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ぷっ。
孝子は、我知らずにふきだしてしまった。
「なんやの、そのおなかは」
「これか、ほら」
康夫は、フラフープで遊ぶように、腰をぐるぐるまわす。
ぜい肉がそのたびにゆれた。
「あほなことばっかり」
「こうでもせんとな。気がまぎれんわ」
孝子は、このところ奇妙なことばかり目にしてきた。
いささかストレスがたまっている。
ちょっとでも気にさわったら、康夫に八つ当たりしたいところだ。
危ういところで、康夫のひょうきんな性格に助けられた。
「どれ、ちょっとさわらせて」
孝子は右手でたるんだ肉をつかみ、しごいてみた。
「いてえなあ、奥さん。やめてよ」
「なんや、その言い方は」
孝子は康夫の尻をパンとはたいた。
「ほんまわな、つらいんや」
情けない声をだして、床にすわりこんでしまった。
「ふつうに食べてたら、そんなになるわけないな」
孝子は、康夫の顔をじろっと見た。
康夫は、右手を左右にふって、
「お前に隠しとることなんて、何にもあらへん」
「そうやろか」
孝子は、なかなか承知しない。
「第一、金はみんな、お前がもっとるやろ」
「そらまあ、そうや」
「うまいもの食べたくても、行けへん」
孝子もすわりこんで、康夫の話に耳を傾けている。
康夫の健康が気がかりなのだ。
太り過ぎは、ろくなことにはならない。
「夜中に食べてるってこと、ないしな」
孝子は、たたみかける。
「たまに、水飲むくらいやしな」
「うん。知ってる」
孝子は、あのことを言おうと思ったが、やめた。
あいつが毎晩出没していた。
黒い人影。
冷蔵庫のなかを物色していた。
だけど、康夫にはアリバイがある。
同時刻に孝子と一緒にいるのだ。
人間じゃない。
それとは別のものだ。
黒いゴムまりみたいで、押せばふわりと飛んでしまうようだ。
それでも手足は付いていて、意思がある。
勝手に動く。
顔には、口らしき穴がある。
食べ物を手でつかんでは、ぐちゃぐちゃかむ。
いくらでも食べられそうだった。
孝子は、よく観察していた。
「心当たりは、ないのんか」
「そんなもの、全然あらへん」
孝子は、康夫の体をそっと抱いた。
頬を寄せる。
「なんや、お前、急に」
「あほっ、誤解しなや。はよ、お腹、しまい」
はだけたシャツを、ベルトの中にねじこんだ。
孝子が両手でパンと鳴らした
「よっしゃ、あたしが用心してたる。食べてるとしたら、いつなんか」
「頼むわ。自分じゃ、まったくわからへんのや」
従順な口ぶりとは裏腹に、康夫の目が怪しげに光った。
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夫ではない。
息子でもないとしたら、一体。
体がぶるぶるっと動き、くちびるがわなわなと震える。
孝子は腰がぬけたように、廊下にすわりこんだ。
両手で耳をおおう。
物音が、あいつに聞こえたかも知れない。
孝子は思わず目をつむった。
お化け。
まさか、今時。こんなご時世に。
孝子は高校を出ただけだが、理系は強い。
科学で割り切れないことなど、この世には存在しない。
かたくなに、そう思っている。
しばらくじっとしていた。
誰かが出て来る気配はない。
物音もしなくなった。
勇気を奮いおこして、もう一度台所をのぞいた。
しんとしている。
冷蔵庫の前には誰もいなかった。
カサカサ。カサカサ。
ゴキブリが這いまわる音が聞こえる。
ドアを開け、スイッチを押した。
すべてが照らしだされた。
夕べと変わったところは・・・・・・。
テーブルの上にグラスがひとつある。
夫の使ったものだろう。
飲み残しの水が入っていた。
朝が来た。
孝子は六時に起きて、台所仕事をはじめた。
和也が二階から降りてきた。
玄関を開け、ガレージに向かう。
シャッターを開けてから、玄関にもどった。
郵便受けに入っている新聞を抜き取り、台所のテーブルに置く。
どこかいい加減なところのある夫とは、ずいぶん性格が違う。
とても几帳面だ。
亡くなった祖父にそっくりだ、と孝子は父をしのぶ。
「和也、夕べ台所にいたかい」
おそるおそる訊ねた。
「うううん、寝てたで。いっぺん寝たら起きへんもの」
そんな夜が一週間続いた。
二日目は、またか、と思った。
どうせ、台所には誰もいないんだ。
三日目から、孝子は大して気にしなくなった。
気になることが、ひとつだけあった。
康夫のお腹がふくらんで来ている。
湯上りの裸を見るたびに、そう感じた。
思い切って、朝食時に訊ねた。
「ちょっとあんた、この頃、おなか出て来てへん」
康夫は椅子から立ち上がると、
「どうれ」
上着をめくりはじめた。
窮屈な衣服が取り除かれると、康夫のおなかは、
うれしそうに、ぽこんと飛び出した。
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物音で、孝子は目がさめた。
パタパタ、パタパタ。
壁をへだてた台所から聞こえて来るようだ。
誰かが、スリッパで歩きまわっている。
寝室の灯りは、ほの暗い。
目を細めて見ると、午前二時を少しまわっていた。
寝室のドアが少し開いている。
音が大きく聞こえるのは、そのせいだった。
わきを見ると、掛け布団がめくれあがっている。
夫の姿がない。
水でも飲みに行ったんだろう。
孝子はそう思い、無理に両目を閉じた。
四十歳半ばである。
昼間、めいっぱい働いている。
パートだ、アルバイトだと忙しい。
夫は最近、二十年勤めた会社をリストラされた。
世の中にすねたような生活を送っている。
夫と子供、三人暮らしだが、女は孝子ひとり。
二十年間一日も欠かさずに、おさんどんを続けている。
息子は、仕事の都合で帰宅が遅い。
夕べも十二時ちょっと前だった。
帰って来るまで、孝子は茶の間で横になっている。
電気こたつに下半身を入れ、テレビを見ているうちに寝てしまう。
子供の頃の延長で、和也は「おかえり」と言ってもらいたいのだ。
もうちょっと静かにしてくれたら、ええのに。気のきかん人や。
自分は、何もすることがないからええやろけど。
孝子はそう考えて、ちょっと腹が立ってきた。
ドアが大きく開いて、康夫が顔をのぞかせた。
にやりと白い歯を見せた。
「もうちょっと静かにしてや」
孝子の語気が荒い。
康夫は、何も言わずにうなずいた。
ベッドに横になると、孝子に近づいた。
体を押しつけてくる。
両手を伸ばして、胸をいじりはじめた。
「あほ、何時やて思ってるんや」
強くこばんだ。
「ええやないか」
康夫はあきらめないで、のしかかろうとする。
「エネルギーがありあまってるんやろ」
孝子は、康夫の体を押しのけた。
「また、それをいう」
「あかん。あした私、早いねんで。おさんどん。代わってくれるか」
「もうしばらくやってへんやろ」
康夫の声が小さくなった。
「いつまでも、若いこと言ってる。子供作ったんやしな」
「なんや、おれ、もう用なしか」
康夫は動きをとめた。
体をごろんところがし、あああっと言った。
孝子は、寝そがれてしまった。
一匹、二匹と羊を数えるが、なかなか眠れない。
どのくらい眠っただろう。
孝子は、また、物音で目が覚めた。
くそっ。何度言ったら。
わきを見ると、康夫は顔だけ出して眠っている。
おかしいな。和也は、夜中にめったに起きて来ないはずだし。
忍び足で、台所に向かう。
真っ暗だった。
ドアの隙間からのぞく。
黒々とした物が、冷蔵庫の前でしゃがんでいた。
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時間が来たと、ランは散歩をせがんだ。
正夫は上がり口で、首輪にチェーンをつける。
いつものことだが、顔をぺろぺろなめられる。
ざりざりした肌触りにうんざりした。
一日ずっと家の中にいるのは、犬だってあきれてしまう。
さてと、あきなちゃんは・・・・・・。
きっと、あの女の人が警察に話してくれたんだ。
もう心配はいらない。
そっとしておいてあげるのが、礼儀というものだ。
午後五時をまわったばかりだ。
公園は明るい。
砂場をのぞく。
子供がふたり、向かい合わせにしゃがんでいた。
ひとりは、あきなちゃんだ。
もうひとりは、男の子。
遊び相手がいるんだ。
正夫はうれしくなった。
「ほら、こうやるのよ」
「うん、おねえちゃん」
ぎこちない動作だが、あきなの言いつけに忠実にしたがおうとする。
どうしたわけか、男の子の顔が暗い。
「あきなちゃん」
正夫が声をかけた。
あきなが顔を横に向けた。
笑ってくれる。
正夫はそう期待した。
ところが、そうではなかった。
ふいに目をつぶると、ぶつぶつ言いはじめた。
立ち上がると、目を開け、正夫をにらみつけた。
右手に持ったコテをふりまわしながら、無言で向かってきた。
「どうしたの、おじちゃんだよ」
返事をしない。
まるで何かにあやつられているかのようだ。
男の子は近くの枝をひろうと、振り回しはじめた。
ウウウッ、ワンワン。
ランが異常に気づいてほえはじめた。
あきなの顔のソウが変わっている。
このところ、彼女を取り巻く環境が激変した。
無理もない。
虫の居所がわるいのだろう。
ここはとりあえず退散しよう、と思った。
他人の目がある。
大人が悪さをしたとしか思わない。
きっと、何か、勘違いをしているに違いなかった。
公園の外にでた。
大川の土手を歩いて行く。
先日降った大雨で、水かさが増している。
河原のゲートボール場がどこにあるのかわからなかった。
あきなが追ってきた。
男の子がつづく。
正夫は夢の続きを見ているような気持になった。
意志につまずいて転んだ。
あきなが正夫の体にのしかかる。
男の子が、何度も、ランを枝でたたいた。
キュン。キャン。
ランはチェーンをひきずったまま、走り去って行く。
畜生め。
肝心な時に役に立たない。
正夫は、心の中でののしった。
異様な力だった。
幼い子なのに。
一体どうしたわけだろう。
正夫は土手を転がり落ちて行く。
ザブン。
川に落ちた。
かろうじて、葦をつかんだ。
あきなは男の子の枝をひったくると、正夫の手をたたきはじめた。
ふふっと笑みを浮かべる。
ヴェランダから落ちた男を想った。
最後の時に、どんなあきなを見ただろう。
タバコの火を、あきなの手の甲に押しつけたり、頬をつねったりした。
それにしても、これは・・・・・・。
どうしても、幼子の仕業と思えない。
まるで悪魔だ。
殺されたんだ。あの男は。
下半身を濁流にもまれながら、正夫は思った。
了
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正夫は、書斎の机のわきで、あおむけに寝転がっている。
読みかけの週刊誌を、顔にかぶせてある。
脳裏にあきなの顔が浮かんだ。
今頃、どうしているんだか。
母親とは、切り離されているんだろう。
身寄りがないようだしな。
施設に入れられているんだろうな。
寂しくてたまらないだろう。
わんわん泣いているだろう。
正夫は、だろう、を何度もくり返した。
自分にも孫がふたりいる。
次女の和江の娘は、三歳になったばかりだ。
幼稚園に入れてもらえる、パートの仕事ができる、と和江は喜んだ。
正夫は、まだ可愛そうじゃないか、お前が離れちゃ、と反対した。
三、四歳じゃなあ。
何が何だか、わけがわからんだろう。
そう思うと、目がしらが熱くなった。
涙が頬をつたった。
あきなの母ちゃん。
早く出て来れたら、いいのになあ。
そのうち、正夫は眠ってしまった。
男が公園の中を走っている。
この男は俺だな、と正夫は思う。
小さな女の子がいっしょだ。
どうしたわけだろう。
犬たちが、立ったり寝そべったしながら、ふたりを眺めている。
女の子の顔を見ようとするのだが、横を向いている。
「こっち向いて、おじさんに、顔を見せて」
やさしく語りかける。
彼女は、小さく首を振るばかりだ。
男がスピードをあげた。
彼女も負けてはいない。
足の動きがはやくなった。
あんなに小さいのに。
どうして、大人の足に追いつけるんだろう。
男はとても不思議だった。
何周したろう。
足の筋肉がかたくなってきた。
男は疲れて、すわりこんだ。
女の子も近くにすわった。
背中を見せている。
今だ、とばかりに、男はそっと立ち上がると、彼女の顔をのぞきこもうとした。
気配を感じて、わっと叫んだ。
小さな体をふるわせる。
両足の間に、頭をはさんだ。
「どうして、顔を見せてくれないの」
返事をしない。
「見せてよ。お願いだから」
顔をあげない。
「頼むよ」
男は無理にでも顔を見たいが、あえて腕力をつかわない。
嫌われたくないからだ。
「お願いします」
ふいに彼女は笑いだした。
とうとう顔をあげた。
のっぺりした顔だった。
目も鼻もなかった。
思わず、男は後ろにひっくりかえった。
ひいひい言って、四つん這いで逃げて行く。
女の子は男の背にまたがった。
小さな手が、男の首をしめはじめた。
「あんた、あんた」
正夫の肩を、幸子がゆすぶった。
仕事から帰ったばかりだ。
「うん、なんだ」
キョトンとして、あたりを見まわす。
「何だじゃないじゃないの、そんなところで眠って。泣き声を出してたわよ」
正夫は急に立ち上がろうとして、ふらついた。
「ほら、気をつけて、もう若くはないのよ」
正夫はその場にしゃがんだ。
「働き口がないのはしょうがないわ、このご時世だから。でも、病気にだけはならないでね」
妻は、いつもひと言多い。
正夫は気がみじかい。
怒りたくなったが、こらえた。
「ああ、そうだ。あの女の人。帰ってきたって」
「だれっ」
「警察に連れて行かれた人」
「かっ、かわしまさん」
「そう」
「よっしっ」
正夫は両手でこぶしを作って、立ちあがった。
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