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じわり その15

 B子が布団の上にのっていた。
 「どうっ、苦しいでしょ」
 ふがふが、ふがふが。ふがふが、ふがふが。
 お願いだから、やめてくれと言っているのだが、言葉にならない。
 B子は、ようやく右手を放した。
 妻をののしるより、まずは自分の体が心配だ。
 ふうふう、ふうふう。
 胸を大きくふくらませて、Yは深呼吸をはじめた。
 B子は布団の上からおりて、Yの様子を見ている。
 わきに置いたハンドバッグから、白い袋を取りだした。
 Yはようやく呼吸が安定したのか、布団の上でからだを起こした。
 ぐったりしている。
 怒る気力もないようだ。
 B子は、白い袋をYに見せ、「これっ」と言った。
 それから、右手の小指を立て、Yの顔に近づけた。
 「ごめん」
 Yは、重々しい声でいった。
 からだが、ぐにゃりとなった。
 
 台所に、YとB子がいる。
 これは以前と変わらない。
 だが、・・・・・・。
 「あなた、ひらたい皿を、二枚取ってくださる」
 洗い場のわきに立っているB子が、やんわりと頼んだ。
 すわっていたYが急いで立ち上がったので、椅子がうしろに転がりそうになった。
 あわてて、Yは両手で受けとめた。
 目を丸くして、B子を見つめる。
 B子はネックレスを首から取り出すと、ロケットをYに見せた。
 ふふっと口もとに笑いを浮かべ、うんうんとうなずいた。
 Yが食器棚を開けた。
 「これかい」
 落とさないように両手でつかむ。
 B子は首を横にふった。
 「じゃあ、これっ」
 「そうよ、テーブルにならべて。静かにね」
 Yは一枚ずつ、丁寧にならべた。
 喜んで、妻の手伝いをしている。
 はた目では、そう見える。
 内心では、もちろん面白くないはずだ。
 以前のように、正面切って感情を表せないのだ。
 絶対に、だ。
 B子がYのそばに来て、目の前にトレイをおいた。
 白い皿には、食パンがふた切れ。
 黒いカップには、熱いコーヒーが入っている。
 B子が目を閉じて、唇をとがらした。
 Yが彼女の唇を受け入れると、B子はほほ笑みながら、Yに体を寄せた。
 「どうぞ、召し上がれ」 
 Yは妻の目をじっと見て、
 「いただきます」と、両手を合わせた。
 Yの目に、うっすらと涙がにじんだ。 
 [了]
 
 
 
 
 
 
 

じわり その14

 布団に入ってから、どのくらい時間がたっただろうか。
 ふいに息苦しさを感じて、Yは目を開けた。
 部屋は明るい。
 もう朝なんだ、と思い、起き上がろうとした。
 ところが、ビクとも動かない。
 Yはあせった。
 もう一度、試みた。
 もぞもぞと動かそうとする。
 やはり、徒労に終わった。
 落ち着いて、体を見まわす。
 どこにも、異常は見当たらない。
 頭も胴体も、手も足もあった。
 思うように、身体が動いてくれないだけなのだ。
 心が身体から切り離されているように、Yは感じた。
 神経の病気にでもなったのか、と心配する。
 不意に、足もとに異様な気配を感じた。
 小山のような物が見えた。
 ふわふわと動いている。
 正体をつきとめようと、じっと見つめた。
 小山が、はっきりした形を取りはじめた。
 丸くて長い筒状の物体が、ぐるぐる巻きで置かれている。
 まだら模様の規則正しい模様が付いていた。
 てっぺんが動きはじめ、するすると天井に向かって伸びる。
 筒の一番先が、金尺のようにYの方を向き、べろっと赤黒い物をだした。
 両脇についたふくらみが上下に開いた。
 きらりと光った。
 こっ、これはへびだ。
 にしき・・・蛇だ。
 なんて、でかい。
 まぶたが開いたんだ。
 鎌首をもたげると、下に向けた。
 これは夢か。
 久しぶりの入浴で血行が良くなり、ぐっすり眠れる。
 悪い夢など見るわけがないのにと、Yは思った。
 
 蛇は、布団の中にもぐりこみ、Yの足に体を巻きつけた。
 続いて、腰、腹と、ぐいぐい締めあげてくる。
 ギシギシ、ボキボキ。
 筋肉が、骨が、悲鳴をあげた。
 あばら骨がグキッと鳴ったとたんに、急に息苦しくなった。
 鎌首がYの顔にせまり、赤い舌が鼻先をくすぐる。
 Yは目を閉じた。
 声を出せない口を、大きく開けた。
 「助けてくれえ」と叫んだつもりだった。
 バシッ、バシッ。
 強く二度、頭をたたかれた。
 Yは、蛇のシッポでやられた、と思った。
 おそるおそる目を開けた。
 B子の怒った顔が、目の前にあった。
 右手でYの鼻をつまみ、左手を振りあげていた。
 
 

じわり その13

 ハアア、クション。
 自分のくしゃみで、Yは目をさました。
 パジャマに着がえず、あおむけで服のまま、布団に横たわっていた。
 掛け布団をかけていない。
 やれやれ、ひとりって、こんなもんだ。
 B子がいれば、と考えて、すぐ首をふった。
 時計が十時をさしていた。
 ピンポーン。
 玄関の呼び鈴が鳴った。
 Yは起き上がろうとはしない。
 ピンポーン。
 居留守を使おうとしたが、近所の人かもしれない。
 立ちあがって、応対した。
 自治会の班長だった。
 「おはようございます」
 「はあ、何でしょうか」
 「会費をお願いします」
 「いくらですか」
 「三千円です」
 「ちょっと待ってください」
 財布には、一銭もない。
 夕べ、全額つかってしまった。
 金のありかが分からない。
 「すみません。あとで持って行きますから」
 女は、怪訝な顔で廊下の奥をのぞきこむ。
 「奥さんは、おられないんですか」
 「ええ、ちょっと」
 Yは、頭をさげた。
 女はきびすを返すと、庭さきに止めておいた自転車に乗った。
 Yは新鮮な空気を吸おうと外に出た。
 班長を見送る。
 小道をまわって、大通りに向かった。
 通りかかった年輩の女と、おしゃべりを始めた。
 ふたりして、Yを見つめている。
 あああっ。この先が思いやられる。
 頭をぼりぼりかきながら、Yは家に入った。
 夕方までに、あと二件、金の請求があった。
 JAの積立の催促と、新聞代の集金だった。
 妻に、すべて任せてあったので、なすすべがない。
 金、金と言われるたびに、身のちじむ想いをした。
 
 Yは、運転免許がない。
 最近、目の前で警官に破られたのだ。
 ひどく酔っていたうえに、警官にからんだのだ。
 近間は自転車で行くが、あとはバスを利用するしかなかった。
 パチンコして、うさを晴らしたいのだが、この日はずっと家にいた。
 外に出たのは、コンビニまで食料を調達に行っただけだ。
 温めれば、食べられるものを買った。
 材料をそろえて、何かを作ることは出来ないし、面倒なことがきらいだった。
 風呂に入りたかった。
 屋根のタンクにたまった湯を下ろさなくてはならない。
 これくらいは出来るさ。
 外にまわって、バルブが閉まっているか確認する。
 汚れた湯船をごしごし洗う。
 シャワーで汚れを洗い流した。
 蛇口をひねると、湯が出はじめた。
 七割がた湯がたまったので、入ることにする。
 湯船に首までつかった。
 ふううっと息を吐きだす。
 覆水盆にかえらず、か。
 Yはそうつぶやくと、天井を見あげた。
 しずくが落ちて、ポツンと顔にかかった。
 
 
 
 
 

じわり その12

 F子があきらめられず、Yはあちこち探しまわった。
 アパートを訪ねたが、彼女の姿はなかった。
 部屋の荷物は、ほとんど置いたままだ。
 家主の年輩の女は、困惑した顔で応対した。
 「お宅、どこに行ったか知りませんか。懇意にしておられたのと違いますの」
 と端正な顔立ちをひきつらせて、冗談まじりに訊いた。
 会社にも出向いた。
 近くまで来たからと立ち寄ると、F子が急にやめたと皆が騒いでいる。
 Yの顔を見ると、皆の視線がいっせいに彼に注がれた。
 一様に、あっと言い、そして静かになった。
 それでも、長年のよしみだ。
 Yは、あえて机の間をすりぬけて、総務部の上司に声をかけた。
 彼は苦笑いを浮かべながら、Yについて来た。
 「お世話になりました。それだけですよ。彼女が言ったのは」
 と、ドアの外で、あきれたといった表情をして見せた。
 
 その夜は、遅くまで飲み歩いた。
 明かりのない家に帰って来たのは、十二時をまわっていた。
 敷かれたままの布団にすわり、コンビニで買ったしゃけ弁を食べる。
 飲んでばかりで、食べていなかった。
 つまみにだされた枝豆くらいだ。
 背をまるめ、箸を盛んに動かす。
 口のまわりに、ご飯粒がいくつも付いている。
 食べ終わるとわきにほうり投げた。
 そばにも、手をつけ始めた。
 無理やり、胃の中にかきこんでいる。
 ペットボトルに入ったお茶を一気に飲み干すと、右手で口をぬぐった。
 ふいに固定電話のベルが鳴った。
 何だって言うんだ、こんなに遅く。
 よいしょとYは起き上がり、受話器を耳に付けた。
 「お父さん、何よ」
 長女からだった。
 えらい剣幕で怒っている。
 「何だ。えらそうに。こんな時間に」
 Yはゆっくり応えた。
 「お母さんから連絡があったわ」
 「そうか」
 「女の人を作ったんだって」
 Yはだんまりを決めこむ。
 「おとうさん、勝手に暮らしたらいいでしょ」
 Yは、ガチャリと受話器をおいた。
 寝室にもどって、ごろりと横になった。
 ふうううっ。
 天井を見上げて、ため息をついた。
 淡い明かりが照らしている。
 木目が人の顔に見える。
 Yは目をこすった。
 色々ありすぎて、俺、どうかしてるんだ、と思った。
 満腹のせいか、Yはうとうとしはじめた。
 どのくらい眠っただろう。
 パタパタ、パタパタ。
 廊下で足音がする。
 おかしいな。だれもいない筈なのに。
 Yは耳を澄ました。
 誰かがささやく声が聞こえてきた。
 ひとりは男で、もうひとりは女のようだ。
 Yはそっと起き上がり、襖を開けた。
 あたりは真っ暗だ。
 物音はやんでいる。
 誰もいない。
 玄関の戸締りを確認した。
 鍵はかかっていた。
 気のせいか、と寝室にもどった。
 パタパタ、パタパタ。
 また、音がしはじめた。
 くそっ、何だと言うんだ。
 Yは、もはや、見に行く気にもなれない。
 頭をかきむしって、両手で耳をおさえた。
 天井に浮き出た人の顔が、何かに似てきた。
 また、シニガミかよ。
 わっと叫んで、Yは目をつむった。
 寝苦しくて、たまらなかった。
 何度も寝がえりをうった。
 しかし、酔いも手伝って、Yは寝入ってしまった。
 台所で、人影が動いている。
 何も言わない。
 勝手口の戸が開いた。
 ひとり、ふたりと外に出た。
 小道を、音を立てずに歩いて行く。
 夜の闇にまぎれて、見えなくなった。
 

じわり その11

 Yはすぐに、F子に電話を入れた。
 携帯が呼びだし画面を映しだした。
 一回、二回、三回。
 ようやくつながった。
 「もしもし、遅いじゃないか」
 「何よ、今忙しいのよ」
 Yは顔をあげて、居間の柱時計を見た。
 午前七時過ぎだ。
 会社に行く準備をしている頃だ。
 「喜べ。女房が家を出て行ったんだ」
 「ふううん」
 「何だ。それだけか」
 「それで。あんた、これからどうするの」
 「どうするって。決まってるだろ」
 「どう決まってるのよ」
 「お前と暮らすのさ」
 「ええっ、いつあたしがそんな約束した」
 「言ったじゃねえか」
 Yは、思わず声をあらげた。
 「車の中で、何度も別れろって」
 「そうだったかしら」
 「知らないとは、言わせないぜ」
 「覚えてないわ」
 「よし、わかった。そっちがその気なら、今から行く」
 「どうぞ、お好きなように」
 「なんだい、ずいぶんな口ぶりだな」
 「あたし、あのアパートにいないの」
 「ええっ」
 「どこにいるんだ」
 「どこだっていいでしょ」
 Yは、ほんとに怒りだした。
 「このっ、バカにするのもほどほどにしろ」
 「何よ。バカにしてたのは、あんたでしょ。今までずっと」
 「なっ、なにい」
 「そうじゃないの。前から大きらいだったのよ。あんたのことが」
 「そうかよっ」
 「あたしを、おどかしてばっかりだったわ」
 Yはごくりと唾を飲みこんだ。
 「見てろ。今から会社に行くからな。へっへっ」
 「おあいにく様。来たって、いないから」
 「なっ、何だ。会社をどうした」
 「やめました」
 「なに、やめただと」
 「ちょっと待って、いいこと聞かせてあげるから」
 ぶつぶつ言う声が、かすかにYの耳に届いた。
 「もしもし」
 若い男の声がした。
 声に張りがある。
 「もしもし」
 さらに声が大きくなった。
 Yは、一言も話せない。
 携帯を持つ手が震えている。
 「俺、F子のセックスフレンド。あんたには、もう用はないって」
 プチッ。
 Yは電話を切った。
 顔が青ざめている。
 「F子め。いつの間に。男を作りやがった」
 家には誰もいない。
 Yは、声に出して、F子をののしった。
 近くの柱を、何度もたたいた。
 

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