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店まで自転車で向かう。
東山の頂きを左手に見ながら、ペダルをこいで行く。
冬空が広がっていた。
遠くの寺の屋根に陽射しが当たっている。
自転車は、父親のものだ。
大きな荷台がついている。
大きく脚をひろげて、サドルにまたがった。
栄子はくすっと笑った。
父は、男の子がほしかったらしい。
栄子は、男の子のように育てられた。
小さい頃は、あまりスカートをはかせてもらえず、近所の子をうらやんだことがあった。
母が文句を言ったが、素知らぬ顔でいた。
二人目に良子が生まれた時には、また付いてないや、とこぼしたらしい。
何いうてるんや、丈夫な子が生まれたのに。神さんのばちが当たるで、と美代子が叱った。
比叡おろしの風は冷たい。
ハンドルを持つ手がしびれる。
いったん停まり、手袋をはめた。
耳が隠れるほどにマフラーを巻いた。
およそ五分の道のりである。
青のジーンズをはき、ピンクのジャンパーを着ている。
最近、交際中の信夫とみた外国映画の中に、こんなシーンがあたったな、と栄子は思う。
主演女優が自転車に乗り、川沿いを疾走していた。
いつかあんなふうに走ってみよう、と考えていた。
「おい、栄子ちゃんやないか」
通りすがりの年輩の男の人が声をかけた。
父の友人の山本さんだ。
K銀行を去年定年退職された。
画版をたずさえている。
絵を描くのが趣味で、よく円山公園に出かけられる。
「こんにちはあ」
走りながら、応えた。
「珍しいなあ、ちゃりんこか。どこへ行くのや」
「ちょっと。いいとこ」
「これ、待ってるんか」
右手の親指を立てた。
「違いますよお。あたしみたいのには、絶対にムシはつきません」
何度も首を左右にふった。
「気をつけるんだよう」
栄子は、うしろを向いた。
「さよなら、またお茶でもどうぞ」
小さな四つ角が近づいていたのを、栄子は知らなかった。
竹の林が見通しをわるくしていた。
徐行せずに走りぬけようとした。
衝突に気がついた時は、倒れていた。
黄色のヘルメットが目に入った。
五歳くらいの女の子だった。
補助車の付いた赤い自転車の下敷きになっている。
あわててかけよろうとして、栄子はふらついた。
栄子は転んだときに、アスファルトの地面で頭を打ったらしい。
右側等部が痛む。
手でふれると、赤い物がついた。
少し動かずにいた。
「気をつけてよ、あなた、大人なんでしょ」
耳元で、女のどなる声が聞こえた。
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栄子は、台所でおそい朝食の用意をしている。
まな板のうえに長い食パンをのせ、切りはじめた。
ふた切れをトーストに入れる。
「なんや、出かけるのかい」
暖簾をあげて、祖母が顔をだした。
「そうや」
栄子は、祖母の前をスリッパの音を立てながら、歩きまわる。
お気に入りのマグカップを食器棚からとりだし、こさじ一杯のインスタントコーヒーを入れた。
「ずいぶん、せわしないな」
「うん、ちょっとね」
キツネ色に焼けたパンをとりだし、皿にのせた。
ポットからカップに湯をそそぐ。
「お父ちゃんら、いま時分忙しいやろな」
「今の時期や、それほどでもあらへん。なんや、気になるんか」
それには応えず、栄子はパンをちぎって口に入れた。
良子が階段をおりてくる音がした。
「おはよ」
両手で目をこすりながら、あらわれた。
「おはよ、じゃないやろ。今何時やと思う」
良子は掛け時計を見上げて、
「夕べおそくまで友達とだべってて」
と、白い歯を見せた。
「だべるって」
「おしゃべりのことや」
「ちゃんとしゃべり。ばあちゃんら、お前がいつ帰ったかも分からへんかったわ」
良子が、栄子の向かいにすわった。
「ねえちゃん、お店に行くんやろ」
美代子が、栄子の顔をじっと見ている。
「良子、だまっていてって、言ったやろ」
「あっ、ごめん。すっかり忘れてたわ」
「栄子、店に行ってくれるんや」
美代子が嬉しそうだ。
仕方なさそうに、栄子はうなずいた。
「水くさい子やな。そんなことやったら、食事くらいちゃんとつくってやるのに」
栄子は右手で長い髪をかきあげながら、
「照れくさいから」
と不機嫌な顔で言うと、カップに残っていたコーヒーをすすった。
「ほんだら、行ってきます」
椅子にかけていたショルダーバッグを肩にかけると、玄関に急いだ。
「気いつけてな。父ちゃんも喜ぶわ」
すぐに、栄子がもどってきた。
「なんや、忘れ物か」
栄子は、わざわざ祖母に近づいて、
「お店に行ったら、あの人も、喜ばはるやろ」
と、にやりと笑った。
「こらっ。ばあちゃんこと騒がして、この子は」
笑顔をつくりながら、美代子は右手のこぶしを振りあげた。
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氷のせんべいが、栄子の手のぬくもりで解けはじめた。
しずくが落ちて、足の甲をぬらしている。
ふいに栄子が、せんべいをかじった。
かりっと音がしたが、すぐ口の中でとろけた。
くすっと笑う。
昔を思い出したのだ。
「栄子」
祖母の呼ぶかすかな声が聞こえた。
姿が見えない。
「えいこお」
声が大きくなった。
「ばあちゃん、どこにいるんや」
「ここや」
くぐもった声である。
「何かご用」
「うん。すまんけどな」
「あっ、わかったよ。すぐに持ってくるさかい」
栄子は、下駄を鳴らして跳び石をわたると、廊下にあがった。
数分後。
白い物が丸まった円柱を持って、現われた。
廊下のつきあたりまで歩いた。
戸を十センチくらい開け、黙って差し入れる。
縁側にもどり、足もとでじゃれはじめた猫を抱きあげた。
ばたんと戸が閉まり、足袋がすれる音が近づいた。
「ああ、良かった。栄子が近くにいて」
美代子が、栄子と肩をならべた。。
「なんや、えらいのんびりして」
「うん。学校が休みやし」
「デートは」
「そんなもん、あらへん」
「ええ若いもんが」
「お母ちゃんから聞いとるで。栄子も年頃になったって」
美代子は、栄子の膝にいる猫を取りあげた。
猫の爪が栄子のスカートにひっかかり、持ち上がった。
シッポを左右に振る。
「なんやろ。コロ、おばあちゃんがきらいやて」
栄子はコロの爪をスカートからはずすと、両手で猫の毛をはらった。
「そうじの邪魔しよるから、ほうきでたたいたったんや」
「そんなことするから、きらいよんね。なあ、ころちゃん、そうやね」
栄子が、ぐっとコロを抱き寄せた。
「あほかいな」
美代子が視線を庭さきに移した。
「早いもんやな」
ぽつりと言った。
「何が」
「じいちゃんが亡くなってから、もう半年すぎたわ」
栄子は、返事をしない。
のど元に熱い物がこみあげて来るのを感じていた。
コロのあごをしきりとなでた。
「母ちゃんはどこ。もうお店に行ったんか」
「はい。あの人は働きもんやよってに」
美代子はふいに立ちあがり、和服の裾をなおした。
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節分を過ぎて、いくらか寒さがゆるんだ。
陽射しがまぶしく感じられる。
だが、まだ暖かくはない。
「おお、さむ。三十年ぶりだわ。身も心も凍ってしまいそう」
八十になる祖母の美代子のこの言葉を、孫の栄子は、この冬何回聞いたことだろう。
今日は日曜日。
朝からいい天気だ。
早く起きて、大学に行く必要がない。
栄子は寝坊を決めこみ、十時過ぎまでベッドに横になっていた。
今はお気に入りのシャム猫を抱き、縁側に腰をおろしている。
祖父の栄次郎が好きだった庭を眺めている。
庭は苔でおおわれている。
所々に淡い緑色がかった石が配置されている。
松や梅の木が生えている。
祖母は、この庭の手入れを欠かさない。
竹筒から流れ出る沢水が、大きな丸い石を彫った穴に、ぽつりぽつりと落ちている。
栄子は腰をあげた。
赤い鼻緒の下駄をはき、跳び石を渡る。
一週間前までは、丸い石の穴にたまった水が凍っていた。
厚さが五センチくらいあった。
猫を地面におろし、両手で水をすくう。
「まあっ、つめたい」
固い物が手にふれた。
「あら、気づかなかったわ」
そっと右手でつかんだ。
直径二十センチほどの丸いせんべいのような氷だ。
幼い頃は、この庭でよく遊んだ。
えさを求めて、地面に降りてくるすずめを竹で編んだざるを使って取ろうとした。
親にないしょで、米びつから小さな手でつかんで来ては、庭さきにまいた。
いくらやっても、もう少しのところで逃げられた。
ふたつ年下の妹の良子といっしょだった。
「もったいないことばっかりしょって。あほなやっちゃ」
祖父が苦笑いをした。
丸石の中の氷を、ふたりして小石で割ろうとした。
「こら、栄子。おてんばは、いい加減にやめんか」
急いで、床下に逃げ込む。
顔を紅潮させて、祖父がのぞく。
「そんなとこへ入ってしもたら、クモの巣だらけになるぞ」
薄暗いうえに、生臭い土の香りが鼻をつく。
良子がすすり泣きをはじめる。
栄子も、もらい泣きした。
亀がはうように、おなかを地面にこすりつけながら、はい出た。
祖父の前に立った。
「ほら、こんなに汚れてしもうて」
衣服の汚れを落とそうと、祖父は右手ではらった。
「はよ、母ちゃんのとこへ行け」
我が家は、代々京で土産物屋を営んでいる。
清水のお寺に近い。
店の前は、坂道になっていた。
二月ごろは、祖父はいつも機嫌がわるかった。
どうしてそうなのか、子供の栄子には分からなかった。
客の入りがわるいからだ、と気づくのは、中学に入ってからだった。
「もうちょっとで、あったこなる。そしたら、お客さんが来てくれはる」
祖父は背を丸め、両手を身体の前でこすりあわせて、通りを眺めたものだ。
「あんた、笑う門には福来たるやで。つらい時でも、誰にでもこわい顔みせたらあかん」
「せや、人間しんぼうせな」
「お湯わいたから、お茶でものみまひょ」
祖母は大阪で生まれた。
父は船場の丁稚だったが、苦労していっぱしの商人になった。
間口は狭かったが、箪笥の引き出しを開けると、金券があふれだすほどだったらしい。
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お気に入りの演歌を一曲歌い終えた。
のどが乾いたので、宴会場を出る。
自販機に近づいた。
灯りがまぶしく感じられる。
やれやれ、こんな淡い光りでも駄目なのかと、老化の進む自分の身体に語りかける。
どれにしようかと悩む。
もっと若い頃には、こんなふうではなかった。
迷わず、コーヒーのボタンを押した。
最近、体調が変わった。
皮膚に赤い湿疹ができる。
生まれつき、皮膚が弱かった。
海水浴に行ったあと、陽に焼けて水ぶくれができ、お袋を泣かせたものだ。
わきに年輩の女がひとりいた。
きちんとならんだ缶ジュースやペットボトルを眺めている。
見覚えがある。
ちらっと女を見た。
名前は知らないが、顔は知っていた。
女も私を認めた。
最後に逢ってから、三年以上たっている。
何かあたたかなものが、心の中で湧きあがってきた。
私の視線をまともに受けないが、彼女の口元がほころんでいる。
私は宴会場にもどった。
数分後。
女も宴会場に入ってきた。
懐かしさのあまり、あいさつをする気になり、女に近づいたが、
急に不機嫌な顔をつくり、下を向いてしまった。
じかに声をかけるのは、失礼にあたった。
顔見知りの客が多い。
それならと、私は彼女のお気に入りの歌を歌うことにした。
私の気持ちが分かるのか、耳を傾けている。
心をこめて「情炎」を歌った。
女は拍手していた。
ふいに立ちあがり、きちんとならんだ低いテーブルの間を、私の方に歩いてくる。
私の心臓の鼓動が高まった。
前をとおるとき、小さな紙切れを落とした。
四つ折りにたたんである。
広げて見たが、何も書かれてはいない。
女は、カラオケの受け付けをしていた。
私は立ちあがり、思い切って受付所に行った。
そばに寄った。
女の表情がゆるんだ。
「こまかい字が読めないわ」
「俺がみてやろうか」
「ええ」
私はカラオケ本を手にすると、自分の席にもどった。
女は備え付けの眼鏡をかけ、、チケットに鉛筆で歌の名前を書いている。
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