小説を書こう。

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

じわり その5

 運転手は、B子をかかえた腕に力をこめた。
 だが、一言も発しようとはしない。
 B子にはそれが有難かった。
 運転手の名前はM。
 ラブホテル近くまでどんな用事で来たのか、とうに察しがついている。
 高校生の頃に、将来はタクシーに乗りたいと思った。
 むろん、運転が好きだからだが、それ以上に色んな人と出会いたかったのだ。
 行きずり。
 その言葉が、気に入っている。
 若い頃から作り話を書き、最近では下手だが小説らしき物を書くようになっていた。
 採用されるあてのない作品を、たまに出版社に送りつけている。
 当然、客の心理を読むのがうまい。
 
 運転手が自分に同情してくれているのが分かり、B子は嬉しくなった。
 夫の素行でうちのめされ、冷え冷えしていた心が温まってくる。
 「ずいぶんお待たせしたでしょ」
 B子は、明るい声でねぎらった。
 「いいえ」
 はっきりした、短い言葉が返ってきた。
 事務的だが、誠意が感じられる。
 B子は、お客様である。
 私情を差しはさまないようにしているのが分かった。
 B子の心の中で、Mのしめる割合が大きくなってくる。
 Yとの違いが、ますます際立ってきた。
 歳は同じくらいだろうが、ずっと男らしい。
 この人は、仕事中の身だ。
 それは、わかっている。
 その分を差し引いたとしても、Mに軍配があがった。
 となりのバラは赤い、のかもしれないが・・・・・・。
 結婚してから七年もたてば、夫に抱いていた夢が覚める。
 そのことは、世間でよく耳にしていた。
 すでに、三十年以上だ。
 考えれば、夫とは惰性で生活を続けていたようなものだ。
 近頃は、欠点ばかり目についた。
 短気なうえに、じめじめしたところがある夫が嫌いになっていた。
 まして、不倫の現場を目にしたばかりである。
 もう今までのようには付き合えない、とB子は思う。
 訴訟をおこせば、別れることだって出来るのだ。
 B子はいけないこととは知りながら、Mと付き合えればいいな、と
夢のようなことを考えはじめていた。
 夫だって、あんなことをしているのだ。
 あたしだって、その気になれば、と思った。
 Mの横顔をちらっと見る。
 思い切って、Mの肩にのった手を動かす。
 ゆっくりとなでた。
 Mは、小さな声であっと言ったが、表情をくずさない。
 何事もなかったように、うつむいたままで歩きつづけた。
 
 車にもどった。
 ザアザアという音が、車内に響いている。
 Mは素早く乗りこむと、マイクをにぎった。
 「はい、わかりました」
 B子は何か差し障りがあったのだろうか、と心配になり、
 「遅くなりましたね、大丈夫でしたか」
 と訊ねた。
 「はい、ご心配なく」
 Mは、笑顔で応じた。
 「お客さん、どうなさいますか」と穏やかにつづけた。
 「家までお願いします」
 これからお茶でも。
 その言葉が口まで出かかったが、ぐっと飲みこんだ。
 主婦稼業ばかり、ずっと真面目にやってきた者にとっては、
とてもやくざな言葉に思えた。
 不意に、B子は自分の身体が気になった。
 「すみません、急いでください」
 あわてた口調でたのんだ。
 Yよりも早く、家に帰らなくてはならなかった。
 
 
 
 
 

じわり その4

 ああっ、あっ。
 感情をむきだしにして、女は声をあげ、
 ついには、泣きはじめた。
 両手でYの背中を抱き、爪を立てた。
 痛みは感じるが、Yはここちよさを感じていた。
 うっ、と言って、女の体が急に固まる。
 もうやめて、と弱々しい声をだした。
 Yは勝ち誇ったように笑った。
 女の顔を上から見下ろしている。
 汗のふきだす横顔を、窓の外の女に向けていた。
 暗くても、Yがどんな顔をしているか知っている。
 憎いと言うより、哀しくなってきた。
 あたしを抱かないわけだ、と思う。
 ここまで証拠をつかんだから、もう用はない。
 腰をかがめ、両手を地面につけたままで車から遠ざかろうとした。
 ゆっくりと動いて行く。
 ゴツン。
 木に頭がぶつかり、あっと小さく叫んだ。
 地面に身を伏せた。
 耳の中で、どくんどくんと言う音が響く。
 胸の痛みを覚え、右手でロケットをつかんだ。
 あわてて家をでたせいで、錠剤を入れるのを忘れたのを思い出した。
 大失敗だが、どうしようもない。
 じっとしているしかなかった。
 両手を合わせて、神様に祈りはじめた。
 
 Yは、物音に気づいた。
 窓の外を見たが、何も見えない。
 暗闇が広がっているだけだった。
 「おい、眠ってないで運転しろ」
 荒々しく、女の体を揺さぶった。
 まるでロボットのようにむっくり起き上がると、女は衣服を身に付けはじめた。
 運転席に乗り移り、エンジンをかける。
 ふたりを乗せた車は、ホテルの門を通り、暗がりに消えた。
 林の中は、静けさをとりもどした。
 木にぶつかった女は、地面に横たわったままでいる。
 何故か両手を交叉させて、胸の上においていた。
 ざくざくざく。
 足音が近づいて来る。
 誰だろう。
 女は不安になった。
 車は行ってしまったのだから、Yではない筈だ。
 「もしもし」
 野太い声がした。
 女は、ぎょっとした。
 声の主が、誰だか分からない。
 何か言わなくては、と思うのだが、・・・・・・。
 すぐには返事をしないでいる。
 自分の身体が心配だったからだ。
 じっとして、異変が起こらないかと様子を見ていた。
 幸いに、ひどい発作は起こらない。
 「私です。運転手です」
 男は、優しい声で、言葉をおぎなった。
 「ありがとう」
 弱々しい声で、B子は礼を言った。
 
 本当にばかだなあ、とB子は自分の所業にあきれていた。
 いくらYのあとをつけるからと言っても、もう少し気持ちに余裕を持てば良かったのだ。
 素人が、探偵まがいのことを大急ぎでやろうとするから、こんな目に逢う。
 それにしても、夫は・・・・・・。
 ハローワークに行くと、午後遅く家を出た。
 あとをつけているのを、夫に悟られないように充分気をつけた。
 気になるのか、何度も後ろをふり返った。
 その度に、私は必死に物陰にかくれた。
 退職したはずの会社に向かっている。
 一体どうしたんだろう。
 何か用事でもあるんだろうか。
 私は、本気で夫を心配した。
 途中でパチンコ店に入ったが、一時間もたたないで、肩をがっくり落として出てきた。
 店の前で腕時計を見て、また歩き出した。
 辺りは、たそがれて来ていた。
 秋の夕暮れである。
 すぐに暗くなった。
 夫の姿を見失わないように、気をつかう。
 次に、喫茶店に入った。
 数十メートル先に、会社のビルがそびえていた。
 若い女が二、三人、夫に続いて店に入った。
 辺りは薄暗いので、彼女たちの顔はよく見えない。
 五分もしないうちに、Yは出てきた。
 ひとりではない。
 二人連れだった。
 わきにいるのは、女だった。
 私よりも、ずっと若い。
 よくも、よくも、今まであたしをだましつづけてきたものだと、悔しくて涙が出た。
 弱くなっている心臓の動きが、再び早まった。
 だめ、興奮しちゃ。妻であるあたしの方が強い立場なんだ。
 B子は、心の中で何度も、自分にそう言い聞かせた。
 「大丈夫ですか、さあ行きましょう」
 タクシーの運転手は、懐中電灯で足もとを照らすと、B子に肩を貸した。
 「ゆっくり行きますからね」
 「すみません」
 とっても優しい。Yとは、まったく違うわ。
 B子は、思わず運転手によりかかっていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

じわり その3

 郊外のラブホテル。
 楢やブナの林の中に、ひっそりとたたずんでいる。
 日が沈んで、しばらくになる。
 ひんやりした風が吹きすぎて行く。
 林の奥で、ときおりふくろうが鳴いた。
 一台の赤い乗用車が、ゆっくりとホテルに向かっている。
 助手席に、帽子をかぶったYの顔が見える。
 運転しているのは、三十がらみの女だ。
 ふたりは、上体を盛んに動かしている。
 ふいに車が停まった。
 「やめてよ、運転できないじゃないの」
 胸をまさぐるYの手を、女は払いのけようとした。
 「いいじゃねえか。しばらくぶりなんだぜ」
 女が邪険にすればするほど、Yの気持ちは高ぶる。
 「もう少しでホテルじゃないの」
 「そこまで我慢できねえんだ」
 「奥さんだっているんでしょ」
 「こんな時に、女房のことを言うなっ」と大声を出した。
 女はためらっている。
 「汗まみれの体なのよ。シャワーを浴びさせてよ」
 勤め帰りだった。
 Yがやめた会社の総務部で働いている。
 「いいさ。俺がきれいにしてやるからさ」
 Yの顔は興奮のせいか、紅くなっている。
 怒らせたら、こわい。
 女は骨身にしみて、知っている。
 出逢ったばかりは、とても優しかった。
 いたれりつくせり、といった感じだった。
 Yが初めてからだを求めた時、女はこばんだ。
 男を知らなかったからだ。
 Yは、逆上した。
 はたいたり、蹴ったりした。
 殺される、と思ったほどだった。
 まるでやくざのようだ、と思った。
 後悔の涙を流しながら、処女を失くした。
 女は道から外れ、林の中に乗りいれた。
 いっぱいに背もたれを倒すと、女はからだを横たえ、
そっと目を閉じた。
 Yは、荒っぽく衣服を脱がしはじめた。
 「破かないでよ。買ったばかりなんだから」
 「わかってる、そろっとやるから」
 はあ、はあ、はあ。
 Yの息遣いが荒くなっていく。
 女の衣服が、次々と、後部座席に投げ捨てられる。
 ズボンのポケットに丸めた下着をねじ込むと、Yは眼鏡をはずした。
 自分も上半身、裸になった。
 盛り上がった女の胸に、むしゃぶりついた。
 車の後方で、先ほどからタクシーが止まっている。
 「運転手さん、ちょっと待ってて下さいね」
 車内で、女の声がした。
 どこかで聞いたことがある。
 ドアをそっと開けると、林の中に足を踏み入れた。
 落ち葉の上を歩いて行く。
 Yの乗った赤い乗用車に近づくと、窓のそばで腰をかがめた。
 伸びあがるようにして、頭を次第にあげて行く。
 男と女が、激しくまぐわっている。
 一瞬驚いたが、予想していたことであった。
 のぞき見している女は心臓の鼓動が気になるのか、しきりに胸をさすっている。
 
 
 

じわり その2

 夫は、かがみこんで、妻の肩に手をおいた。
 「手がすべってね」
 言いわけをくちにした。
 夫のYがやさしく言っても、妻のB子は黙ったままだ。
 肩が小刻みに震えている。
 うつむいたまま、右手で長い髪を前に垂らした。
 「ほんと、大丈夫かい」
 Yの手がB子の髪をなで始めると、いやいやをするように、B子は首を横にふった。
 Yの顔が、急にこわばり、一瞬怒気をふくんだ。
 B子に向かって、何か言おうとして口を開けたが、言葉にならなかった。
 「あんたって、人は」
 強い調子で、B子はYに言いつのろうとしたが、途中でやめた。
 全部言ってしまいたい。
 そうすれば、気持ちがすっきりする。
 しかし、言えばケンカになることは明らかだった。
 長年のつき合いだ。
 Yがどんな種類の人間か、よくわかっていた。
 爆発しそうな感情を、ぐっとおさえこんだ。
 薬が効きはじめて、呼吸がだいぶ楽になって来ている。
 ここで怒っては、無駄になってしまう。
 B子は、そう思った。
 「なんだい」
 案の定、Yはケンカ腰で応えた。
 「ううん、別に何でもない。あとはあたしがやるから」
 やんわりと言う。
 「何でも言えばいいのに」
 Yは、にっこりした。
 あぶない、あぶない。B子、だまされてはだめだぞ。
 いつもこうなんだから。
 妻は、自分に向かってエールを送る。
 「どうもありがとう。茶の間で、テレビでも見ていて。お茶でも入れるから」
 無理に、笑顔をつくった。
 
 Yが短気なのは、婚約時代に気づいていた。
 いつかはなおるだろうし、自分がなおしてみせると、B子は思っていた。
 若い頃は、B子のうまいリードのおかげで、かなり気が長くなった。
 結婚して、娘ができてからはあまり怒らなくなった。
 しばらく平和な時代が続いた。
 退職して家にいるようになってから、悪くなった。
 何だか人が変わったようだ。
 今だって、そうだ。
 あたしが見ていないと思ったのか。
 あんなひどいことが出来たんだ。
 まるであたしが死ねばいいと言っているようなものだ。
 どうしてだろうと、B子は色々と思いめぐらす。
 ふたりの娘は結婚して、それぞれの旦那と円満に生活している。
 家族のことは、とりたてて何の心配もない。
 何かあるとすれば、それはどこから来ているのだろう。
 三十数年間、会社勤めをしてきた。
 人生の大半を過ごしたと言える。
 あたしが知らないのは、そこでの夫の振る舞いだ。
 部長にまで昇進したのだから、大した間違いは、冒してはいないだろう。
 しかし、夫婦と言っても他人同士だ。
 腹の内を、すべてさらけ出してはいるまい。
 Yを理解する鍵は、そこにある筈だ。
 目の前にいるYの目をじっと見つめて、B子はそんなことを考えていた。
 
 「なんだい、じっと見て。俺の顔に何か付いてるかい」
 あっと、B子は声をあげ、Yからあわてて目をそらした。
 「ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたものだから。ぼんやりしちゃったのよ」
 B子は苦笑いしながら、言った。
 「そんなら、いいけどさ」と、Yは顔に微笑みを浮かべた。
 Yは、柱時計を見上げると、
 「三時になるところだな。ニュースでも見るか」
 と、両手を上にあげて、ため息をついた。
 「ああ、あっ。慣れないことをすると、疲れるなあ」
 「お疲れさま。また、お願いします」
 Yはドアを開けて、廊下にでた。
 「やれやれ」とつぶやくと、B子は立ちあがった。
 棚の上に、台付きの小さな丸い鏡がある。
 B子は両手を伸ばして、それを取った。
 胸に抱くようにして、手でさすりはじめた。
 「お前は見ていたよね。これからもあたしを見守っていてね」
 まるで赤子に話しかけるように、優しく言った。
 
 
 
 
 
 

じわり その1

 テーブルをはさんで、髪に白い物が目立ち始めた夫婦が
向かいあっている。
 夫の方がふたつ年上だ。
 「あんた、これ、お願いね」
 テーブルにのった、洗ったばかりの食器を指さした。
 「はいよ」
 夫は、気軽に応じる。
 棚の中をのぞいては、一枚ずつしまっている。
 台所仕事をやったことがない夫にとって、どこに何があるのか、
まったく見当がつかない。
 「あったぞ」
 嬉しそうに言う。
 結婚して、三十二年。
 夫は五十七歳になった。
 会社勤めが、一区切りついた。
 部長までのぼった。
 もう少し平社員で勤めることもできたが、部下であった連中の
下で働くのはいやだと、あっさりやめた。
 ときどきハローワークに出かける。
 今までとは違った仕事がしたいと言う。
 仕事の上では、会社とは縁が切れたが、人間関係はそうではなかった。
 大きな秘密をかかえたままだった。
 
 妻は夫に背を向け、泡の付いた食器を丹念に水で洗い続けている。
 何枚目の食器をしまう時だろうか。
 夫は、大きめの白い皿を高くかかげた。
 妻の様子をうかがう。
 眼鏡の奥がきらりと光り、口の端でにやりと笑った。
 皿をつかんだ手を放した。
 ガチャン。
 ガラス製の灰皿にぶつかり、ふたつに割れた。
 妻の顔がふいに青ざめ、肩がすとんと落ちたように見えた。
 立っていられなくて、その場にすわりこんでしまった。
 どっきりした心臓を落ち着かせようと、右手を胸にあてる。
 唇が赤みを失くしている。
 ふうふう、ふううっ。
 何度か深呼吸をした。
 首にさげたネックレスを上にあげて、ロケットのふたを開ける。
 小さな入れ物を指先で押すと、プチッと音がした。
 白い錠剤を、急いで舌の付け根に押しこんだ。
 「あんた、気をつけてよ。知ってるんでしょ」
 わきにいる夫をにらんだ。
 「ごめん、ごめん」
 夫は、誤まって落としたふりをした。
 「大丈夫かい」
 優しい声をだして、妻に近づいた。
 
 
 
 
 

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事