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B子が布団の上にのっていた。
「どうっ、苦しいでしょ」
ふがふが、ふがふが。ふがふが、ふがふが。
お願いだから、やめてくれと言っているのだが、言葉にならない。
B子は、ようやく右手を放した。
妻をののしるより、まずは自分の体が心配だ。
ふうふう、ふうふう。
胸を大きくふくらませて、Yは深呼吸をはじめた。
B子は布団の上からおりて、Yの様子を見ている。
わきに置いたハンドバッグから、白い袋を取りだした。
Yはようやく呼吸が安定したのか、布団の上でからだを起こした。
ぐったりしている。
怒る気力もないようだ。
B子は、白い袋をYに見せ、「これっ」と言った。
それから、右手の小指を立て、Yの顔に近づけた。
「ごめん」
Yは、重々しい声でいった。
からだが、ぐにゃりとなった。
台所に、YとB子がいる。
これは以前と変わらない。
だが、・・・・・・。
「あなた、ひらたい皿を、二枚取ってくださる」
洗い場のわきに立っているB子が、やんわりと頼んだ。
すわっていたYが急いで立ち上がったので、椅子がうしろに転がりそうになった。
あわてて、Yは両手で受けとめた。
目を丸くして、B子を見つめる。
B子はネックレスを首から取り出すと、ロケットをYに見せた。
ふふっと口もとに笑いを浮かべ、うんうんとうなずいた。
Yが食器棚を開けた。
「これかい」
落とさないように両手でつかむ。
B子は首を横にふった。
「じゃあ、これっ」
「そうよ、テーブルにならべて。静かにね」
Yは一枚ずつ、丁寧にならべた。
喜んで、妻の手伝いをしている。
はた目では、そう見える。
内心では、もちろん面白くないはずだ。
以前のように、正面切って感情を表せないのだ。
絶対に、だ。
B子がYのそばに来て、目の前にトレイをおいた。
白い皿には、食パンがふた切れ。
黒いカップには、熱いコーヒーが入っている。
B子が目を閉じて、唇をとがらした。
Yが彼女の唇を受け入れると、B子はほほ笑みながら、Yに体を寄せた。
「どうぞ、召し上がれ」
Yは妻の目をじっと見て、
「いただきます」と、両手を合わせた。
Yの目に、うっすらと涙がにじんだ。
[了]
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布団に入ってから、どのくらい時間がたっただろうか。
ふいに息苦しさを感じて、Yは目を開けた。
部屋は明るい。
もう朝なんだ、と思い、起き上がろうとした。
ところが、ビクとも動かない。
Yはあせった。
もう一度、試みた。
もぞもぞと動かそうとする。
やはり、徒労に終わった。
落ち着いて、体を見まわす。
どこにも、異常は見当たらない。
頭も胴体も、手も足もあった。
思うように、身体が動いてくれないだけなのだ。
心が身体から切り離されているように、Yは感じた。
神経の病気にでもなったのか、と心配する。
不意に、足もとに異様な気配を感じた。
小山のような物が見えた。
ふわふわと動いている。
正体をつきとめようと、じっと見つめた。
小山が、はっきりした形を取りはじめた。
丸くて長い筒状の物体が、ぐるぐる巻きで置かれている。
まだら模様の規則正しい模様が付いていた。
てっぺんが動きはじめ、するすると天井に向かって伸びる。
筒の一番先が、金尺のようにYの方を向き、べろっと赤黒い物をだした。
両脇についたふくらみが上下に開いた。
きらりと光った。
こっ、これはへびだ。
にしき・・・蛇だ。
なんて、でかい。
まぶたが開いたんだ。
鎌首をもたげると、下に向けた。
これは夢か。
久しぶりの入浴で血行が良くなり、ぐっすり眠れる。
悪い夢など見るわけがないのにと、Yは思った。
蛇は、布団の中にもぐりこみ、Yの足に体を巻きつけた。
続いて、腰、腹と、ぐいぐい締めあげてくる。
ギシギシ、ボキボキ。
筋肉が、骨が、悲鳴をあげた。
あばら骨がグキッと鳴ったとたんに、急に息苦しくなった。
鎌首がYの顔にせまり、赤い舌が鼻先をくすぐる。
Yは目を閉じた。
声を出せない口を、大きく開けた。
「助けてくれえ」と叫んだつもりだった。
バシッ、バシッ。
強く二度、頭をたたかれた。
Yは、蛇のシッポでやられた、と思った。
おそるおそる目を開けた。
B子の怒った顔が、目の前にあった。
右手でYの鼻をつまみ、左手を振りあげていた。
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ハアア、クション。
自分のくしゃみで、Yは目をさました。
パジャマに着がえず、あおむけで服のまま、布団に横たわっていた。
掛け布団をかけていない。
やれやれ、ひとりって、こんなもんだ。
B子がいれば、と考えて、すぐ首をふった。
時計が十時をさしていた。
ピンポーン。
玄関の呼び鈴が鳴った。
Yは起き上がろうとはしない。
ピンポーン。
居留守を使おうとしたが、近所の人かもしれない。
立ちあがって、応対した。
自治会の班長だった。
「おはようございます」
「はあ、何でしょうか」
「会費をお願いします」
「いくらですか」
「三千円です」
「ちょっと待ってください」
財布には、一銭もない。
夕べ、全額つかってしまった。
金のありかが分からない。
「すみません。あとで持って行きますから」
女は、怪訝な顔で廊下の奥をのぞきこむ。
「奥さんは、おられないんですか」
「ええ、ちょっと」
Yは、頭をさげた。
女はきびすを返すと、庭さきに止めておいた自転車に乗った。
Yは新鮮な空気を吸おうと外に出た。
班長を見送る。
小道をまわって、大通りに向かった。
通りかかった年輩の女と、おしゃべりを始めた。
ふたりして、Yを見つめている。
あああっ。この先が思いやられる。
頭をぼりぼりかきながら、Yは家に入った。
夕方までに、あと二件、金の請求があった。
JAの積立の催促と、新聞代の集金だった。
妻に、すべて任せてあったので、なすすべがない。
金、金と言われるたびに、身のちじむ想いをした。
Yは、運転免許がない。
最近、目の前で警官に破られたのだ。
ひどく酔っていたうえに、警官にからんだのだ。
近間は自転車で行くが、あとはバスを利用するしかなかった。
パチンコして、うさを晴らしたいのだが、この日はずっと家にいた。
外に出たのは、コンビニまで食料を調達に行っただけだ。
温めれば、食べられるものを買った。
材料をそろえて、何かを作ることは出来ないし、面倒なことがきらいだった。
風呂に入りたかった。
屋根のタンクにたまった湯を下ろさなくてはならない。
これくらいは出来るさ。
外にまわって、バルブが閉まっているか確認する。
汚れた湯船をごしごし洗う。
シャワーで汚れを洗い流した。
蛇口をひねると、湯が出はじめた。
七割がた湯がたまったので、入ることにする。
湯船に首までつかった。
ふううっと息を吐きだす。
覆水盆にかえらず、か。
Yはそうつぶやくと、天井を見あげた。
しずくが落ちて、ポツンと顔にかかった。
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F子があきらめられず、Yはあちこち探しまわった。
アパートを訪ねたが、彼女の姿はなかった。
部屋の荷物は、ほとんど置いたままだ。
家主の年輩の女は、困惑した顔で応対した。
「お宅、どこに行ったか知りませんか。懇意にしておられたのと違いますの」
と端正な顔立ちをひきつらせて、冗談まじりに訊いた。
会社にも出向いた。
近くまで来たからと立ち寄ると、F子が急にやめたと皆が騒いでいる。
Yの顔を見ると、皆の視線がいっせいに彼に注がれた。
一様に、あっと言い、そして静かになった。
それでも、長年のよしみだ。
Yは、あえて机の間をすりぬけて、総務部の上司に声をかけた。
彼は苦笑いを浮かべながら、Yについて来た。
「お世話になりました。それだけですよ。彼女が言ったのは」
と、ドアの外で、あきれたといった表情をして見せた。
その夜は、遅くまで飲み歩いた。
明かりのない家に帰って来たのは、十二時をまわっていた。
敷かれたままの布団にすわり、コンビニで買ったしゃけ弁を食べる。
飲んでばかりで、食べていなかった。
つまみにだされた枝豆くらいだ。
背をまるめ、箸を盛んに動かす。
口のまわりに、ご飯粒がいくつも付いている。
食べ終わるとわきにほうり投げた。
そばにも、手をつけ始めた。
無理やり、胃の中にかきこんでいる。
ペットボトルに入ったお茶を一気に飲み干すと、右手で口をぬぐった。
ふいに固定電話のベルが鳴った。
何だって言うんだ、こんなに遅く。
よいしょとYは起き上がり、受話器を耳に付けた。
「お父さん、何よ」
長女からだった。
えらい剣幕で怒っている。
「何だ。えらそうに。こんな時間に」
Yはゆっくり応えた。
「お母さんから連絡があったわ」
「そうか」
「女の人を作ったんだって」
Yはだんまりを決めこむ。
「おとうさん、勝手に暮らしたらいいでしょ」
Yは、ガチャリと受話器をおいた。
寝室にもどって、ごろりと横になった。
ふうううっ。
天井を見上げて、ため息をついた。
淡い明かりが照らしている。
木目が人の顔に見える。
Yは目をこすった。
色々ありすぎて、俺、どうかしてるんだ、と思った。
満腹のせいか、Yはうとうとしはじめた。
どのくらい眠っただろう。
パタパタ、パタパタ。
廊下で足音がする。
おかしいな。だれもいない筈なのに。
Yは耳を澄ました。
誰かがささやく声が聞こえてきた。
ひとりは男で、もうひとりは女のようだ。
Yはそっと起き上がり、襖を開けた。
あたりは真っ暗だ。
物音はやんでいる。
誰もいない。
玄関の戸締りを確認した。
鍵はかかっていた。
気のせいか、と寝室にもどった。
パタパタ、パタパタ。
また、音がしはじめた。
くそっ、何だと言うんだ。
Yは、もはや、見に行く気にもなれない。
頭をかきむしって、両手で耳をおさえた。
天井に浮き出た人の顔が、何かに似てきた。
また、シニガミかよ。
わっと叫んで、Yは目をつむった。
寝苦しくて、たまらなかった。
何度も寝がえりをうった。
しかし、酔いも手伝って、Yは寝入ってしまった。
台所で、人影が動いている。
何も言わない。
勝手口の戸が開いた。
ひとり、ふたりと外に出た。
小道を、音を立てずに歩いて行く。
夜の闇にまぎれて、見えなくなった。
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Yはすぐに、F子に電話を入れた。
携帯が呼びだし画面を映しだした。
一回、二回、三回。
ようやくつながった。
「もしもし、遅いじゃないか」
「何よ、今忙しいのよ」
Yは顔をあげて、居間の柱時計を見た。
午前七時過ぎだ。
会社に行く準備をしている頃だ。
「喜べ。女房が家を出て行ったんだ」
「ふううん」
「何だ。それだけか」
「それで。あんた、これからどうするの」
「どうするって。決まってるだろ」
「どう決まってるのよ」
「お前と暮らすのさ」
「ええっ、いつあたしがそんな約束した」
「言ったじゃねえか」
Yは、思わず声をあらげた。
「車の中で、何度も別れろって」
「そうだったかしら」
「知らないとは、言わせないぜ」
「覚えてないわ」
「よし、わかった。そっちがその気なら、今から行く」
「どうぞ、お好きなように」
「なんだい、ずいぶんな口ぶりだな」
「あたし、あのアパートにいないの」
「ええっ」
「どこにいるんだ」
「どこだっていいでしょ」
Yは、ほんとに怒りだした。
「このっ、バカにするのもほどほどにしろ」
「何よ。バカにしてたのは、あんたでしょ。今までずっと」
「なっ、なにい」
「そうじゃないの。前から大きらいだったのよ。あんたのことが」
「そうかよっ」
「あたしを、おどかしてばっかりだったわ」
Yはごくりと唾を飲みこんだ。
「見てろ。今から会社に行くからな。へっへっ」
「おあいにく様。来たって、いないから」
「なっ、何だ。会社をどうした」
「やめました」
「なに、やめただと」
「ちょっと待って、いいこと聞かせてあげるから」
ぶつぶつ言う声が、かすかにYの耳に届いた。
「もしもし」
若い男の声がした。
声に張りがある。
「もしもし」
さらに声が大きくなった。
Yは、一言も話せない。
携帯を持つ手が震えている。
「俺、F子のセックスフレンド。あんたには、もう用はないって」
プチッ。
Yは電話を切った。
顔が青ざめている。
「F子め。いつの間に。男を作りやがった」
家には誰もいない。
Yは、声に出して、F子をののしった。
近くの柱を、何度もたたいた。
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