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薄氷 その4

 店まで自転車で向かう。
 東山の頂きを左手に見ながら、ペダルをこいで行く。
 冬空が広がっていた。
 遠くの寺の屋根に陽射しが当たっている。
 自転車は、父親のものだ。
 大きな荷台がついている。
 大きく脚をひろげて、サドルにまたがった。
 栄子はくすっと笑った。
 父は、男の子がほしかったらしい。
 栄子は、男の子のように育てられた。
 小さい頃は、あまりスカートをはかせてもらえず、近所の子をうらやんだことがあった。
 母が文句を言ったが、素知らぬ顔でいた。
 二人目に良子が生まれた時には、また付いてないや、とこぼしたらしい。
 何いうてるんや、丈夫な子が生まれたのに。神さんのばちが当たるで、と美代子が叱った。
 比叡おろしの風は冷たい。
 ハンドルを持つ手がしびれる。
 いったん停まり、手袋をはめた。
 耳が隠れるほどにマフラーを巻いた。
 およそ五分の道のりである。
 青のジーンズをはき、ピンクのジャンパーを着ている。
 最近、交際中の信夫とみた外国映画の中に、こんなシーンがあたったな、と栄子は思う。
 主演女優が自転車に乗り、川沿いを疾走していた。
 いつかあんなふうに走ってみよう、と考えていた。
 「おい、栄子ちゃんやないか」
 通りすがりの年輩の男の人が声をかけた。
 父の友人の山本さんだ。
 K銀行を去年定年退職された。
 画版をたずさえている。
 絵を描くのが趣味で、よく円山公園に出かけられる。
 「こんにちはあ」
 走りながら、応えた。
 「珍しいなあ、ちゃりんこか。どこへ行くのや」
 「ちょっと。いいとこ」
 「これ、待ってるんか」
 右手の親指を立てた。
 「違いますよお。あたしみたいのには、絶対にムシはつきません」
 何度も首を左右にふった。
 「気をつけるんだよう」
 栄子は、うしろを向いた。
 「さよなら、またお茶でもどうぞ」
 小さな四つ角が近づいていたのを、栄子は知らなかった。
 竹の林が見通しをわるくしていた。
 徐行せずに走りぬけようとした。
 衝突に気がついた時は、倒れていた。 
 黄色のヘルメットが目に入った。
 五歳くらいの女の子だった。
 補助車の付いた赤い自転車の下敷きになっている。
 あわててかけよろうとして、栄子はふらついた。
 栄子は転んだときに、アスファルトの地面で頭を打ったらしい。
 右側等部が痛む。
 手でふれると、赤い物がついた。
 少し動かずにいた。
 「気をつけてよ、あなた、大人なんでしょ」
 耳元で、女のどなる声が聞こえた。
 
 
 
 
 

薄氷 その3

 栄子は、台所でおそい朝食の用意をしている。
 まな板のうえに長い食パンをのせ、切りはじめた。
 ふた切れをトーストに入れる。
 「なんや、出かけるのかい」
 暖簾をあげて、祖母が顔をだした。
 「そうや」
 栄子は、祖母の前をスリッパの音を立てながら、歩きまわる。
 お気に入りのマグカップを食器棚からとりだし、こさじ一杯のインスタントコーヒーを入れた。
 「ずいぶん、せわしないな」
 「うん、ちょっとね」
 キツネ色に焼けたパンをとりだし、皿にのせた。
 ポットからカップに湯をそそぐ。
 「お父ちゃんら、いま時分忙しいやろな」
 「今の時期や、それほどでもあらへん。なんや、気になるんか」
 それには応えず、栄子はパンをちぎって口に入れた。
 良子が階段をおりてくる音がした。
 「おはよ」
 両手で目をこすりながら、あらわれた。
 「おはよ、じゃないやろ。今何時やと思う」
 良子は掛け時計を見上げて、
 「夕べおそくまで友達とだべってて」
 と、白い歯を見せた。
 「だべるって」
 「おしゃべりのことや」
 「ちゃんとしゃべり。ばあちゃんら、お前がいつ帰ったかも分からへんかったわ」
 良子が、栄子の向かいにすわった。
 「ねえちゃん、お店に行くんやろ」
 美代子が、栄子の顔をじっと見ている。
 「良子、だまっていてって、言ったやろ」
 「あっ、ごめん。すっかり忘れてたわ」
 「栄子、店に行ってくれるんや」
 美代子が嬉しそうだ。
 仕方なさそうに、栄子はうなずいた。
 「水くさい子やな。そんなことやったら、食事くらいちゃんとつくってやるのに」
 栄子は右手で長い髪をかきあげながら、
 「照れくさいから」
 と不機嫌な顔で言うと、カップに残っていたコーヒーをすすった。
 「ほんだら、行ってきます」
 椅子にかけていたショルダーバッグを肩にかけると、玄関に急いだ。
 「気いつけてな。父ちゃんも喜ぶわ」
 すぐに、栄子がもどってきた。
 「なんや、忘れ物か」
 栄子は、わざわざ祖母に近づいて、
 「お店に行ったら、あの人も、喜ばはるやろ」
 と、にやりと笑った。
 「こらっ。ばあちゃんこと騒がして、この子は」
 笑顔をつくりながら、美代子は右手のこぶしを振りあげた。
 
 
 
 
 
 

薄氷 その2

 氷のせんべいが、栄子の手のぬくもりで解けはじめた。
 しずくが落ちて、足の甲をぬらしている。
 ふいに栄子が、せんべいをかじった。
 かりっと音がしたが、すぐ口の中でとろけた。
 くすっと笑う。
 昔を思い出したのだ。
 「栄子」
 祖母の呼ぶかすかな声が聞こえた。
 姿が見えない。
 「えいこお」
 声が大きくなった。
 「ばあちゃん、どこにいるんや」
 「ここや」
 くぐもった声である。
 「何かご用」
 「うん。すまんけどな」
 「あっ、わかったよ。すぐに持ってくるさかい」
 栄子は、下駄を鳴らして跳び石をわたると、廊下にあがった。
 数分後。
 白い物が丸まった円柱を持って、現われた。
 廊下のつきあたりまで歩いた。
 戸を十センチくらい開け、黙って差し入れる。
 縁側にもどり、足もとでじゃれはじめた猫を抱きあげた。
 ばたんと戸が閉まり、足袋がすれる音が近づいた。
 「ああ、良かった。栄子が近くにいて」
 美代子が、栄子と肩をならべた。。
 「なんや、えらいのんびりして」
 「うん。学校が休みやし」
 「デートは」
 「そんなもん、あらへん」
 「ええ若いもんが」
 「お母ちゃんから聞いとるで。栄子も年頃になったって」
 美代子は、栄子の膝にいる猫を取りあげた。
 猫の爪が栄子のスカートにひっかかり、持ち上がった。
 シッポを左右に振る。
 「なんやろ。コロ、おばあちゃんがきらいやて」
 栄子はコロの爪をスカートからはずすと、両手で猫の毛をはらった。 
 「そうじの邪魔しよるから、ほうきでたたいたったんや」
 「そんなことするから、きらいよんね。なあ、ころちゃん、そうやね」
 栄子が、ぐっとコロを抱き寄せた。
 「あほかいな」
 美代子が視線を庭さきに移した。
 「早いもんやな」
 ぽつりと言った。
 「何が」
 「じいちゃんが亡くなってから、もう半年すぎたわ」
 栄子は、返事をしない。
 のど元に熱い物がこみあげて来るのを感じていた。
 コロのあごをしきりとなでた。
 「母ちゃんはどこ。もうお店に行ったんか」
 「はい。あの人は働きもんやよってに」
 美代子はふいに立ちあがり、和服の裾をなおした。

薄氷 その1

 節分を過ぎて、いくらか寒さがゆるんだ。
 陽射しがまぶしく感じられる。
 だが、まだ暖かくはない。
 「おお、さむ。三十年ぶりだわ。身も心も凍ってしまいそう」
 八十になる祖母の美代子のこの言葉を、孫の栄子は、この冬何回聞いたことだろう。
 今日は日曜日。
 朝からいい天気だ。
 早く起きて、大学に行く必要がない。
 栄子は寝坊を決めこみ、十時過ぎまでベッドに横になっていた。
 今はお気に入りのシャム猫を抱き、縁側に腰をおろしている。
 祖父の栄次郎が好きだった庭を眺めている。
 庭は苔でおおわれている。
 所々に淡い緑色がかった石が配置されている。
 松や梅の木が生えている。
 祖母は、この庭の手入れを欠かさない。
 竹筒から流れ出る沢水が、大きな丸い石を彫った穴に、ぽつりぽつりと落ちている。
 栄子は腰をあげた。
 赤い鼻緒の下駄をはき、跳び石を渡る。
 一週間前までは、丸い石の穴にたまった水が凍っていた。
 厚さが五センチくらいあった。
 猫を地面におろし、両手で水をすくう。
 「まあっ、つめたい」
 固い物が手にふれた。
 「あら、気づかなかったわ」
 そっと右手でつかんだ。
 直径二十センチほどの丸いせんべいのような氷だ。
 
 幼い頃は、この庭でよく遊んだ。
 えさを求めて、地面に降りてくるすずめを竹で編んだざるを使って取ろうとした。
 親にないしょで、米びつから小さな手でつかんで来ては、庭さきにまいた。
 いくらやっても、もう少しのところで逃げられた。
 ふたつ年下の妹の良子といっしょだった。
 「もったいないことばっかりしょって。あほなやっちゃ」
 祖父が苦笑いをした。
 丸石の中の氷を、ふたりして小石で割ろうとした。
 「こら、栄子。おてんばは、いい加減にやめんか」
 急いで、床下に逃げ込む。
 顔を紅潮させて、祖父がのぞく。
 「そんなとこへ入ってしもたら、クモの巣だらけになるぞ」
 薄暗いうえに、生臭い土の香りが鼻をつく。
 良子がすすり泣きをはじめる。
 栄子も、もらい泣きした。
 亀がはうように、おなかを地面にこすりつけながら、はい出た。
 祖父の前に立った。
 「ほら、こんなに汚れてしもうて」
 衣服の汚れを落とそうと、祖父は右手ではらった。
 「はよ、母ちゃんのとこへ行け」
 我が家は、代々京で土産物屋を営んでいる。
 清水のお寺に近い。
 店の前は、坂道になっていた。
 二月ごろは、祖父はいつも機嫌がわるかった。
 どうしてそうなのか、子供の栄子には分からなかった。
 客の入りがわるいからだ、と気づくのは、中学に入ってからだった。
 「もうちょっとで、あったこなる。そしたら、お客さんが来てくれはる」
 祖父は背を丸め、両手を身体の前でこすりあわせて、通りを眺めたものだ。
 「あんた、笑う門には福来たるやで。つらい時でも、誰にでもこわい顔みせたらあかん」
 「せや、人間しんぼうせな」
 「お湯わいたから、お茶でものみまひょ」
 祖母は大阪で生まれた。
 父は船場の丁稚だったが、苦労していっぱしの商人になった。
 間口は狭かったが、箪笥の引き出しを開けると、金券があふれだすほどだったらしい。
 
 
 

三年ぶりに。

 お気に入りの演歌を一曲歌い終えた。
 のどが乾いたので、宴会場を出る。
 自販機に近づいた。
 灯りがまぶしく感じられる。
 やれやれ、こんな淡い光りでも駄目なのかと、老化の進む自分の身体に語りかける。
 どれにしようかと悩む。
 もっと若い頃には、こんなふうではなかった。
 迷わず、コーヒーのボタンを押した。
 最近、体調が変わった。
 皮膚に赤い湿疹ができる。
 生まれつき、皮膚が弱かった。
 海水浴に行ったあと、陽に焼けて水ぶくれができ、お袋を泣かせたものだ。
 わきに年輩の女がひとりいた。
 きちんとならんだ缶ジュースやペットボトルを眺めている。
 見覚えがある。
 ちらっと女を見た。
 名前は知らないが、顔は知っていた。
 女も私を認めた。
 最後に逢ってから、三年以上たっている。
 何かあたたかなものが、心の中で湧きあがってきた。
 私の視線をまともに受けないが、彼女の口元がほころんでいる。
 私は宴会場にもどった。
 数分後。
 女も宴会場に入ってきた。
 懐かしさのあまり、あいさつをする気になり、女に近づいたが、
急に不機嫌な顔をつくり、下を向いてしまった。
 じかに声をかけるのは、失礼にあたった。
 顔見知りの客が多い。
 それならと、私は彼女のお気に入りの歌を歌うことにした。
 私の気持ちが分かるのか、耳を傾けている。
 心をこめて「情炎」を歌った。
 女は拍手していた。
 ふいに立ちあがり、きちんとならんだ低いテーブルの間を、私の方に歩いてくる。
 私の心臓の鼓動が高まった。
 前をとおるとき、小さな紙切れを落とした。
 四つ折りにたたんである。
 広げて見たが、何も書かれてはいない。
 女は、カラオケの受け付けをしていた。
 私は立ちあがり、思い切って受付所に行った。
 そばに寄った。
 女の表情がゆるんだ。
 「こまかい字が読めないわ」
 「俺がみてやろうか」
 「ええ」
 私はカラオケ本を手にすると、自分の席にもどった。
 女は備え付けの眼鏡をかけ、、チケットに鉛筆で歌の名前を書いている。
 
 
 
 
 
 
 

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