「おばさん、ごちそうさま」
恵子は、一粒も残さずに、ご飯を食べた。
「ねえ、あんた、綾から聞いてる」
「何がですか」
「住むところが、ないんでしょ」
「ええ」
「綾のアパートは、旦那がいるから、具合が
わるいらしいんだ。もしよかったら、アパートが
決まるまで、ここにいてもいいよ」
「夜露がしのげれば、私は充分なんですけど。
ご迷惑じゃありませんか」
「大丈夫さ。毎月二万円でどうだろ。ほんとに
泊まるだけだけど」
「お願いします」
女は、眠っている赤子を抱いたままでいる。
恵子と同じ歳くらいだ。
この子を猫と間違えるなんて、あたし、どう
かしてるわ。
恵子は思い出して、微笑んだ。
「あなた、赤ちゃん好き。女の子よ。ちょっと
うるさい時も、あるかもしれないけど。ごめんね」
と、ぼそりと言った。
「いえ、だいじょうぶです。こちらこそよろしく
お願いします」
ママの俊子が、柱時計を見た。
「ひろちゃん、時間だいじょうぶかい」
「あれっ、こんな時間なんだ。お店に行かなくっ
ちゃ」
「赤ん坊見ていてやるから、行っといで」
俊子は赤子を受け取ると、奥に連れて行った。
玄関の戸が、突然、がらりと開いた。
男の顔を見たとたんに、弘子が泣き出しそうに
なった。
立ち上がって、男を外に連れ出した。
言い争う声が、しばらく聞こえた。
弘子が財布をもったまま、戻ってきた。
恵子を見て、苦笑いを浮かべた。
「いろいろあるのよ」
と言って、階段をあがって行った。
ひとしきり、赤子の泣き声がしていたが、
すぐにやんだ。
俊子がもどってきた。
左手で、肩をもむ仕草をしている。
「ああ、やれやれだ。子守唄をうたってやっ
たよ。口をもぐもぐさせてたけど、しばらくした
ら寝てくれた」
恵子が、微笑んで、
「ご苦労様でした」
と、ねぎらった。
「弘子さんの仕事って、何なんですか」
「踊り子さ。ダンサー、っていうのかい。実入
りは、けっこういいらしいよ」
「そうなんですか」
恵子の目が輝いた。
「夕べ、部屋に、これがいたろ」
俊子が親指を立てた。
恵子は、おおげさにうなずいた。
「賭けごとが好きで、弘子の悩みの種だよ」
「仕事があるんじゃないですか」
「どんな仕事か、わかったもんじゃない。街を
ぶらぶらしてるんだよ」
とんとんと足音がして、弘子が着飾って降りて
きた。
「まだお昼過ぎたばかりなのに。早いご出勤だね」
「今日は、店の常連さんと、横浜までデートなの。
マスターの大事なお客さんらしいわ。夜の仕事の
前に、一度もどって来るつもりよ。おばさん、それ
まで子供を頼みます」
「はいよ、よく見ていてやるから、心配しないで
行っといで」
「それじゃ、また」
と、恵子にウインクしてみせた。
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目が覚めると、明るくなっていた。
疲れて、寝すぎた。
困ったわ。ママになんて言おうかしら。初
めてなのに、あたしったら、ずうずうしい。
枕元に、袋がある。
なかをあらためると、肌着や洋服が入って
いた。
綾の心遣いに涙がこぼれた。
布団をきちんとたたみ、部屋の隅にかさねた。
袋を折りたたんでいると、底に茶封筒があ
るのに気付いた。
一万円札が十枚、同封してある。
よく眠っているので、このまま帰ります。起
きたら、ママに声をかけてください。
ご飯をいただいてください。代金は心配なく。
出世払いです。
達筆で、そう書いてあった。
恵子は大急ぎで、仕度をはじめた。
隣の部屋で、声がした。
「ねえ、もっと」
若い女の声だ。
「うるせえな、となりに聞こえるだろ」
「いいじゃないの。聞こえたって。聞かせてや
ればいいじゃないか」
「きょうは、仕事だ」
物音がして、女が「痛い」と言った。
戸が開いて、男が廊下にでた。
恵子は、身がちじむ想いでいる。
足音を立てて、階段をおりていった。
静かになった。
かすかに猫の鳴き声が聞こえた。
「おお、よしよし」
女が言った。
猫が鳴きやめた。
時折、せき払いが聞こえる。
恵子は、バッグをもつと、そっと戸をあけた。
情事のあとの女の顔など、見たくなかった。
亮に抱かれたことを思いだしていた。
足音をしのばせて、階段をおりる。
カウンターには誰もいない。
厨房から、足音が聞こえてきた。
恵子が声をかけた。
「すみません、すみません」
暖簾をあげて、ママの顔がのぞいた。
「どう。気分は」
「ほんとうにありがとうございました。助か
りました」
恵子は、頭をふかく垂れた。
「ご飯出来てるからね。そこにすわって」
「はい」
階段を降りて来る音がした。
女が、子供を抱いていた。
恵子の顔をちらっと見て、少し離れた椅
子にすわった。
ママが現われた。
朝食ののったお盆を、恵子の前においた。
「さあ、召し上がれ」
恵子は、だまって、お辞儀をした。
「まあ、よく眠っているのね」
「おっぱいをたくさん飲んだら、このとおりよ」
頭をなでながら、
「かわいいわね。あなたに似てるわ」
と、言った。
恵子は、赤ん坊の顔を見つめた。
「ああ、そうだ。だまっているのもなんだわ。
この人、綾ちゃんの友達」
女は、口元に薄笑いをうかべ、軽く会釈をした。
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椅子にすわると、恵子は、身体を震わせはじ
めた。
「どうしたの、けいこ」
「なんだかとても寒いの」
顔色がわるい。
綾は、恵子のひたいに口びるをつけた。
「まあ、すごい熱。ママ、二階、ほんとにかり
ていいかしら」
「いいよ。熱があるんだったら、下がるまで、
布団にくるまっているといいよ」
「すみません。突然おしかけて、ご迷惑をおか
けします」
恵子は、申し訳なさそうに言った。
「いいんだよ。気にしないで。あたしだって、昔、
田舎から出てきたのさ。ずいぶんいろんな人に
情けをかけてもらったものさ」
「ありがとう、ママ。恵子、遠慮なく使わしてい
ただこう」
綾に肩を抱かれて、恵子は、ゆっくりとのぼった。
綾は、押入れの布団をだして、敷きはじめた。
「もう一度、やりなおすんだ、恵子。まだ二
十歳を過ぎたばかりだろ」
「二十三歳です」
布団を敷き終わった。
綾は、こまかく割った氷をビニール袋に入れて来て、
恵子の頭の上にのせた。
その下に、タオルをしいた。
「コートだけ脱いで、寝て。汗が出たら、熱がさが
るし」
「はい」
「あたし、着がえ買ってくるから、ゆっくり休んでい
てね」
「ほんとうに、助かりました」
部屋を、ぐるりと見渡した。
目が少しまわった。
古い建物だ。
天井がすすけて、黒くなっていた。
あずま障子やふすまが使われている。
窓の外に出っ張りがあった。
手すりに寄りかかって、道行く人をながめ
ることが出来た。
今どきめづらいい家だわ、と恵子は感心し
ている。
二階は、ふた部屋あった。
間仕切りに、書院が入っていた。
恵子は、階段をあがって、すぐの部屋にいる。
今頃、友子おばさんは、どうしているだろう。
急にいなくなったから、驚いているだろう。
踊り慣れたステージだけど、今時の若い子は、
けっこうドライだ。あたしの穴埋めは、すぐにでき
るわ。
世話になった人の顔が、浮かんでは、消えた。
恵子は、考えているうちに、眠ってしまった。
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「あやさんっ」
恵子は、綾のからだに、しがみついた。
うっ、うっと、嗚咽をもらしはじめた。
「ごめんね、けいこ。心細かったでしょう」
抱きついたまま、なんどもうなずいた。
涙がとまらない。
「急に連絡してくるから、びっくりしたよ。
いろいろ事情があるんだろう。それはいい
からさ。ごはん、食べよ」
綾は、恵子の肩を抱いて歩きだした。
卓也が、綾のそばに来て、
「ねえさん、あっしに御用で」
と、念をおした。
「ああっ、そうだった。たくや、お前、Nさんと
顔見知りだろ」
「へい。踊り子の仕事なんかを斡旋してくれ
る方ですよね」
「そうだ」
「あたしが、女の子ひとり、頼みたいって言っ
てるからって、伝えて来てくれるかい」
「わかりました」
「恵子、それでいいだろ」
「あやさん、ありがとう。何から何まで」
卓也は、
「ひどい目にあわせて、すみませんでした」
と、恵子にあやまった。
恵子は、無言でいた。
ネオン街の角をまがった裏通り。
色んな食堂が、ならんでいる。
ほとんどの店は、暖簾をだしていない。
赤ちょうちんをさげてある店の前に立った。
「さあ、ここで食べよ」
玄関の戸を開けた。
「こんにちは」
「はあい。まだやってないんですよ」
奥から、女の声が聞こえた。
五十がらみの和服を着た女が顔をだした。
「ママ。あたしよ」
「あら、綾ちゃんじゃないの。久しぶり」
「わるいんだけど、何か食べさせてくれる」
恵子が、ママに一礼した。
「その子は」
「あたしの親友なんだけど。田舎から出てき
たばかりなんだ」
「じゃあ、どうしようかな。ご飯は炊けてるし。
おつけと、おむすびでもいいかな」
「じゅうぶんです」
恵子は、椅子にすわった。
「その子、だいじょうぶ。疲れてるみたいだ
けど」
「ママ、食べたら、ちょっと二階で休ませて
くれる」
「いいわよ。綾ちゃんの頼みだもの。散らかっ
てるけどね」
恵子は、縁のある人に囲まれて、ようやく
心の平静さをとりもどしつつあった。
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翌日の朝早く、恵子は東京に着いた。
新宿駅前は、乗降客で混雑していた。
ふらつく足取りで、長い階段をおりる。
なんども、人にぶつかった。
その度に、倒れそうになるのをこらえた。
夕べから、何にも食べていなかった。
バッグをひとつ持っているだけだ。
頼る人が、ひとりいた。
草津でいっしょに踊っていた綾だ。
十歳年上だった。
ずっと田舎にあきたらずにいた。
「いつかきっと、新宿K町で踊るんだ」
それが、彼女の口癖だった。
東口で降りた。
大きなテレビ画面がビルに設置されていた。
恵子は、もの珍しそうに見入った。
立っているのが辛かったので、しゃがみこ
んだ。
ひょろ長い男が、寄って来た。
「ねえ、お茶飲まない」
青白い顔している。
恵子は、無視した。
男は、あきらめない。
恵子のまわりを、ぐるぐるまわった。
タバコを吸っている。
恵子の顔に吹きつけた。
ふいに、亮を思いだした。
「何するんだ。この野郎」
恵子は、大声を出した。
男は、一瞬驚いてあとずさった。
次の瞬間、恵子の手をつかんだ。
「おい、おれをなめんじゃねえ」
バチッ。
男のはり手が、頬に当たった。
恵子は、思わず頬をおさえた。
「こらっ、たくや」
女の声がした。
男が、急におとなしくなった。
「へい、あねさん」
「おめえ。なんてことする。この子、あたし
の知り合いなんだぜ」
「すみません。知らなかったもんで」
ぺこぺこ頭をさげている。
背を丸めて、遠ざかって行こうとした。
「待ってろ。用事があるんだから」
綾が、命令した。
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