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一夫は目をいじりたくなった。
「ちょっと待って」
男にたのみ、席をはずした。
洗面所に向かう。
鏡を見ると、いつもの顔だった。
注意して、目のあたりを見る。
ぷるぷると時々震えた。
さっきの雷様のせいだな、と思った。
蛇口をひねり、顔を何度も洗った。
一夫は機械が苦手だ。
苦手というより、機械を信じないと言った方がいいかも知れない。
文明の利器には違いないし、とても役に立つ。
ロボット工学の発達などは、目をみはるものがある。
だけどもさ、人間様にはかなわないだろ。
魂があるんだぞ。お前たちにはあるか。
万事、そんな調子であった。
この機械だって、目の弱り具合を検査してくれるのだから、有難いものには違いない。
しかし、いかに優秀だといっても、最後に判断するのは人だ。
何を偉そうに、と検査を受けながら、そんなことを考えている。
「お客様、この機械には魂がこもっているんですのよ」
女の声がかすかに聞こえたような気がした。
「ええ、何。今なんていった」
一夫は遠慮がちに男に問いただした。
男は黙ったまま、機械を操作している。
ちくしょう、無視しやがって。
なかなかオーケーの声があがらない。
いらいらして、一夫は機械から目を離した。
背伸びをして、男をじっと見た。
腕組みをしたまま貧乏ゆすりをしている。
若いくせに何だといいたくなり、あわてて口をおさえた。
「どうしたんですか。待ってるんですけど」
一夫は腹が立って来た。
「申し上げにくいんですが・・・・・・」
「何ですか」
男は右手で自分の目をゆびさした。
一夫は、はっとした。
眼鏡をかけたままで検査に応じていたからである。
最近、どうもポカが多い。
物をよく置き忘れる。
さっき、そこに置いたじゃないの。ボケが始まったんじゃないの。
ボケたって、わたし、世話しないから。
妻に指摘されることがたびたびである。
一夫は五十五歳。早苗は来年五十の大台にのる。
自慢の黒髪にも白い物が混じってきている。
今流行のアンチエイジングにご執心だ。
ここへ置くよ、ってね。脳に言いきかせるの。
早苗がすました顔をしてたたみかける。
どうにも頭があがらない。
妻というより、女性に対してなのかもしれない。
ママゴト遊びの時代からのような気がした。
「すみません、お願いします」
一夫は眼鏡をはずすと、機械に寄り添うように顔を突きだした。
長くて、居眠りしたくなってきた。
こっくりこっくり舟をこぎはじめる。
夕べは遅くまで友達と飲み歩いた。
定年まであと二年。
働いていられるのも、いましばらくである。
いろいろ金がかかるだろうが、一週間に一度くらい気晴らしがしたいじゃねえか。
それが、一夫の言い分であった。
遠くで読経が聞こえた気がした。
おかしいな。俺は今、眼鏡屋にいるんじゃないか。
うっすらと目を開けた。
検査をしている男がぶつぶつ言っている。
男の声だからきれいじゃないが、耳ざわりではない。
岩にしみ入るセミの声、といった俳人がいたが、ちょうどそんな具合だった。
一夫の脳にしみ入って来る。
「眠らないでください」
怒ったように男がうながした。
うるせえ、おめえがわるいんじゃねえか。お経みたいに独り言をいいやがって。
目を開けたり閉めたりしているうちに、検査が終わった。
「はい、終わりました。お疲れさまでした。しばらくお待ちくださいね」
子供をさとすような調子で、男がいった。
コケにされている気がして、一夫は黙って立ちあがった。
早苗の姿を目でさがしたが、見あたらない。
待合室に入った。
女がふたり、すわって週刊誌を読んでいる。
早苗は、トイレにでも行ったのだろう。
一夫はそう思い、店内をうろつきながら、名前を呼ばれるのを待った。
「青木様、青木一夫様」
さっきの男の声が響いた。
男に従って、眼鏡を物色しはじめた。
老後のことを考えれば、それほど高価な物は買えない。
特価品のケースから、ひとつ手にとってかけた。
男がにやにやしている。
ちぇ、客を値踏みしやがって。どこまでも嫌みな奴だ、と気分が悪くなった。
男のわきに、女が立っている。
すらりとした美人だった。
一夫はえっと驚いて、眼鏡をはずした。
男がいるだけで、他には誰もいなかった。
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駐車場の白い枠に車を入れると同時に、稲妻が光った。
バシッとむち打たれた感じがして、ハンドルを持つ青木の手がしびれた。
透明なはずの空気が、青白く染まっている。
助手席にいた妻の早苗が、両手で耳をおさえた。
「だいじょうぶか」
早苗は夫の呼びかけにも返事をしない。
上体を折り曲げるようにして、うずくまっている。
両肩をふるわせていた。
青木一夫は口を閉じ鼻をつまんで、息を吐き出すようにした。
耳がわあんと鳴っている。
とても聞こえにくい。
何度もくり返すと、耳がとおった。
目もおかしい。
目をつぶり、手でおさえたりもんだりした。
一夫はドアを開けると、車の前にまわり、
重いドアを、両手で開けようとしている早苗を手伝った。
「びっくりしたよな。何でもないか」
「なんとかだいじょうぶみたい」
外に出ると、早苗は長く伸ばした髪を両手でなでつけた。
「うちのランクル、動くかしら」
そばにあった電信柱の頂上付近から、煙がでている。
「直接落ちなくて、良かった」
一夫は顔に安堵の色を浮かべた。
「買ったばかりだものね」
早苗はそういって、右手を胸にあてた。
街路樹がざわめいている。
空をおおっていた黒雲がひいていくと、夕陽が差しこみはじめた。
「まあ、きれいな夕陽」
早苗が感嘆の声をあげた。
一夫がぐっと右足に力を入れると、ドアが両側に開いた。
「いらっしゃいませ」の声が、店内で響いた。
声が聞き取りにくい。
雷の影響が残っているようだ、と一夫は思った。
ドアのそばで、紺の背広を着た若い男が笑顔で迎えた。
「いやあ、すごい雷だったね」
男はそういわれても、キョトンとした顔をしている。
「かみなり、ですか」
「そうさ、聞こえなかったかい」
「ぜんぜん」
変な野郎だな、と一夫は思う。
あれだけの大きな音だ。
いくら店の中にいたって、少しは聞こえたはずだ。
「初めてのお客様ですか」
無理に作り笑いを浮かべると、男はいった。
「そうだが、おりこみのチラシを見て、来たんだ」
「では、どうぞこちらへ」
手招きされて、奥へと進む。
早苗は、ショーケースを眺めている。
色とりどりの眼鏡がならんでいる。
「おれ、向こうにいるからな」
一夫が呼びかけると、
「ええ」と、軽く頭をさげた。
機械の前に、一夫がドンと音を立ててすわった。
「ううん」
機械を操作していた男がせき払いをした。
「すみません。もう少し前に、お願いします」
一夫は上体を前に倒すようにした。
両の目でレンズをのぞきこむと、目のふちがチクチクする。
小刻みに震えはじめた。
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すりガラスの向こうに、孝子の裸体が映った。
ドアが真ん中で折れ曲がって、内側に開いた。
康夫は、タオルで前を隠している。
両目を閉じて、中に入った。
孝子が、康夫の右手をつかんだ。
「何やってるの」
「うん、べつに」
「目を閉じてたら、あぶないやろ」
康夫は、だまっている。
「そこへ、すわり」
低い腰かけをゆびさした。
「どっこいしょ」
タオルを太ももにかけたまま、康夫はすわりこんだ。
なんとなく気恥ずかしい。
裸を見せあうのは、久しぶりだった。
会社に行かなくなってから、夫婦仲がしっくり行かない。
悪い、と言えるほどではない。
孝子が、あまり口をきかなくなったのだ。
色んなローンを組んでいて、毎月の支払を迫られていた。
康夫には、一年間は失業保険の金がおりる。
その金がなくなってからは、毎日のようにハローワークに通った。
しかし、満足する仕事は、なかなか見つからない。
金、金、金。
なんとかして、金をつくろう。
康夫は思い悩んだ。
孝子は以前から、煎餅屋の仕事をパートでしている。
もうひとつ見つけた。
ソロバン塾の先生だった。
女房にすまない。
それが康夫の本心だ。
だが、素直にそれを表せない。
出て来るのは、孝子には辛い言葉ばかりだった。
康夫は、うつむいたままでいる。
「ちょっとじっとしてて」
孝子が、康夫の背中を洗いはじめた。
ぎょっとして、康夫の体が動く。
両肩がさがった。
熱い物が、のど元におしよせて来る。
ぐっと歯をくいしばって、感情的になるのをこらえた。
康夫には、古風なところがあった。
女房に、涙は見せたくないのだ。
「前は、自分で洗って」
孝子の声が、とても新鮮に聞こえた。
「あたしは、先にでるから」
カチャリとドアが閉まる。
若い頃は、風呂場で抱き合ったことがある。
あれから二十年近い歳月が流れた。
孝子も四十代だ。二十代の肉体は失われた。
老いて行く肉体を見せたくないのだろう。
孝子の心中を思いやった。
康夫が立ちあがった。
カラン。
腰かけが転がり、浴室に音が響いた。
なぜそうするのか、自分でもよくわからない。
素っ裸のままである。
どんよりしたまなざしで、ドアを開けた。
「あっ」
脱衣場にいる孝子が、声をあげた。
孝子の体を、ぎゅっと抱きしめた。
「あ、あんた、苦しい」
康夫は、孝子を放さない。
ふたりして、その場に倒れこんだ。
もしかして、・・・・・・。
孝子は、体の力をぬいた。
康夫はしゃにむに動いた。
重くてしょうがなかったが、孝子は我慢した。
康夫の長い愛撫がつづいた。
急に動かなくなった。
「あんた」
心配になって、声をかけた。
ゴホン、ゴホン。
康夫がせきをした。
孝子の肩先に、黒い霧状のものが見えた。
少し開いた脱衣場の窓に向かって、あがって行く。
あいつだ。
出て、行く・・・・・・。
孝子は涙があふれて、止まらない。
了
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孝子は、眠ってはいなかった。
目を完全に閉じてはいるが、意識は、はっきりしている。
何ものかの気配も、しっかり受けとめていた。
空気がざわざわしていた。
やはり、康夫だ。
でも、違う。本人ではない。
孝子は、じっとして動かない。
あいつに悟られたら、正体が突き止められない気がした。
ふわっと、風が顔にかかった。
どきりとする。
危うく体が動きそうになった。
あいつがのぞいたんだ。
孝子は、頭がさえていた。
襖が開いて、部屋の空気が外にでて行く。
これで、あいつはしばらく戻らない。
孝子は目を開けた。
康夫は眠っていた。
肩を揺すったが、まったく応えない。
物のように、横たわっていた。
ためしに、お腹をさわってみる。
ええっと、声が出そうになった。
でっぱってないのだ。
この事態をどう考えたらいいのだろう。
孝子は横たわったままで、思案にくれた。
康夫の不満が、あんな形をとって現われたのだろうか。
ストレスが高じて、食べすぎたり、食べ物をはねつけたりする。
ひどい場合は、病気にだってなるのだ。
康夫の場合は、まったくわけがわからない。
あいつめ。いったいぜんたい、何だっていうんだ。
よし、それなら康夫を満足させてやることにしよう。
どうなることか、わからないが・・・・・・。
その晩。
息子が一番風呂だった。
パジャマに着がえると、早々と二階に消えた。
康夫と孝子は、茶の間でテレビを見ている。
電気こたつに足をいれ、向かい合わせだ。
プロ野球が開幕していた。
午後九時をまわっている。
巨人対ヤクルト。
2対2で、試合が白熱していた。
九回の表、巨人の攻撃だ。
ランナーは、一塁とニ塁にいる。
康夫は夢中だった。
「いっしょにお風呂に入ろうか」
孝子は、改まった口ぶりで言った。
「えっ、何」
聞こえなかったのか、康夫は手を耳にかざした。
「風呂に入りましょう、仲良く」
恥ずかしそうに誘った。
康夫は起き上がって靖子を見た。
目を丸くしている。
「そんなに驚くことあらへんやろ、夫婦やもん」
「そら、そうやけど」
「いやなんか」
急に、語気が強くなった。
康夫は頭を横にふった。
「俺、これ見とるんや。お前、先に入ってくれるか」
「ほなら、そうするわ」
阿部が打った。
フライを大きくあげた。
「のびろ、のびろ」
画面の中で、センターを守っている選手がボールを追いかけて行く。
フェンスの内側に飛びこんだ。
「よし、これで決まりや」
康夫が立ちあがった。
さてと、どうするか。なんか、気色わるいな。
断ったら、えらい怒るやろし。しゃない。
康夫は、浴室に向かった。
身に付けている物をすべて取り去ったものの、
ドアの前で、康夫はためらっている。
「どうぞ」
孝子の若やいだ声が聞こえた。
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山が近い。
狐か狸か知らんけど、きっとシッポをだす。
そう考えて、孝子は頬がゆるんだ。
おかしいわ。こんなこと。
あたしも変わった。年のせいかしら。
今じゃ、わけのわからんことも、ひょっとしたらと思う。
若い頃、そう、高校生の時分だった。
「私、変なもん見たんや」
クラスの友達が言った。
「何やの、おしえて」
「隣のおばちゃんが、亡くなったばっかりやったけどな」
「うん、それで」
「私が夜中に散歩しとったらな」
「うんうん」
「玄関先から尾をひいた火のたま見たいのが、ふわふわ飛び出して来てな」
「おお、こわ」
「二、三メートル宙をさまよったかと思うと、すっと消えてしもた」
孝子は、わははと笑った。
「そんなもん、何かと見間違ったんや」
「ほんまやで、ほんまに見たんや」
「あんたがお化けがでるかも、と思ってたからや」
「信じられへんかったら、別にええけど」
「正体は、大きな電球やったんとちがうか」
そういう調子だった。
その日の夜。
孝子は眠らないことにした。
午前二時を過ぎだろうか。
康夫の体が動いた。
むくりと、上体を起こした。
不自然なことは何もない。
ふらつきながら、歩いて行く。
ゴツン。
脚をベッドにぶつけた。
「いてっ」
半ば眠っているのだろうが、声はでる。
襖をあけ、廊下にでた。
スリッパの音が遠ざかって行く。
台所で水の音がした。
一、二分たった。
孝子の頭の先で、人の気配がした。
ベッドのわきに立つと、康夫はすぐに布団に入った。
ぷっと音がした。
孝子は笑いをこらえた。
眠くてしょうがないが、決めたことだ。
昼間あった出来事を思い浮かべて、孝子は眠気をこらえた。
一時間たった。
午前三時。
丑三つ時が近づいていた。
孝子が静かになった。
康夫の頭が、くるりと横を向いた。
ぱっちりと目が開いたが、すぐに閉じられた。
孝子の顔を見たようだ。
また、頭が動いて、今度は反対側を向けた。
大きく口を開く。
動作が機敏だ。
寝ぼけているのではない。
頬がぴくぴくしはじめ、次第にふくらみはじめた。
何かが外にでてくる。
開いた口の奥に、黒い物が見えた。
のどの粘膜が押しつぶされそうになる。
それほど固い物ではない。
ゼリーのように、自在に形を変える。
ぼこんと音を立て、口から出た。
康夫の掛け布団の上を、ゴムまりのように転がっていく。
床に落ちた。
だが、物音がしない。
立ちあがってくる。
人の形をしたものが、ゆらゆら揺れていた。
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