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10月中旬の宮日「中央版」に、佐土原町観光協会主催 「福島県白河市や会津若松市を訪問。1868(慶応4)年の戊辰戦争白河口の 戦いで亡くなった、佐土原藩の戦没者19人を長寿院で墓参りし、鶴ヶ城で戊辰戦争 展を見学する。費用・・・定員20人・・・24日締め切り」・・・(当日の記事より) 「長寿院」が目に焼きついて入った。 ヤッター・・・これは、グーーーだぞ。・・・カレンダーを確かめ・・・ ツレアイにOKを取り、すぐ、申し込んだ。 ホワイ!・如何して?・・何故かと言うと・・・少々長くなるが・・・ 「長寿院」は、平成17年7月1日〜3日にかけて、従兄弟会5名で一度 お参りしたお寺であり、是非もう一度の思いの強い処であった。 島津啓次郎の「西南の役」に話しに戻る・・・が・・・ どこから・・・ドウ・・・書き出せばよいものか?・・・迷うが・・・ ・・・私の母方に曽祖父「小牧秀発」という人物がいる。 弘化2(1845)年8月生〜大正10(1921)年3月に没(満76歳) 彼は、八代目として「小牧家」の系図を「思源録」と命名して 明治17年3月1日付けでまとめ書き残した。初代は1603年から始まる・・・ それを縁戚の者が昭和4年2月加筆・修正・・・その後・・・ 平成になり縁者が2名(佐土原と東京在住の者)がワープロでまとめ、 難しい語句等は9ページの「参照」まで添えて、完成させた、100冊印刷 従兄弟の子どもや・・・つまり私の子どもたちまでは、配布してある。 曽祖父は、昌平館に学び(明治元年開校、同年6月から昌平大学と称された当時 最高の学校である。・・・10代藩主の長男又之進や次男武郎と共に学ぶ・・・ 佐土原町史より) ・ ・ ・ 明治10年には、鹿児島県御用掛として宮崎支庁に奉仕時に西南の役が勃発 ・・・職を辞して啓次郎や同士達と準備に奔走(この頃から日記を執筆)の後・・・ 佐土原隊の監軍(ナンバー3)として従軍した。 明治10年2月9日廣瀬神社を参詣し、鹿児島に向かった。〜〜 佐土原隊が隊としての機能しなくなった8月17日までを 「西南戦争従軍日誌」(上の写真の右ページ原本)を残し、かつ彼が、 1ヵ月後の9月17日上田嶋出張警視分署へ出頭〜〜大堂津から船で長崎へ。 3年の懲役刑の判決の後、また船で横須賀へ、。 そこから汽車で佃島(東京懲役所)へ。 11月10日には東京発〜宇都宮〜白川〜福島〜仙台〜古川〜花巻〜 岩手県盛岡の刑務所まで護送された。(九州各地から50名の者) その後、2年余の後 明治13年1月26日予定より早く刑を終え、監獄を出所。 しばらく東京に滞在して、11代忠亮公との接見、親戚・兄弟や同士・友人 との親交、持病とうの治療等々の後・・・ 4月24日廣瀬の袋谷に帰着するまでを 「北謫日誌」として書き綴り残していた。(上の写真の原本左ページ) 「西南戦争従軍日誌」と「北謫日誌」を一冊にまとめて出版したのは 母の大阪在住の従姉妹であった。(上から2番目、カバーと共の写真) (県立図書館や佐土原の図書館に贈呈してある) 昭和40年2月に解読・編集等をはじめて、完成出版したのは、3年後の 昭和43年3月31日であった。 この本の中に曽祖父がお参りした「長寿院」が記されていた。のである・・・ ・・・・続く・・・・
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> hid*****さん
2017/11/30(木) 午後 1:32 [ hid***** ]