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初夏の日差しが急速にかげってくる。
空一面を黒い雲がおおうのに、時間はかからなかった。
海に面した山肌の木々が揺れている。
ゴーという風の音が聞こえた。
女はその場にうずくまり、両手で耳をおおう。
「どうしたんだ」
「怖いのよ」
「何がそんなに怖いの」
「嵐が・・・・・・」
一夫は右手で女の肩をそっと抱き、「家の中に入ろう」とうながした。
ガラス戸は開けっぱなしになっている。
下ばきを脱ぎ、女の右足が部屋の床についたとたん、ピカッと光った。
バシーン。バリバリッ。
耳をつんざく音があたりに響く。
女はギャッと叫んで、床に倒れた。
失神したのか、まったく動かない。
ヴェランダの近くの木に落ちたようだ。
ふり返ると、生気が途中から裂け、煙があがっている。
一夫は、女のほほをパンパンたたいた。
またか、よく気を失うものだ、と半ばあきれ顔だ。
腰をかがめて、女の体を両手で持ち上げようとした。
「やれやれ、どっこいしょ」
腰がギクッと鳴った。
ああ、こんな時に、うそだろっ。
それほど体は重くないのに。
女の体が一夫の胸にのったまま、折り重なって倒れた。
一夫は、天井を見つめている。
こんなところを早苗に見つかったら、おおごとだぞ。
なんて言い訳すればいい。
まさかメガネ屋のサーヴィススタッフです、ともいえない。
一夫は、思わず目をつぶった。
あっ、そうか。見えないんだから、問題ないか。
そう思い直した。
一夫は、女の体を手でさすリ続けたが、無駄だった。
女は目覚めない。
午後五時をまわった。
あと十分もすれば、早苗が帰ってくる。
一夫はあせった。
女はいまだにぐったりしている。
機械の妖精はカミナリに弱いんだ。どこかショートでもしたんだろう。
一夫はうんうん言いながら、女の体を両手で押しつづけた。
「ただいま」
玄関で、早苗の元気のいい声がした。
ああ、と弱々しい声をだして、一夫は目を閉じた。
廊下を歩くスリッパの音が近づいて来る。
部屋のドアが開いて、
「ただいまあ。あっ」
あっと叫んだきり、早苗はだまってしまった。
バタン。
ドアが勢いよく閉まった。
足音が遠のいていく。
しばらくして、早苗が戻ってきた。
今度は、一夫を見た。
どことなく可愛げのある怖い顔で、腕組みをしたまま、見下ろしている。
軒下に吊るしたカナリアの籠を手にすると、バイバイと手を振った。
一夫は頭だけ動かして、早苗の動きを目で追っていた。
ひょっとして、早苗の奴・・・・・・。
ブルン。
庭さきにあるランクルのエンジンがかかった。
忙しげな足音が、玄関を出入りしている。
バンッ。
車のドアが閉まる音がした。
エンジン音が急激に高まり、車が動きだした。
一夫の愛車の音が、次第に遠ざかって行く。
ああ、俺の車が・・・・・・。
どうして早苗が、・・・・・・と思わないのだろう。
一夫は、自分自身に問いかけていた。
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土曜の昼下がり、一夫の仕事は休みだ。
早苗の帰りは五時だから、今すぐに帰宅することはない。
抱いてやろうとすれば、出来ないことはなかった。
しかし、一夫はためらっていた。
女の方は必死だった。
最後の一線をどうしても越えられないでいる。
「ねえ、もっと積極的に求めて来てよ」
だらんとして体を預けているだけの一夫に、女は文句をいった。
「あたしじゃだめなの。気持ちよくならないの」
「まあ、そうだな」
女はぎゅっとわき腹をつねった。
「いてえな、この」
両手で女の体をドンと押しのけた。
図体のわりに女の体は軽く、部屋の隅まで飛んだ。
柱にぶつかり、ゴツンと音がした。
その場に倒れたままで、動かない。
一夫は心配になり、近寄って女の肩をゆすった。
「おい、おい」
ぴくりともしない。
人間じゃないし、医者に見てもらうわけにもいかない。
ちょっとぶつけたくらいだ。すぐに意識が戻るだろう。
一夫は、少し様子を見ることにした。
女が来てから気の休まる暇がなかった。
一夫のいらいらは募るばかりで、
好きな海もゆっくり眺めていられない。
風光明媚なM半島の先端付近である。
もともと街の中に住んでいたのだが、若い頃にこの地に引っ越してきた。
ヴェランダに通じるガラス戸を開けると、風が吹きこんできた。
遠くに島影がかすんで見える。
港では漁船がせわしげに動いている。
手すりに体を寄せて、ぼんやり景色を眺めた。
「あのう」
後ろで女の声がした。
一夫はかけていた眼鏡をはずし、右手に持った。
左手で目のまわりをもむ。
「なんだい、気がついたのかい」
わざとつっけんどんないい方をした。
「ええ」
「押しとばして、悪かったね。ケガしなかった」
海を見たままで言った。
「大丈夫です」
女は丁寧な物言いをした。
「あら、メガネ」
女は突飛な声をだした。
「うん。はずしたんだ」
「そんなことしたら、あたしが見えないわ」
「わかってる」
しばらく、ふたりは沈黙したままでいた。
「あたしが嫌いになったの」
「いや。ちょっと疲れただけだ」
「いきすぎた事をしたんなら、あやまります」
そう言って、女はだまった。
「もうあたしが要らないのでしたら、・・・・・・」
一夫は、女の体を背中で感じた。
「そ、そんなことは、ない。でも君は大丈夫なの」
「ええ。お客様が必要とあらば・・・・・・」
「いつまでもいられるんだね」
「ええ、そうですわ」
「まあ、とにかく」
「とにかく、何ですの」
「あんまり、こちらの生活にまで入りこんで来られるとね」
一夫は、本音を口にした。
「承知しました。すみませんでした」
水平線の上にぽつんと黒い点が見えた。
雲がむくむくわき上がってくる。
一夫は眼鏡をかけた。
女は手すりに体をあずけて、じっと海を見つめている。
表情がくもっていた。
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女は、その後もずっと家にいすわった。
かつて玄関を開けっぱなしにしておいて、野良猫が
家の中に入りこんだ事がある。
台所のテーブルの上にすわって、みゃああと鳴いた。
なんとも悲しげなので困惑し、捨てるに捨てられずそのままにして
おいたら、家に居ついてしまった。
それに似た感慨を一夫は抱いた。
ある日。
眼鏡を無造作に畳の上に転がしておいた。
あまり几帳面でない一夫は、物をきちんとしまっておけなかったのだ。
腰をかがめて探しまわっている一夫の尻を、女がふいにたたいた。
細腕がむちのようにしなり、びしっときた。
「ああ、いてえなっ。何するんだよう」
思わず、一夫は大声をあげた。
早苗がいれば我慢するのだが、パート仕事にでている。
「なによ、まったく」
「何がまったくだい」
ふたりしてケンカ腰である。
近頃は、早苗のほかに女がいることにも慣れた。
女房に対するように、一夫は女に口をきいた。
女の方でも、一夫に慣れてきた。
「おっことしたら、だめでしょ」
と、目を吊り上げて、恐ろしげな顔をした。
怒ったら、男でも女でも怖い。
しかし、と一夫は思う。
美人が怒ると、尚更なんじゃないか。
夜叉の面相に近づいてくるように思えた。
早苗が美人じゃなくて良かった、とつくづく思う。
口論は、夫婦の生活にまでおよんだ。
「たまにはあたしを抱いてくれたらいいでしょ」
「ええっ」
「奥さんばかり抱かないでよ」
「そんなお前、無理いったって」
「こんなに長いこと、眼鏡の世話してるのよ」
「お前はもともとサーヴィススタッフじゃないのか」
「それはそうよ」
「だったら、それだけで満足してれば」
一夫がそこまで言うと、女がすわりこんで泣きだした。
服は身につけず、下着姿のままだ。
両足をくの字にまげ、頭をうつむき加減にしている。
涙が畳にぽとぽと落ちている。
女の体が生身に近づいて来るのを感じて、一夫は驚くことが多い。
「わかった、わかった」
一夫は根負けして、白旗をあげた。
言うべき言葉じゃないのは判っていたが、女の勢いに押された。
「そう、わかってくれたのね」
女はころっと表情を変え、「うれしい」と、一夫の体にすがりついた。
体の重みで、ふたりして畳に転がった。
キスの嵐を一夫の顔面にあびせる。
「ちょっと待て。放せよ」
「どうしてなの。いいいんでしょ。抱いてくれるんでしょ」
女はそういって、愛撫の手をゆるめない。
一夫の体をまさぐりだした。
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眼鏡屋のサーヴィススタッフなんだろうか。
それにしても、ずいぶんアフターケアが行き届いている。
機械に疎いということは、逆に機械を過信することでもある。
青木一夫は、店がこの女をよこしたと思い、眼鏡の使い方でも指導するのだろうと考えた。
変なスタッフだとは思うが、大して疑問に思わない。
買ったばかりの眼鏡はかけたままだ。
車に乗りこむ時も女にはかまわず、ふだんどおりにふるまった。
青木の家は街の郊外にある。
およそ二十分くらいの道のりだった。
その間ずっと、バックミラーに女の姿が映っていた。
後部座席に女が乗るのに手を貸した覚えはない。
「あなた、何よ。さっきから後ろばかり見て」
早苗が不審の目をむける。
「いや、別に。若いのがバイクでつけて来るからな。気をつけようと思って」
マフラーを外しているのか、やたらと音が大きい。
狭くなっている車の左側を通過して、ふらふらしながら前にでた。
「危ないわね、まったく。車が左にハンドルを切ったら、どうするつもりかしら」
「ぶつかって、相手がケガでもしたら大変だよな」
「そうそう。こっちが悪者にされちゃうもの」
青木が後ろを見ると、女は視線を感じたのか白い歯を見せた。
女房に見えないからいいようなものの、・・・・・・。
そう思うと、一夫の心中は穏やかではない。
もしも姿がもっとはっきりしたら、早苗と大ゲンカになるのは決まっていた。
もういいですから早く消えてください、と一夫は心の中で祈った。
家にたどりつき、玄関前で先に早苗をおろした。
ガレージに前進で車を入れる。
女のことは無視して自分だけ降り、シャッターを閉めた。
ガレージは広く、四台入れることができた。
今はいない子供たちの車の分である。
三つのシャッターは閉じられていた。
「何よ、冷たいのね。さっきは嬉しそうにしてたのに」
耳もとで、女の怒った声がした。
一夫はどきっとして、かがんでいた頭をあげた。
やわらかいふたつの盛り上がったものが、一夫の背中で押しつぶされるのを感じた。
妙に現実味があるので一夫はあわてた。
玄関は広く開いている。
やばい、早苗が見たら、とシャッターの陰に身をかくした。
早苗には女の姿は見えない筈だったが、心配だ。
「やめろよ」と、一夫はおだやかに女を制した。
女がこの世の者ではないのは、はっきりしている。
機械にとりついた妖精かも。
今のところ、こちらに敵意を抱いてはいないようだ。
妖精にしても、女は女。
ヒステリーを起こされてはかなわない、と一夫は思った。
「ごめん」と、無視したことを、一夫はあやまった。
女は黙ったままでいる。
素気なくされたのが、よほど応えたようだ。
女の哀しい気持ちがじんじん一夫の心に伝わってきた。
それが、なんとも不思議だった。
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早苗が店の奥から姿をあらわした。
ハンカチをバッグにしまっている。
「探してたの。あたしのこと」
「うん、まあ」
「あら、うれしいわ。それで、眼鏡、決めたの」
「いや、まだ。早苗に相談しようと思ってさ」
手にしていた眼鏡を早苗に見せた。
「これ、かけてみたんだけどさ」
特価品の札を見て、
「こんなのでいいの。もう少し値のはるものでもいいのよ」
と、気前のいい素振りをみせる。
一夫自身はケチに徹している。若い時からだ。
子供時分からつましく暮らしてきた。
汗水流して働く親の後姿を見ながら育った。
妻のやりくりの大変さがよくわかっている。
ずっと眼鏡は一本で通してきた。
しかし、最近は老眼がすすんで、新聞を読むのにも苦労する。
安物でもいいから、もうひとつ買おうということになった。
今日訪れたのは、価格破壊を看板にしている店である。
「予算は一万円よ。これならふたつ買える値段だわ」
「とりあえずひとつでいいんだ」
「無理にとはいわないわ。あなたの好きにすればいい」
「ちょっと目が変なんだ。ちょっとそれ、かけてみてくれ」
「度数は」
「だいたい早苗と同じくらいだ」
早苗は鏡の前で立ち姿を映している。
「素敵じゃないの。どこがおかしいの」
「ちょっとあの人を見てくれるかい」
一夫は、応対に出た男をゆびさした。
店の隅でほかの客と話している。
「あなた、失礼よ」
「あ、うん」
「見たわよ。それで」
ふり向いて、一夫を見た。
「ちょっと眼鏡をはずして。もう一度、裸眼で見てくれるかい」
「おかしなこと、いうのね。あたしが検査されてるみたいだわ」
早苗は苦い表情で、いわれた通りにした。
「どうだい。何か変じゃないか」
「別に。何も代わりはないわ」
「ほんとかい」
「ほんと。変なのは、あなたじゃないの」
ピシッと言われてしまった。
話題の男性店員が、にこにこしながら近づいてきた。
「いろいろ取り揃えておりますので。奥さまもご入り用の際は、どうぞ」
丁寧に頭をさげた。
早苗は表情をくずすと、
「そうね、考えておきます」と応じた。
一夫が割って入った。
「これがいいんだ。包まなくてもいいですから」
「ありがとうございます」
代金を支払うと、一夫は店内で眼鏡をかけた。
胸がどきどきする。
ああ、やはりと言うべきか。
あの美人が、男のわきでほほ笑んでいた。
男が女性の方を向いて、何事かを耳打ちしている。
なんでっ。どういうこと。
一夫は、危うく大声をだしそうになった。
確かめようと、一夫は急いで眼鏡をはずした。
思ったとおり、男がいるだけだった。
こんな所に長居は無用と思い、早苗の手をとった。
「あら、どうしたの。めずらしい」
早苗は嬉しそうだ。
ドアが自動で開いた。
「ありがとうございました」
男がドアの内側で礼をいった。
一夫が外に出てからも、女はついてくる。
ピンク色のワンピースを着ている。
一体この女は、何者なんだろう。
左には早苗がいる。
一夫は足早になっている。
女は小走りになった。
一夫の右腕に自分の左腕をからめると、にっと笑った。
もうすぐ車に乗り込むんだからと、一夫は思った。
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