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一夫の顔に苦悩の色がありありと浮かんだ。
叫びだしたくなるのをぐっとこらえた。
胸の内で怒りの感情が渦巻いて、両手でこぶしをつくった。
怒りか、・・・・・・。
このこぶしで、一体誰をなぐろうというのか。
早苗か、それともセラヴィ。
いやいや、とんでもない、と一夫は思いなおす。
自分の頭をゴツンゴツンとたたきはじめた。
突然防波堤に向かって走りだした。
「おお、かずお。やめて」
セラヴィは泣きながら、あとを追う。
砂に足をとられて、一夫は転んだがすぐには起きあがらない。
まるで駄々っ子のようにふるまう。
しばらく横たわったままでいたが、やっと上体を起こした。
口の中がじゃりじゃりしているのか、しきりに手で口もとをぬぐう。
セラヴィがハンカチを差しだすと、
「ほっといてくれ」と叫び、ハンカチを持ったセラヴィの手をふりはらった。
セラヴィは、突然、バッグを放りだし浜辺に向かって歩きだした。
一夫が呼びかけても、立ちどまらない。
靴を脱ぐと海に向かって投げた。
打ち寄せる波が、セラヴィの足もとを濡らしはじめる。
満ち潮がひたひたと押し寄せてきた。
セラヴィの体が水の中に沈んで行く。
「セラヴィ、セエラアヴィ」
一夫はようやく事態の深刻さに気づき、立ち上がって追いかけはじめた。
ほんの一メートルまで近づいたが、急に深くなっていたのだろう。
セラヴィがすとんと沈んでしまった。
髪の毛だけが波間に漂っている。
一夫は飛びこむのをためらっている。泳げないのだ。
顔だけ海につけてセラヴィの髪の毛を両手でつかむと、手元にたぐりよせた。
どこで見ていたのだろうか、大声をあげながら、若い男たちがかけつけてきた。
砂浜にセラヴィの体を横たえ、一夫が見よう見まねの人工呼吸をほどこす。
幸いなことに二、三度胸を押しただけで、セラヴィは飲みこんでいた水をプッと吐いた。
「かずお、ありがとう」
ずぶぬれの顔を一夫に向けた。
青白くなった唇がふるえている。
「良かったですね」
若者たちが口々にいった。
頭を深くさげて、一夫は彼らに礼をいう。
「年甲斐もなくとりみだして、すまない」
「うう、うん」
「体をあたためなくてはな」
セラヴィを背負って、一夫は防波堤の階段をのぼって行く。
ハアハアと息が切れる。
「かずお、大丈夫」
「大丈夫だ。興奮しちまって、バカな野郎だ」
「わたし、水の中で苦しくて死にそうだったわ」
「そうか、良かったな。それがわかるんじゃ大したものだ」
「神様のおかげね。これからわたしが、あなた、助ける」
駐車場に着いた。
車のトランクを開け、大きめのタオルを彼女に手渡すと、一夫は後部座席のドアを開けた。
「俺は前を見ているからな」と、セラヴィを気づかう。
運転席にすわると、一夫はエンジンをかけた。
身づくろいをすますと、セラヴィはバッグから眼鏡をとりだし、
「かずお、ちょっと待って。これかけてみて」
「なんだい、この眼鏡」
「いいから、かけて」
フロントグラスの向こうに、一瞬見知らぬ街が見えた。
「あれ、なんか変だ」
「魔法の眼鏡よ」
「どこだい、これは」
「私の故郷よ、オルリー。今度一緒に行きましょう」
一夫の肩に手をおいて、セラヴィはやさしく言った。
車が走りだした。
了
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どきっとして、一夫の体がこわばり顔色が変わった。
早苗を見つめたまま、凍りついたように立ちつくす。
靴が海水に濡れるのもかまわず、早苗は近寄ってきた。
「ずいぶん楽しそうですわね」
口びるの端に薄笑いを浮かべる。
「若い人はいいでしょ」
一夫のまわりをゆっくり歩きながら、刺すような視線を浴びせた。
「へええ、着せるものも、あたしと好みが違うようだし」
「さっ、さなえ」
早苗は立ちどまり、
「何よ、何か言うことがあるの」
と、感情を爆発させた。
顔の筋肉がひきつり、まるで別人のような顔を形作っていた。
早苗の両手がわなわなと震える。
一夫は顔をゆがめて、
「何を言っても信じないだろうが、・・・・・・」
「ああ、そのとおりよ。なんと言いわけしても無駄よ」
一夫は立っているのが辛くなり、その場にしゃがみこんだ。
「よくもまあ、今まで。あたしをあざむいてくれたわね」
肩からさげた小さめのバッグから封筒をとりだし、一夫に差しだした。
「これは」
と一夫は受け取り、入っていた紙っぺらを開いた。
早苗の名前のわきに印鑑が押してある。
「わかるでしょ」
「離婚届か」
早苗はそうよと答えて、バッグからタバコを一本とりだし口にくわえた。
ライターの火を近づける。
深く息を吸いこみ、ふううと吐きだした。
「お前、たばこ吸うのか」
「あたしの勝手でしょ」
なんとかうまく行っている、と一夫はずっと思っていた。
夫婦でも、所詮は他人同士か。
一夫は長いため息を吐いた。
「あなた、あたしのお荷物みたいだったし」
「何だって、お荷物だって」
「そうよ、何か文句ある」
ぎろっと一夫をにらんだ。
「家はいただくわね。今日中に荷物をまとめて出て行ってね」
「今日中だと」
封筒をつかんだ一夫の手が震える。
「女を引っぱりこんだのよ、あなた。立派に離婚が成立するでしょ」
「わかった。判ったから、ちょっと俺の話を聞いてくれるか」
「判を押してくれる」
「ああ」
一夫は自分の身に起こったことを、包み隠さずに話した。
早苗はふんと鼻先で笑い、
「実家にいますから、早めに郵送してください」
と、きびすをかえした。
水に濡れたのか、お尻が冷たい。
心まで凍りついたようだな、と一夫は自嘲気味に笑った。
しぼんでいた風船がふくらむようにして、一夫は立ち上がった。
これは俺の本意ではない。不可抗力だった。
一夫の心の中から湧きあがってくるものがあった。
「俺は、今でもお前のことが好きだあ」
と、去って行く早苗の背中に叫んだ。
早苗は両手で耳をふさいだ。
「これもあなたの人生よ」
いつの間に来ていたのか。
セラヴィが、一夫の耳元でそっとささやいた。
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早苗がいなくなって、一夫は困った。
食事は、近くのコンビニで充分用を足すことができた。
しかし、預貯金の通帳や印鑑等の所在がわからない。
出て行く時に、ほとんど持ちだしてしまったのかもしれない。
女房を怒らせたらこわい、と今頃になって骨身にしみてきた。
給料日にもらった二万円が全財産だった。
それもあと数千円残っているだけだ。
仕方がないので、会社に無理をいった。
中堅のインテリア企業の本社の部長にまで、一夫は上りつめていた。
判りました、とすぐに都合をつけてくれたが、
いったい、部長、どうされたんですか、と心配されてしまった。
普段は横柄な口ぶりの一夫が、総務の格下社員に丁重に頭をさげた。
しょうがない、これも俺の身から出たさびだ、と渋い顔だ。
汗ばむほどに天気の良い休日。
一夫は居間で新聞を読んでいる。
「おい、今日はちょっと出かけてみるか」
寝室のそうじをしているセラヴィに向かっていった。
掃除機の騒音で聞こえなかったのか、彼女の返事はない。
一夫が立ち上がった。
腰をかがめているセラヴィの後ろにまわり、体を両手で抱いた。
体をびくりとふるえ、「おおっ」と叫んだ。
左手で掃除機をつかんだまま、右手をおおげさにふった。
セラヴィは、最近ますますフランス人らしくふるまうようになっている。
一番困るのは、言葉だった。
前世の記憶がかなりよみがえったらしい。
「眼鏡」のことにあまり頓着しなくなったところを見ると、
店員であることも忘れかけているようだ。
あの眼鏡をかけなくても、一夫はセラヴィの姿が見えるようになった。
便利なようだが困ったことだ、と思う。
二日前、ご近所の女の人に見とがめられた。
玄関で回覧板を手に持ったまま、
「奥さま、最近お見えにならないですわね」
「ええ、ちょっと。実家に帰っておりまして」
「何か、ご用ですの」
「母親がちょっと具合が悪いものですから」
台所から足音が聞こえていた。
「あら、どなたかいらっしゃるの」
「ええ、知り合いが来てるので」
一夫は顔を赤くして、防戦につとめた。
あれは、降ってわいたような災難だったんだな。
初めは鼻の下を長くした一夫だが、今は苦労ばかりであった。
「何よ。あたし、今いそがしいの」
セラヴィが居間のドアを開けて、つっけんどんに言った。
ひたいに汗をかいている。
「掃除はいいからさ。なっ、今日は外出しよう。いいお天気だし」
「わたし、彼と行くから」
一夫は耳を疑った。
セラヴィの若さを考えると、フランス人の恋人に違いなかった。
怒ることもできない一夫は熱心にさそう。
セラヴィは、ついにウイッと答えた。
ノンとかボンジュールくらいなら、一夫はわかる。
細かなことはさっぱりだ。
この先、まったく日本語をしゃべらなくなったら、と気が気でない。
軽乗用車に大きな体を無理に押しこめた。
セラヴィは窓を開け、ひじをかけた。
「こんな小さな車じゃいやだわ」
「そうだろうが、ちょっと辛抱してくれ」
「いやよ。私の家はもっと大きくて、庭も広いわ。プールもあるのよ」
言いつのるセラヴィの横顔を見つめて、
「おまえな、今の立場をもう少し考えてみたらどうだ」
と語気を強めた。
急にセラヴィの顔色が変わった。
赤ん坊が泣くように真っ赤になり、わけのわからないことを口走った。
両手で自分の膝をたたいて、泣きはじめた。
自分も怒りたい気分だが、一夫はこらえた。
海辺近くの駐車場に車を止めた。
一夫は先に降り、助手席のドアを開けた。
「さあ、着いたよ」
セラヴィは、降りようとはしない。
プイッと顔を横に向けた。
彼女をそのままにして、一夫は海辺に向かった。
階段をおりて行く。
ザクザクザク。
歩くたびに、運動靴が砂地にめりこむ。
砂浜がずっと先まで続いていた。
白い入道雲が浮かんでいる。
海はないでいるせいか、波がおだやかだ。
小さな水音を立てて、打ち寄せては引いて行く。
一夫は靴が濡れるのもかまわず、水平線を見つめた。
背後で足音が聞こえたので、「セラヴィ」と笑顔をむけた。
早苗が立っていた。
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一週間たつが、早苗からは何の連絡もない。
早苗が出て行った日。
すぐに携帯電話にコールしてみたが、つながらなかった。
それは当り前のことだと判るのに、一夫は時間がかかった。
こうなりゃ、早苗が頭を冷やすのを待つしかない、と覚悟を決めた。
今さら、ああだのこうだのいっても、言いわけにしか聞こえまいと思う。
実家にでも帰っているのだろう。
七十歳になる母親が、S市の田舎でひとり暮らしをしていた。
早苗がいなくなったのはチャンスとばかりに、
女はかいがいしく一夫の身のまわりの世話をはじめた。
すっかり、体調が回復しているようで、血色がいい。
ある日の夕刻。
テーブルを真ん中にして、ふたりが台所にいる。
「ねえ」
「なんだい、女店員さん」
「何なの、その言いかた」
ぷんと怒った表情をして、首を横にふった。
「だって、きみは、その・・・・・・」
一夫はしどろもどろになった。
「きちんと名前を呼んでほしいわ」
「名前って。持ってるのか」
一夫の声が大きくなった。
「そりゃあ、あるわよ。今まで遠慮して教えなかっただけよ」
一夫は、自分の頭をポンとはたいて、
「それは失礼しました」と答えた。
女は嬉しそうに、
「セラヴィっていうのよ」と胸を張った。
「セラヴィか。変な名だな」
「まあ、失礼ね」
「ごめん、ごめん。へええ、セラヴィか。フランス人みたいだね」
セラヴィはくくっと笑った。
「どうしたの。何かおかしいのかい」
「う、うん。思いだし笑いだから気にしないで。でも、かずお。よく知ってるのね」
セラヴィはふいに細い腕を組んで、天井を見あげた。
両眼を閉じる。
そういえば、横顔が外人っぽい。
「あのさあ、どんなこと思いだしてるのか、興味があるなあ」
強い視線を感じたのか、セラヴィは目を開けて、
「聞きたいですか」と、一夫に顔を向けた。
一夫は、こくりとうなずいた。
「セラヴィってね。フランス人はしょっちゅう口にする言葉なの」
「ふううん」
「いいことでも、わるいことでもセラヴィ、セラヴィってね」
「どういう意味なんだろ」
「これがあたしの人生さ、ってこと」
「自分の身に起きることをすべて受け入れるってことだ」
「そう、あたしだって。生前は・・・・・・」
「なに、生前がどうしたって」
やかんの口から湯気が出はじめ、すぐにピーピー鳴りはじめた。
セラヴィは立ち上がって、ガスの火を止めた。
ポットにお湯を注ぐ。
インスタントコーヒーを入れ、カップを一夫の前においた。
手が痛むのか蛇口をひねり、水で冷やしている。
なかなか人様と同様と言う訳にはいかない。
やけどをしやすいのだろう、と一夫は思った。
「熱いから、気をつけてね」
「やさしいんだね」
「そうでもないわ。あたしね、実は、生きてる時はフランスにいたのよ」
突飛なことを言いだしたので、一夫は目を丸くした。
「前世はフランス人だってことかい」
「まあ、そうなるわね」
「だったら、どうして眼鏡屋さんなんかに」
「向こうの勤め口がそうだったからかな。でもよくわかんない」
「飛行機で半日以上かかる日本まで、よくおいでだね」
「それも判らないわ。すべて神様の思し召しだから」
セラヴィは胸の前で十字を切った。
頭上がパアッと明るくなり、光の輪ができた。
一夫は見間違いではないか、と目をこすった。
次第に光の輪が淡くなり、そのうち消えてしまった。
「魂って、あるんだね」
一夫が重々しい声でいった。
「そうよ、フランス人は、みんな信じてるの」
セラヴィは当然といった表情をした。
「あっ、それはそうとね」
「どうした。何かあったか」
「今朝ね。洗濯ものを干してたらね」
「うんうん、それで」
「生垣の外に男の人がうろうろしてたの」
「どんな奴だ」
「紺のスーツを着て・・・・・・。鞄を持ってたかな」
一夫は思わず身を乗りだしていた。
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一夫は夢を見た。
見あげると、木々のこずえが夜空をかくしている。
満月が出ているのか、ずいぶん明るい。
バサッと音をたてて、ムササビが飛んだ。
フットライトのように淡い光が樹間に差しこみ、一夫の顔に当たっていた。
まぶしくはない。
やわらかな感触だ。
手足を動かしてなんとか立ち上がろうとする。
しかし、びくとも動かない。
耳をすますと、こぽこぽこぽと音がする。
泉が近くにあるのだろうと思った。
ふいにザブッと音がした。
ザクザクザクと足音が続いた。
砂地を踏みしめている。
一夫は恐怖にかられ、逃げだそうともがいた。
なにしろ正体が判らないのだ。
すぐわきでそれは立ちどまった。
一夫は思わず目をつむった。
ぽつりぽつりと滴が顔にたれる。
何者かが、一夫の顔をのぞきこんでいる。
皮膚がぴりぴりと震えた。
暖かい息が顔にかかって、こわいもの見たさに目を開けた。
一夫はわっと驚いて、体がびくりと動いた。
あの女の顔がまじかにあったからだ。
ようやく夢からさめた。
女は目をつむっているので、よく観察することが出来た。
まったく化粧をしていないようだ。
雷に打たれたせいか、顔色が悪い。
切れ長の目をして、鼻筋がとおっている。
唇は上下とも薄い。
知的だが人情味に乏しいといえる。
もっとも人間なみに占っていいものか、疑問はある。
白い歯を見せて、女が口を開いた。
鋭い八重歯が気になる。
「いつまで寝てるのよ」
ふいに女は自分の胸元を見て、あれっ、と叫んだ。
おとなしくなり、そそくさと部屋を出て行った。
早苗そっくりの言い方に、一夫はあきれた。
若いだけに早苗より魅力がある、と思う。
ドアが開くと、早苗が立っていた。
一夫は一瞬びっくりした。
「何よ、そんなに目を丸くして」
女が早苗の服を身に付けていたのだ。
「起きてよ、しょうがないわね」
一夫は、いつの間にかあのメガネをかけていた。
倒れた時に、外れていたのだ。
この女の体。
ひょっとして生身じゃないか、と思う。
まさかそんなバカなことって、とすぐに打ち消したが、
一度思いこんだことは簡単には消えない。
夢中になって、一夫は女の体をさわったりもんだりし始めた。
女は嫌がったが、それほど抵抗しない。
抱いてほしいと求めるほどだから、うれしいのだろう。
初めの頃はさわろうとしても素通りしてしまい、
これはもののけのたぐいだ、と思いこんだくらいだった。
ところが、一夫になつくにつれて、人らしくなってきた。
女性らしくなった。
気持ちはともかく、姿形まで人間に似て来るとは。
内容が伴ってくるとは・・・・・・。
機械の妖精のくせに。
今に神様のバチが当たるのじゃないか、と一夫は恐れた。
さてと、早苗をこのまま放っておくわけにもいかない。
どうやってよりを戻すか。
一夫は起き上がり、腕を組んで思案しはじめた。
ぎっくり腰が快方に向かっていた。
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