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一週間たった。
正夫は夕方になると、公園に出かけていた。
砂場にあきなの姿を求めるが、むだだった。
今は、桜の花は散り、若葉がふきだしている。
赤や黄のチュ―リップが開きはじめた。
思いきって、あきなのマンションを訪ねることにした。
六階まであがる。
川島の表札のかかったドアをトントンたたいた。
応答がない。
カチャカチャとノブをまわすが、開かない。
「そこの人。帰ってませんよ」
ふいにとなりのドアが開き、すき間から女の声がした。
暗くてよく見えないが、年輩のようだ。
「どうも」
正夫は一礼すると、そばに寄って、
「この近くに住んでいる、鈴木という者です。子供の見守り隊の一員なんです」
と、真面目な口ぶりで言った。
「はあ、それで」
「ここの女の子と仲良しになりましてね」
女は手招きした。
正夫がそばに寄ると、
「私も、あの子のことが心配なんです」
低い声で言った。
「ほんとですよね」
女はちょっと間をおいてから、
「実は・・・・・・」
「実は、どうしたんですか」
女はドアを広く開け、正夫を上がり口に招いた。
ドアが閉まった。
「何か、見たんですか」と、正夫の語気が強くなった。
女はテーブルわきの椅子にすわると、
「そうなんですよ」と応えて、右手の人差指で頭をかいた。
「それで、一体何をごらんになりました」
正夫は、なんとか訊きだそうとした。
「まあ、おあがりになって」
女は、向かいの椅子を引いてから、急須に湯をそそいだ。
新しい茶碗を取りだした。
「あっ、大丈夫です。気をつかわないでください」
正夫は目を細めて、茶を飲みほした。
「ごちそうさま。おいしかったです」
「あの日、男は自力でヴェランダを乗り越えたんですよ」
女がぽつりと言った。
「えっ。見てたんですか」
女は、こくりと首をふった。
「ほら、小さい時、高い所によじ登るのに、両腕をこうやって」
女は実演して見せた。
「ええ、わかります」
「寒くなりそうなんで、ヴェランダの観葉植物を部屋に取りこもうとしたんです。そしたら」
「男が部屋から出て来たんですか」
「ええ。なんだかよろめきながら。大声でわめいていました」
「何て言ってました」
「そんなんじゃ俺はもう、とかなんとか。よじ登った後は、狭い所でしばらく体を動かしていました」
「それで、落ちたんですか」
「はい。必死でヴェランダの角をつかんでいたようでしたが、とうとう」
「誰も助けようとはしなかったんですか」
「女の人が出て来て、男の腕をつかんだようでしたが・・・・・」
女はそう言うと、がくりと肩をおとした。
「奥さん、そのことは、もう警察に」
「いいえ、まだなんです」
激しく首をふった。
その時のことを思いだしたのか、女が興奮した。
正夫は、女の背後にまわり、肩に両手をおいた。
「お願いしますよ、奥さん」
穏やかに、たのんだ。
「面倒なんで。何かと。関わり合いになりたくなかったものですから」
正直に話した。
「そりゃそうでしょうけど。あきなちゃんのために。どうぞ」
正夫の目が赤い。
涙でうるんでいた。
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翌朝早く、サイレンの音が聞こえた。
下の通りをパトカーが走っている。
人の声が騒がしい。
「あなた、何かしら。こんなに早く」
日曜日。
午前六時を少し過ぎたところだ。
鏡に向かっていた妻の幸子が、ふいに声をあげた。
ウウウッ。
もう一台来た。
道の突きあたりは、土手になっている。
その先は大川が流れていた。
「ほんとにすぐそこだ。人騒がせなことだな。まったく」
正夫は、布団の中で文句を言うだけだ。
なかなか起き上がろうとはしない。
年のせいか身体の無理が、あとまで尾をひくようになった。
「この団地で何かあったんだわ」
幸子は落ち着いて、椅子にすわっていられない。
口紅をひき損じて、頬に赤い線を引いてしまった。
思わず、ふふと笑った。
「あんた、ちょっと見て来てよ。知り合いがいるし」
幸子は、パートにでている。
月曜日が定休である。
休みたいときは、ほかの人に代わってもらうように、
自分で段取りをつけなくてはならない。
犬や猫の世話を焼く仕事だ。
そんなことがよく商売になるな、と正夫は理解に苦しむ。
俺の田舎じゃ、犬猫のことなど、ほったらかしだった。
あら、それは昔のことでしょ。
今は、身のまわりのことを、何だって気をつけてやるものよ。
妻にそう切りかえされても、正夫は合点がいかない。
さびしい人が多くなったんだな、と思う。
幸子は、今日、店を休んだ。
友達と花見に出かけるらしい。
しぶしぶといった様子で、正夫は布団の上で着がえをはじめた。
「早くして。あたし、時間がないのよ」
のろまったげな正夫を叱る。
「うるせえな。そんなら、自分が行けばいいだろ」
最近、正夫は怒りっぽくなった。
老化現象ね、と幸子は笑う。
階段をゆっくり降りた。
玄関口で、となりの山本さんに出逢った。
走ってきたのか、呼吸があらい。
目を丸くしている。
大きく口を開けて、
「人がヴェランダから落ちたんだ」
訊きもしないのに、大声で言った。
つばが正夫の頬にかかった。
「どんな人。死んだの」
「そうだ。若いやつ」
くちぎたなく言った。
「母子ふたりの部屋に、出入りしていたらしい」
口の端をまげて、親指を立てた。
「これみたいだぜ。近くの人の話だけどな」
「へえ。どうしてヴェランダから」
正夫が訊ねると、
「その先のことは、わからん」
勢い込んだままで、駆け足で階段を上がって行った。
黄色いテープが貼られていた。
制服姿の警官がふたり立っている。
「いやですわね」
となりに立っている知り合いの岡村さんが、声をひそめて言った。
「詳しいこと知ってますか」
正夫が訊ねると、
「まだ何も分かってないらしいですよ。酔っぱらって誤まって落ちたんだか。
誰かに落とされたんだか。女の人が口を閉ざしたままなんですって。
となりの部屋の人が、夜遅く物音を聞いたようですけど」
首をひねったままで、応えた。
「人ひとり死んだのに、ですか」
正夫の声が大きくなった。
「部屋は母子二人暮らし。そこへたまに男が入りこんでいた。
抱きあうのに邪魔だと、幼い娘をヴェランダの外に追いやって・・・・・・。
近所の人の憶測ですけどね」
正夫は、そこまで聞いて、あきなのことを思い浮かべた。
階段の踊り場に母子連れの姿が見えた。
捜査員がわきをかためる。
女の腕には、手錠がかけられていない。
正夫は、長いため息をついた。
女の右腕が、あきなの肩に置かれていた。
警官がテープを上げた。
正夫は身をのりだした。
あきなが、気づいて顔をあげ、
おじちゃん、と声をださずに言った。
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次の日も、女の子は公園にいた。
あたりは明るい。
午後五時を過ぎたばかりだ。
砂場にしゃがんで、コテで穴を掘っている。
桜の枝がざわめくたびに、花びらがはらはらと舞う。
小さな背中に降り積もっていた。
きのうより、寂しそうに見えた。
長い髪が風に揺れている。
しばらく洗ってないのか、汗の匂いがした。
赤いリボンでもつけてやるといいのに。
顔を見せない親を想った。
「こんばんは」
Mがささやくように声をかけた。
女の子の肩がびくっと震え、コテを動かす手をとめた。
首をまわして、
「わんちゃんは」とたずねた。
「今日は、おねんねしてるんだよ」
「ふううん。つまんないの」
「犬は好きなの」
「ええ」
元気よく応えた。
「そこに何があるのかな」
女の子はだまっている。
「おじさん、当ててみようか」
女の子は立ちあがると、両手をパンパンたたいた。
にっこり笑った。
「まずは、っと。おじさんは、正夫って言うんだ。お嬢ちゃんは」
ちょっとだけ、ためらう様子を見せたが、
「あきな、かわにしあきな」
と、大きな口でゆっくりと言った。
「あきなちゃんだ。いいお名前だね」
嬉しそうに笑った。
笑窪がかわいい。
何気なく右手を見た。
手の甲に黒い点がある。
そのまわりが赤くはれている。
「どうしたの、それ。痛むでしょ」
大あわてで、小さな手を後ろにまわした。
「いやっ」と言うと、公園の隅にかけて行った。
雪柳の下にもぐりこんだ。
こちらを見ている。
ちょっと知らん顔でいよう。
Mは、そう思った。
砂場を両手で掘りはじめた。
場所がわからず、やたらと穴をつくるばかりだ。
トントン。
誰かが背中をたたいた。
「誰だっ」
わざと大きい声でいった。
「はい、これ」
あきなが、コテを渡した。
砂場のへりに立ち、右手で指さした。
左手は、背中にまわしたままだ。
「ここかい」
うんと頭をふった。
左の頬が赤い。
一体どうしたんだろう。
心配になった。
それを察したのか、あきなは左手で頬をおおった。
Mはコテをふるう。
いくら掘っても、何も出て来ない。
くくくっと、あきなが笑った。
Mは顔をあげて、
「どうしたの」とたずねた。
グウにしたままの左手を、そろっと前にだし、
「ほらっ」とひらいた。
百円ライターがにぎられていた。
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目が闇に慣れてきた。
女の子のようだ。
三、四歳くらいに見える。
左手に、移植ごてを持っている。
Mはその場にしゃがみこむと、
「どうしたの、今頃まで」
そっと体を抱くと、優しく語りかけた。
身体の震えが伝わってくる。
うっうっと嗚咽をもらしはじめた。
「よしよし、もう大丈夫だよ」
団地のどこかに住んでいる子だろう。
いま時分まで放っておくなんて。
なんて、親なんだ。
Mは怒りがこみあげてきた。
ポンポン。
女の子がMの頬をかるくたたいた。
「あげる」
かすかに、水仙が匂った。
ランが砂場をほりはじめた。
砂があたりに飛び散る。
「ラン、やめろ」
何かが埋まっているのだろう。
それを口にくわえると、Mのそばに寄った。
ポトンと落とした。
Mはそれを拾い上げると、目に近づけた。
ぷんとタバコが匂った。
箱は封が切られていて、一、二本吸っただけだった。
「これ、知ってる」
女の子に問いかけたが、首を横に大きくふった。
ランが女の子にじゃれつき始めた。
立ち上がると、背丈が同じくらいになる。
顔をぺろぺろなめた。
まったくこわがる様子を見せない。
すわりこんで、ランの体をさすりはじめた。
家で犬を飼っているんだ、とMは思った。
「ちょっと待ってて」
藤棚をささえている柱に、チェーンの先を結わえると、Mは大通りにでた。
通りの向こう側を見た。
道端に歩道がある。
そのわきに、銀杏が等間隔に植えられていた。
並木の向こうに高いビル群が見えた。
月が出ていないせいで、黒々としている。
何か大きな生き物が眠りこんでいるように思えた。
乗用車が一台、ライトをつけて通りすぎて行く。
Mはじっとしていた。
停止せずに走り去った。
結局、誰もいなかった。
奇妙な話だ、と思う。
必死の形相で、誰かがあの子を探していたって、いいはずだ。
そんな場面を期待していたが、あえなく裏切られた。
藤棚にもどった。
「ごめんね、遅くなって」
声をかけたが、返事がない。
ランのそばに寄った。
女の子がいない。
Mは、あわてた。
急いで、チェーンをはずすと、「ラン、さがせ」と命じた。
公園の中は真っ暗だ。
きっと家に向かったに違いない。
Mはもう一度、大通りにでた。
百メートル先を、誰かが渡って行くのが見える。
街灯が小さな人影を照らしだした。
Mは、ほっとため息をついた。
銀杏並木に隠れて、見えなくなった。
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団地の中の公園がピンクに彩られた。
ようやく桜が咲いたのだ。
昼間は、春休みだろうか。
平日でも、子供の声が絶えることがない。
高層マンションの五階の窓から、Mが下をのぞいた。
元気に走り回る子供の姿が見えた。
陽が西に傾き、たそがれがせまってきた。
時計を見ると、六時を過ぎている。
Mは飼い犬を連れて、部屋をでた。
らせん状になった階段を降りる。
ようやく玄関をでた。
通りを渡って、公園に入った。
アーチ状になったトンネルをくぐる。
バラのつるが巻きついている。
木影は闇が濃くなっていた。
もう子供は、いない筈である。
学校からの要請で、Mは志願して見守り隊に入った。
最近は治安がわるい。
この近くでも、小学生がねらわれる事件が起こったばかりだ。
白い車に乗った中年男が下校途中の五年生の女の子に声をかけた。
いやがる子を、むりやり中に押しこもうとした。
シーソーわきの水道の蛇口から、水が出ていた。
音を立てている。
誰だろう。
もったいないことだな。
注意してまわりを見るが、まったく人の気配がない。
白いコンクリート製の建物があった。
公衆トイレである。
「だれか、いませんか」
ときどき声をかける。
コツコツと靴音が響くだけだ。
物音ひとつしない。
ヒューッ。
風が入りこんできた。
タイルの上に伸びていた、長くて白い紙が飛び上がった。
犬のランは、鼻をぴくぴく動かして、床をあちこちかぎまわった。
外に出ると、すっかりたそがれていた。
桜がおぼろげだ。
淡いピンク色の光を放っているようだった。
もう一度念を入れて、見まわる。
藤棚の下に砂場があった。
そこだけ真っ暗だった。
ふいに、ランがかけだした。
仕方なく、あとを追う。
闇の前で、Mは歩みをとめた。
チェーンがぴんと伸び、ランは後足で立った。
前足がぐるぐると宙をかいている。
わんと、ひと声鳴いた。
ひいひい言うだけで、うなろうとはしない。
Mの目には何も見えないが、・・・・・・。
誰かいるのだ
何かがうごめいていた。
「だれっ」
Mは迷わず、声をかけた。
ゆっくりとあとずさって行く。
ガサガサと音がした。
子供。
Mは勘が鋭くなっていた。
「おじさんは、いい人だよ」
ゆったりした声をかけた。
「こっちへおいで。お話ししよう」
そろそろと歩み寄って来るのが、気配でわかった。
左手をだすと、その手をぎゅっとつかんだ。
小さくて、厚ぼったい手だ。
とても冷たかった。
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