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 恵子は起き上がって、襖を閉めた。
 もう一度、勢いよく開けた。
 廊下には、誰もいない。
 暗闇が広がっているだけだ。
 誰かの目が動いたような気がしたのだ。
 隣には、男が住んでいる。
 襖にカーテンをつけることにした。
 お風呂に行きたいと思ったが、夜も遅い。
 階段をのぼって来る足音がした。
 そっと開けた。
 赤ちゃんを抱いた隣人がいた。
 スヤスヤ眠っていた。
 「よく眠ってるんですね」
 「うん」
 と言って、隣の襖を開けた。
 「遅かったじゃねえか」
 ふいに男の声がした。
 「しょうがないでしょ。それよりどうだった
の。まっとうな仕事を、早く見つけるように
頑張ってね」
 「わかってら。言われなくったって」
 いたんだ。男が。
 恵子は、まったく気づかなかった。
 猫のようだわ。いるのかいないのか、わ
からない。
 そっと足音をしのばせて歩いている。
 よほど、気をつけなくちゃと、思った。
 夜遅くても、銭湯はやっているはずだ。
 恵子は、ひと風呂浴びたいと思った。
 たまったストレスを解消したかった。
 勝手口から、外にでた。
 三日月が出ていた。
 「草津の友子おばさん。あたしはここで生き
て行きます」
 月に向かって、祈った。
 「どうした。どこかで一杯飲んで行くかい」
 前祝いだと言って、Nがさそってくれたが、
恵子は、とても疲れていた。
 「ありがたいですが、今日のところは勘弁
して下さい」
 明日からは、練習があるのだ。振付師に
ついて、踊りを教わらなくてはならない。
 早く帰って、眠りたかった。
 Nの事務所をでたのは、午後十一時を過
ぎていた。
 恵子は、足早に歩いた。
 ネオンの明るさが、不安を和らげてくれた。
 自転車が多い。
 行きあうたびに、怖い想いがよみがえった。
 店の暖簾が、かかっていた。
 玄関をそっと開けると、酒やたばこの匂いが
鼻についた。
 男たちが、恵子をじっと見つめた。
 「けいこちゃん、ちょっと待ってな」
 おばさんの声がした。
 玄関から出てきた。
 「勝手口から入るんだよ。そこの露地には
いってすぐさ。階段は知ってるだろ。お客さ
んと顔を合わせることがないから、気楽だろ。
夜遅くなっても、大丈夫だ。いつも開けておく
からね」
 「すみません」
 「教えなかったのが、悪いんだ。あやまるこ
とはない」
 階段をしずかにのぼっていった。
 障子を開けて、部屋に入った。
 ひもを引っ張ると、天井からつるされた電灯
の明かりがついた。小玉の明るさにして、畳
の上に横になった。
 隣の部屋は静かだった。
 恵子は、東京に着いた時から覚悟はしてい
たものの、ちゃきちゃきの江戸っ子とつき合っ
ていく難しさを感じていた。
 早く慣れなくっちゃ、と思った。
 いつの間にか、寝てしまった。
 夜中に目がさめた。
 寒かったのだ。
 掛け布団をかけていなかった。
 廊下側の襖が、ほんの少し開いている。
 誰かが、のぞいているように思った。
 
 花道の先に、一本の金属パイプが柱のよう
に立っている。
 それにつかまって、女が踊っていた。
 恵子は、客席のすみにNさんとすわった。
 客席は、半分くらい、うまっている。
 客席は静かだ。
 飲んだり食べたりしながら、眺めているだ
けだった。
 田舎とは、ずいぶん違った。
 「どう」
 Nさんが、顔を向けた。
 「こういう踊り方は、聞いたことがあるだけ
で、見たのは、はじめてです」
 恵子は、正直に答えた。
 「よう、Nさん」
 店のマスターが、暗がりから現われた。
 「ご無沙汰してます」
 Nが頭を下げた。
 「この子なんです」
 「こんばんは。はじめまして」
 恵子がお辞儀をした。
 「どのくらいほしいの」
 「この街で暮らしていけるほど、いただけれ
ば、それでいいです」
 恵子は、はっきりと答えた。
 「脱がずにすめば、一番いいです」
 と、付け加えるのを忘れなかった。
 都会の人間は、得体がしれない。
 男の人にあまり刺激を与えたくないと感じ
はじめていた。自分の身が心配になった。
 借金を背負った亮といるときには、いくらも
らっても、足りないくらいだった。
 今は、ひとり身で、それほど金、金といわずに
すむ。幸いなことに、亮の連帯保証人にはなら
なかったからだ。
 「ぜいたくをしたら、人間だめになる」
 小さい頃に父方の祖父が、口やかましく言って
いた。ヒモがついているわけでもない。
 「無理しないように、働きたいと思います」
と、答えた。 
 「そうだね。堅実にやるのが一番だ」
 「夢があるんです」
 「どんな夢なの」
 「故郷に帰って、水商売をやりたいんです」
 「のみ屋さんかな」
 「どういう形になるかは、まだ決めていま
せん。若いうちは、いろんなことを教わりた
いと考えています」
 「じゃあ、その線でいこう。バストくらいなら
いいかな」
 「ええ。きれいな踊りなら」
 マスターは、腕組みをして、手をあごにもっ
ていった。
 「それじゃ、決まりだ。うちは、いつからでも
いいよ」
 Nは、あんた、しっかりしてるね、とほめた。
 わがままを、これだけ聞いてもらえれば、
有難いと、恵子は思った。
 K街までは、もう少し歩かなくてはならない。
 何かとても恐ろしい物が恵子を待ちうけて
いるように思えた。
 あの自転車に乗っていた男みたいに、無
表情で何を考えているのかわからない。そ
んな人たちが、ここには、いっぱいいる。
 寒風のなかで、ひとりで立っている。
 そんな気持ちだった。
 午後七時をまわっていた。
 色とりどりのネオンが、またたきはじめた。
 点滅するネオンや人のにぎわいに、恵子は
 目がくらんだ。
 道を歩いているというより、光りの洪水の中を
流されていくように思った。
 風俗店の前では、客引きが立っている。
 短い会話を終えると、ひとり、ふたりと暗い
階段をくだっていった。
 男だけではない。女もだ。それぞれに何か
を求めていた。
 「びっくりしたでしょ」
 Nさんが、恵子のわきに来て、言った。
 「はい。何もかもが」
 「心配しないで。じきに慣れるから。あやちゃ
んの友達なんだし、ちゃんとした店を紹介して
あげる」
 Nは、恵子の肩を抱いた。
 この時刻、地方の温泉街は人通りが少ない。
 旅館の丹前を着た男の人たちが、酒に酔って
 大通りにでる。
 なんのかんのと卑猥な話をしながら、路地裏に
下駄の音を響かせる。
 屋台で酒をのんだり、ラーメンをすすったりする。
 日頃のうさを晴らそうと、ストリップ小屋をのぞく
のは、そんな時だ。
 芸を堪能するのではない。はだかを見たいだけ
の人が多かった。
 口にするのも恥ずかしい言葉がとびかった。
 Nが、ふいに声をかけた。
 「ここに入ってみようか。ちょっと待ってて」
 恵子のわきを男のふたり連れが、通り過ぎ
て行く。
 恵子の顔をなめわすように見つめた。
 思わず、下を向いた。
 こんなに踊らないのは、はじめてだ。身体
から、積み重なった疲れがとれていた。
 「けいこちゃん」
 Nが手をあげて、呼んだ。
 
 
 
 
 恵子は、綾に教えられた世話人さんのいる
ビルをたずねた。
 一階が事務所になっていた。
 四角な空は雲っているが、切れ間から夕陽が
さしこんでいた。
 西日が当たってまぶしいのか、窓のカーテンを
閉めた。
 名刺をさしだしながら、Nだ、と名のった。
 五十がらみの恰幅のいい人で、優しげな話し
方をした。
 恵子の想像していた人とは、違った。
 「草津で踊っていたんだって」
 「はい」
 履歴書を見ながら、話している。
 「六年か。がんばったね。大変だったろう」
 ストリップという言葉は、彼の口からでない。
 恵子に対する心づかいが感じられて、嬉し
かった。
 「ここは、日本一の歓楽街だ。いろんな店が
あるからね。踊りもそれに応じてさまざまだよ」
 「はい」
 恵子は、新宿は初めてだ。どんな世界が彼
女を待ち受けているのか、わからない。
 「一度、見学に行ってみようか。これからじゃ、
無理かな」
 「いいえ、大丈夫です」
 「どうする。車で行くかな。歩いたって、じきに
行きつくところなんだけど」
 「歩くのは、平気です」
 「それじゃ、歩こうか。足腰が強くなくちゃ、
踊れないものな」
 「はい」
 午後六時を過ぎた。
 スーツ姿の男性が、歩道にめだつ。
 自転車に乗った髪の毛をのばした若い男が、
前から来るのが見えた。
 人ごみのなかを、平気で走って来る。
 どよめきが聞こえた。
 「変な男だ。ちょっとわきに寄っていよう」
 Nさんに言われたとおりに、時計店の玄関で
じっとしていた。
 恵子のわきを通り過ぎて行く。
 男が左手をふるった。
 何かが、光った。
 ざっと、音がした。
 肩から下げていたバッグに、何かが当たった。
 恵子は、あっ、と叫んで、しゃがみこんだ。
 「どうした。大丈夫か」
 Nさんが、かけよって来た。
 「けがはありませんが、バッグが切られました」
 男は、大通りにでて、走り去って行った。
 
 
 
 
 

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