくいじめられた。
あれこれとかばってくれたのは、彼女だった。
逃げるようにして、その場を去った。
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短編集
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ふりむくと、赤色灯が回っている。
男の顔に車のライトがまともに当たった。
両手で顔をおおう。
パトカーの後部座席が開いた。
警官が二人降りてきた。
「おい、お前。何をやってるんだ」
「へえっ、何もしてませんよ」
「その人から連絡が入ったんだぞ。怪しい
男につけられているって」
「そっ、そんな。俺はただ」
「ただ、何だ。ストーカーだぞ。お前のやっ
たことは」
「俺はこの人が昔の知り合いじゃないかと
思っただけなんです」
年輩の警官が、
「どうぞ、こちらへ。もう大丈夫ですよ」
と、倉の壁にもたれかかっている女に言った。
「この男は、お知り合いですか」
「まったく知らない人です」
「ほら、そうおっしゃっているじゃないか。と
にかく事情を聞かせてもらおう」
「そっそんな。いやです。かんべんしてください」
「ごめんで済むんじゃ、警察は要らないんだ」
二人にかかえられるようにして、パトカーに
乗った。
翌朝。
「どうもご厄介をかけました」
「もうやるんじゃないぞ。被害届を出さないと
おっしゃっているから、出られるんだ」
男は、年輩の警官に深々と頭をさげた。
警察署は、公園わきにあった。
JR駅から歩いて十分くらいだ。
男は、水が飲みたくなり、公園内のトイレに
入った。
とても寒い。
水道が出にくく、ちょろちょろと流れる。
「あっ、ちくしょう」
男はだれかれなしに、八つ当たりがしたくな
るような心境だった。
両手で水を受けて、顔を洗った。
たまった水をごくりと飲みほした。
「俺は、別に何もしてないのに。ただ女に尋ね
ただけなのに。身なりで人を判断してしまうんだ
からな」
ぶつぶつ文句を言いながら、霜柱が立った芝
生の上を歩いて行く。
吐く息が白い。
ぽろぽろ涙がこぼれてきた。
歌いだした。
「上を向いて 歩こう 涙がこぼれないように
思いだす 春の日 ひとりぼっちの夜」
旋律は、間違ってはいなかった。
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女は家が近いのか、バスにも乗らずに歩い
て踏切を渡って行く。
若いだけに足が速い。
コツコツコツ。
ハイヒールの音が、小気味よい。
男は、すぐに息が切れてきた。
ついて行くのが辛く、何度もあえいだ。
それでも、あきらめない。
五十メートルくらい行った所で、女は急に
立ちどまって、ふり返った。
街灯の明かりが、女の顔を照らした。
ハンドバッグから何かを取りだした。
男は、さっと暗がりに身をかくした。
似ている、と男は思う。
誰に似ているのか、男はとっさに思いだせ
ない。
少年の頃の記憶の糸をたぐりよせる。
中学生の時の初恋の相手だろうか、それ
とも高校生の・・・・・・。
最近、都会から故郷に帰ってきた。
だが、落ちぶれた男を誰ひとり相手にしない。
冷たくあしらわれた。
いつしか、初恋の相手の面影を追うように
なった。
男に優しく接してくれたからだ。
まぼろしを追うようなものだと分かっている
が、そうせずにはいられなかった。
男は、ふいに走り出した。
女もそれに気づいて、小走りになった。
徐々に速くなる。
男の足音が後ろで聞こえるほどになった。
「たすけてえ」
と、女は悲鳴をあげた。
女が道を曲がった。
暗い路地に入って行く。
行き止まりだった。
大きな倉の壁が立ちふさがった。
壁を背にし震えている女に近づき、
「ひょっとしたら、S子さんじゃないでしょうか」
と、子どものような甲高い声で言った。
男のヤニ臭い息が顔にかかった。
女は、必死で首をふった。
「お願いだから、そんなに怖がらないで」
男は、女の肩を両手でつかんだ。
後ろで急にサイレンの音がした。
倉の壁が急に明るくなった。
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男は、朝からずっとJR駅の改札口を見続け
ている。
バスの停留所のベンチに、すわったままだ。
だいたい二十メートル離れている。
薄汚れた黒っぽいコートに身をつつんでいる。
頭髪はもじゃもじゃだ。
時折、タバコをくゆらし、吸いがらをあたりか
まわず投げ捨てる。
六十歳をすぎているだろうか。
頬に、白いひげのそり残しがめだつ。
お昼を過ぎた。
男は立ちあがり、バス停わきのコンビニに
入った。
数分後、白いビニール袋を持って出てきた。
また、もとのベンチにすわった。
袋の中をのぞきこんで、右手を入れた。
アンパンをつかんで、ほうばり始めた。
左手に、紙パックに入ったお茶を持った。
とても幸せそうな表情で、食事をとっている。
駅前の派出所の警官が、見かねてやってきた。
「もしもし」
男は、今度はメロンパンを食べている。
何も答えようとしない。
「もしもし、もしもし」
警官が肩をたたいた。
ようやく、パンを手から放し、右手を自分の
耳にかざした。
警官の顔をじっと見つめて、にやっと笑った。
「耳が遠いのっ」
ようやく聞こえたのか、頭をふった。
「ずっとここにいるけど、誰かを待ってるの」
「はい」
口の中にパンが入っている。
声がくぐもった。
「寒いんだから、早めに家に帰ったほうが
いいよ。うちの人だって、心配するから」
男は、頭を二度さげた。
警官は腰のベルトがずり落ちそうになった
のか、両手であげる仕草をした。
「じゃあね、もう行くよ」
男は、立ちあがって、丁寧に頭をさげた。
午後五時をまわった。
下りの電車が停まった。
数分後。
改札口からたくさんの人々が通りはじめた。
男はひとりひとりを、じっと見つめた。
顔は青白く、鼻汁がたれている。
寒いのだろう。
両手をこすり合わせている。
二十人ばかりの人が降りた。
最後は、若い女性だった。
ミンクの毛皮を着ている。
ひとりで、改札口を通りぬけて行った。
男は立ちあがって、あとをつけ始めた。
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音楽室の中は、ざわめいていた。
薄目をあけてみると、たくさんの生徒が椅
子にすわっている。
部活動の最中だった。
とんでもないところに連れて来られたもの
だと、思った。
ほとんどが女子だ。
下を向いて、くすくす笑っている人が大半だ。
よく見ると、先日会った薮内先輩もいる。
真面目な顔つきで、ぼくを見た。
ぼくは彼女を見て、思わず笑顔になった。
ぼくの不安な胸の内が分かるのか、笑顔を
返してくれ、ひじをまげたままで、ぐっと右手で
こぶしをつくった。
ガッツポーズだった。
一体、これから何が始まるのだろう。
心臓の動悸が、次第に大きくなる。
ぐりぐり先生のことだ。
どんな罰ゲームが、待ちうけているのかわか
らない。
こんなに大勢の人の中で、恥をかかされるの
かと、思いきり暗い気持ちになった。
顔から血の気が引いて行くのが、わかった。
目に涙がたまった。
ふくのもしゃくだから、そのままにしておいた。
こぼれないように、天井を見つめた。
白井先生は、グランドピアノの前にすわり、
「内藤くん、こっちへ来て」
気味が悪くなるほど、優しい声でぼくを呼んだ。
音を立てずに歩いて、先生のそばに立った。
「せんせいっ」
「なに」
「いくらでもあやまりますから、帰して下さい。お
願いします」
ぼくは、白旗をかかげた。
先生は、立ちあがった。
「みなさん、内藤くんは、こんなにおどおどしてい
ますが、ほんとはしっかりした、素敵な男性です」
意外な言葉に、ぼくの心が揺れた。
先生は、話をつづけた。
「とても歌が上手なんですよ。きれいなテノール
です。今日は、彼にベートーベンを歌ってもらいます」
と、言った。
てっきり、怒られるものだと覚悟していたぼくは、
意外な展開にどうしていいのか分からない。
「それと、もうひとつ。先日、レコード鑑賞をしてい
た時に、彼がこつこつ机の上をたたいたので、ひど
く叱りました。先生は、やりすぎてしまいました。この
中にも、そのことを知っている人がいると思います」
室内が、しんとした。
「内藤くんにあやまります。ごめんなさい」
小さく、頭をさげた。
先生の目に涙が光った。
ぼくは、やったあ、っと心の中で叫んだ。
これなら、白井先生も結婚できるぞ。
親友のBが気になって、あたりを見まわした。
ステレオの上に腰かけて、ほほ笑んでいた。
了
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