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花もぐり その5

 一週間たった。
 正夫は夕方になると、公園に出かけていた。
 砂場にあきなの姿を求めるが、むだだった。
 今は、桜の花は散り、若葉がふきだしている。
 赤や黄のチュ―リップが開きはじめた。
 思いきって、あきなのマンションを訪ねることにした。
 六階まであがる。
 川島の表札のかかったドアをトントンたたいた。
 応答がない。
 カチャカチャとノブをまわすが、開かない。
 「そこの人。帰ってませんよ」
 ふいにとなりのドアが開き、すき間から女の声がした。
 暗くてよく見えないが、年輩のようだ。
 「どうも」
 正夫は一礼すると、そばに寄って、
 「この近くに住んでいる、鈴木という者です。子供の見守り隊の一員なんです」
 と、真面目な口ぶりで言った。
 「はあ、それで」
 「ここの女の子と仲良しになりましてね」
 女は手招きした。 
 正夫がそばに寄ると、
 「私も、あの子のことが心配なんです」
 低い声で言った。
 「ほんとですよね」
 女はちょっと間をおいてから、
 「実は・・・・・・」
 「実は、どうしたんですか」
 女はドアを広く開け、正夫を上がり口に招いた。
 ドアが閉まった。
 「何か、見たんですか」と、正夫の語気が強くなった。
 女はテーブルわきの椅子にすわると、
 「そうなんですよ」と応えて、右手の人差指で頭をかいた。
 「それで、一体何をごらんになりました」
 正夫は、なんとか訊きだそうとした。
 「まあ、おあがりになって」
 女は、向かいの椅子を引いてから、急須に湯をそそいだ。
 新しい茶碗を取りだした。
 「あっ、大丈夫です。気をつかわないでください」
 
 正夫は目を細めて、茶を飲みほした。
 「ごちそうさま。おいしかったです」 
 「あの日、男は自力でヴェランダを乗り越えたんですよ」
 女がぽつりと言った。
 「えっ。見てたんですか」
 女は、こくりと首をふった。
 「ほら、小さい時、高い所によじ登るのに、両腕をこうやって」
 女は実演して見せた。
 「ええ、わかります」
 「寒くなりそうなんで、ヴェランダの観葉植物を部屋に取りこもうとしたんです。そしたら」
 「男が部屋から出て来たんですか」
 「ええ。なんだかよろめきながら。大声でわめいていました」
 「何て言ってました」
 「そんなんじゃ俺はもう、とかなんとか。よじ登った後は、狭い所でしばらく体を動かしていました」
 「それで、落ちたんですか」
 「はい。必死でヴェランダの角をつかんでいたようでしたが、とうとう」
 「誰も助けようとはしなかったんですか」
 「女の人が出て来て、男の腕をつかんだようでしたが・・・・・」
 女はそう言うと、がくりと肩をおとした。
 「奥さん、そのことは、もう警察に」
 「いいえ、まだなんです」
 激しく首をふった。
 その時のことを思いだしたのか、女が興奮した。
 正夫は、女の背後にまわり、肩に両手をおいた。
 「お願いしますよ、奥さん」
 穏やかに、たのんだ。
 「面倒なんで。何かと。関わり合いになりたくなかったものですから」
 正直に話した。
 「そりゃそうでしょうけど。あきなちゃんのために。どうぞ」
 正夫の目が赤い。
 涙でうるんでいた。
 
 

花もぐり その4

 翌朝早く、サイレンの音が聞こえた。
 下の通りをパトカーが走っている。
 人の声が騒がしい。
 「あなた、何かしら。こんなに早く」
 日曜日。
 午前六時を少し過ぎたところだ。
 鏡に向かっていた妻の幸子が、ふいに声をあげた。
 ウウウッ。
 もう一台来た。
 道の突きあたりは、土手になっている。
 その先は大川が流れていた。
 「ほんとにすぐそこだ。人騒がせなことだな。まったく」
 正夫は、布団の中で文句を言うだけだ。
 なかなか起き上がろうとはしない。
 年のせいか身体の無理が、あとまで尾をひくようになった。
 「この団地で何かあったんだわ」
 幸子は落ち着いて、椅子にすわっていられない。
 口紅をひき損じて、頬に赤い線を引いてしまった。
 思わず、ふふと笑った。
 「あんた、ちょっと見て来てよ。知り合いがいるし」
 幸子は、パートにでている。
 月曜日が定休である。
 休みたいときは、ほかの人に代わってもらうように、
自分で段取りをつけなくてはならない。
 犬や猫の世話を焼く仕事だ。
 そんなことがよく商売になるな、と正夫は理解に苦しむ。
 俺の田舎じゃ、犬猫のことなど、ほったらかしだった。
 あら、それは昔のことでしょ。
 今は、身のまわりのことを、何だって気をつけてやるものよ。
 妻にそう切りかえされても、正夫は合点がいかない。
 さびしい人が多くなったんだな、と思う。
 
 幸子は、今日、店を休んだ。
 友達と花見に出かけるらしい。
 しぶしぶといった様子で、正夫は布団の上で着がえをはじめた。
 「早くして。あたし、時間がないのよ」
 のろまったげな正夫を叱る。
 「うるせえな。そんなら、自分が行けばいいだろ」
 最近、正夫は怒りっぽくなった。
 老化現象ね、と幸子は笑う。
 階段をゆっくり降りた。
 玄関口で、となりの山本さんに出逢った。
 走ってきたのか、呼吸があらい。
 目を丸くしている。
 大きく口を開けて、
 「人がヴェランダから落ちたんだ」
 訊きもしないのに、大声で言った。
 つばが正夫の頬にかかった。
 「どんな人。死んだの」
 「そうだ。若いやつ」
 くちぎたなく言った。
 「母子ふたりの部屋に、出入りしていたらしい」
 口の端をまげて、親指を立てた。
 「これみたいだぜ。近くの人の話だけどな」
 「へえ。どうしてヴェランダから」
 正夫が訊ねると、
 「その先のことは、わからん」
 勢い込んだままで、駆け足で階段を上がって行った。
 黄色いテープが貼られていた。
 制服姿の警官がふたり立っている。
 「いやですわね」
 となりに立っている知り合いの岡村さんが、声をひそめて言った。
 「詳しいこと知ってますか」
 正夫が訊ねると、
 「まだ何も分かってないらしいですよ。酔っぱらって誤まって落ちたんだか。
誰かに落とされたんだか。女の人が口を閉ざしたままなんですって。
となりの部屋の人が、夜遅く物音を聞いたようですけど」
 首をひねったままで、応えた。
 「人ひとり死んだのに、ですか」
 正夫の声が大きくなった。
 「部屋は母子二人暮らし。そこへたまに男が入りこんでいた。
抱きあうのに邪魔だと、幼い娘をヴェランダの外に追いやって・・・・・・。
近所の人の憶測ですけどね」
 正夫は、そこまで聞いて、あきなのことを思い浮かべた。
 階段の踊り場に母子連れの姿が見えた。
 捜査員がわきをかためる。
 女の腕には、手錠がかけられていない。
 正夫は、長いため息をついた。
 女の右腕が、あきなの肩に置かれていた。
 警官がテープを上げた。
 正夫は身をのりだした。
 あきなが、気づいて顔をあげ、
 おじちゃん、と声をださずに言った。
 
 
 
 
 

花もぐり その3 

 次の日も、女の子は公園にいた。
 あたりは明るい。
 午後五時を過ぎたばかりだ。
 砂場にしゃがんで、コテで穴を掘っている。
 桜の枝がざわめくたびに、花びらがはらはらと舞う。
 小さな背中に降り積もっていた。
 きのうより、寂しそうに見えた。
 長い髪が風に揺れている。
 しばらく洗ってないのか、汗の匂いがした。
 赤いリボンでもつけてやるといいのに。
 顔を見せない親を想った。
 「こんばんは」
 Mがささやくように声をかけた。
 女の子の肩がびくっと震え、コテを動かす手をとめた。
 首をまわして、
 「わんちゃんは」とたずねた。
 「今日は、おねんねしてるんだよ」
 「ふううん。つまんないの」
 「犬は好きなの」
 「ええ」
 元気よく応えた。
 「そこに何があるのかな」
 女の子はだまっている。
 「おじさん、当ててみようか」
 女の子は立ちあがると、両手をパンパンたたいた。
 にっこり笑った。
 「まずは、っと。おじさんは、正夫って言うんだ。お嬢ちゃんは」
 ちょっとだけ、ためらう様子を見せたが、
 「あきな、かわにしあきな」
 と、大きな口でゆっくりと言った。
 「あきなちゃんだ。いいお名前だね」
 嬉しそうに笑った。
 笑窪がかわいい。
 何気なく右手を見た。
 手の甲に黒い点がある。
 そのまわりが赤くはれている。
 「どうしたの、それ。痛むでしょ」
 大あわてで、小さな手を後ろにまわした。
 「いやっ」と言うと、公園の隅にかけて行った。
 雪柳の下にもぐりこんだ。
 こちらを見ている。
 
 ちょっと知らん顔でいよう。
 Mは、そう思った。
 砂場を両手で掘りはじめた。
 場所がわからず、やたらと穴をつくるばかりだ。
 トントン。
 誰かが背中をたたいた。
 「誰だっ」
 わざと大きい声でいった。
 「はい、これ」
 あきなが、コテを渡した。
 砂場のへりに立ち、右手で指さした。
 左手は、背中にまわしたままだ。
 「ここかい」
 うんと頭をふった。
 左の頬が赤い。
 一体どうしたんだろう。
 心配になった。
 それを察したのか、あきなは左手で頬をおおった。 
 Mはコテをふるう。
 いくら掘っても、何も出て来ない。
 くくくっと、あきなが笑った。
 Mは顔をあげて、
 「どうしたの」とたずねた。
 グウにしたままの左手を、そろっと前にだし、
 「ほらっ」とひらいた。
 百円ライターがにぎられていた。
 
  
 
 
 

花もぐり その2

 目が闇に慣れてきた。
 女の子のようだ。
 三、四歳くらいに見える。
 左手に、移植ごてを持っている。
 Mはその場にしゃがみこむと、
 「どうしたの、今頃まで」
 そっと体を抱くと、優しく語りかけた。
 身体の震えが伝わってくる。
 うっうっと嗚咽をもらしはじめた。
 「よしよし、もう大丈夫だよ」
 団地のどこかに住んでいる子だろう。
 いま時分まで放っておくなんて。
 なんて、親なんだ。
 Mは怒りがこみあげてきた。
 ポンポン。
 女の子がMの頬をかるくたたいた。
 「あげる」
 かすかに、水仙が匂った。
 ランが砂場をほりはじめた。
 砂があたりに飛び散る。
 「ラン、やめろ」
 何かが埋まっているのだろう。
 それを口にくわえると、Mのそばに寄った。
 ポトンと落とした。
 Mはそれを拾い上げると、目に近づけた。
 ぷんとタバコが匂った。
 箱は封が切られていて、一、二本吸っただけだった。
 「これ、知ってる」
 女の子に問いかけたが、首を横に大きくふった。
 ランが女の子にじゃれつき始めた。
 立ち上がると、背丈が同じくらいになる。
 顔をぺろぺろなめた。
 まったくこわがる様子を見せない。
 すわりこんで、ランの体をさすりはじめた。
 
 家で犬を飼っているんだ、とMは思った。
 「ちょっと待ってて」
 藤棚をささえている柱に、チェーンの先を結わえると、Mは大通りにでた。
 通りの向こう側を見た。
 道端に歩道がある。
 そのわきに、銀杏が等間隔に植えられていた。
 並木の向こうに高いビル群が見えた。
 月が出ていないせいで、黒々としている。
 何か大きな生き物が眠りこんでいるように思えた。
 乗用車が一台、ライトをつけて通りすぎて行く。
 Mはじっとしていた。
 停止せずに走り去った。
 結局、誰もいなかった。
 奇妙な話だ、と思う。
 必死の形相で、誰かがあの子を探していたって、いいはずだ。
 そんな場面を期待していたが、あえなく裏切られた。
 藤棚にもどった。
 「ごめんね、遅くなって」
 声をかけたが、返事がない。
 ランのそばに寄った。
 女の子がいない。
 Mは、あわてた。
 急いで、チェーンをはずすと、「ラン、さがせ」と命じた。
 公園の中は真っ暗だ。
 きっと家に向かったに違いない。
 Mはもう一度、大通りにでた。
 百メートル先を、誰かが渡って行くのが見える。
 街灯が小さな人影を照らしだした。
 Mは、ほっとため息をついた。
 銀杏並木に隠れて、見えなくなった。
 
 
 

花もぐり  その1

 団地の中の公園がピンクに彩られた。
 ようやく桜が咲いたのだ。
 昼間は、春休みだろうか。
 平日でも、子供の声が絶えることがない。
 高層マンションの五階の窓から、Mが下をのぞいた。
 元気に走り回る子供の姿が見えた。
 陽が西に傾き、たそがれがせまってきた。
 時計を見ると、六時を過ぎている。
 Mは飼い犬を連れて、部屋をでた。
 らせん状になった階段を降りる。
 ようやく玄関をでた。
 通りを渡って、公園に入った。
 アーチ状になったトンネルをくぐる。
 バラのつるが巻きついている。
 木影は闇が濃くなっていた。
 もう子供は、いない筈である。
 学校からの要請で、Mは志願して見守り隊に入った。
 最近は治安がわるい。
 この近くでも、小学生がねらわれる事件が起こったばかりだ。
 白い車に乗った中年男が下校途中の五年生の女の子に声をかけた。
 いやがる子を、むりやり中に押しこもうとした。
 
 シーソーわきの水道の蛇口から、水が出ていた。
 音を立てている。
 誰だろう。
 もったいないことだな。
 注意してまわりを見るが、まったく人の気配がない。
 白いコンクリート製の建物があった。
 公衆トイレである。
 「だれか、いませんか」
 ときどき声をかける。
 コツコツと靴音が響くだけだ。
 物音ひとつしない。
 ヒューッ。
 風が入りこんできた。
 タイルの上に伸びていた、長くて白い紙が飛び上がった。
 犬のランは、鼻をぴくぴく動かして、床をあちこちかぎまわった。
 外に出ると、すっかりたそがれていた。
 桜がおぼろげだ。
 淡いピンク色の光を放っているようだった。
 もう一度念を入れて、見まわる。
 藤棚の下に砂場があった。
 そこだけ真っ暗だった。
 ふいに、ランがかけだした。
 仕方なく、あとを追う。
 闇の前で、Mは歩みをとめた。
 チェーンがぴんと伸び、ランは後足で立った。
 前足がぐるぐると宙をかいている。
 わんと、ひと声鳴いた。
 ひいひい言うだけで、うなろうとはしない。
 Mの目には何も見えないが、・・・・・・。
 誰かいるのだ
 何かがうごめいていた。
 「だれっ」
 Mは迷わず、声をかけた。
 ゆっくりとあとずさって行く。
 ガサガサと音がした。
 子供。
 Mは勘が鋭くなっていた。
 「おじさんは、いい人だよ」
 ゆったりした声をかけた。
 「こっちへおいで。お話ししよう」
 そろそろと歩み寄って来るのが、気配でわかった。
 左手をだすと、その手をぎゅっとつかんだ。
 小さくて、厚ぼったい手だ。
 とても冷たかった。
 
  

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