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11月30日読了 物語は『火怨』の阿弖流為と坂上田村麻呂との戦いから100年ほど後の事。 朝廷は蝦夷たちを俘囚と侮り、陸奥の守という役職はただ単に次の官職へすすむため退屈でつまらない田舎に我慢しているだけの役職となっていた。 陸奥の豪族 安倍頼良(あべのよりよし) は蝦夷の地位を少しでも今よりもいいものにしたいとの考えから、息子 貞任(さだとう)の婚儀の席に 陸奥の守 藤原登任(ふじわらのなりとう)をまねき、豪勢な宴を催す。帰りには船に積みきれないほどの土産まで持たせてやる。 それは蝦夷の力を見せ付けようとの意図のもとに行われたものだったが、登任の欲に火をつける結果を生んでしまった。 頼良らは、登任を凡庸のものと考えていたのだが、蝦夷の富を見せ付けられそれを私せんものとした登任は策略家の顔をあらわにする。 安倍一族に無理難題を押し付け、何とか戦にこぎつけようとする。その姿を間近で見ていたものの一人に藤原経清(ふじわらのつねきよ)というものがいた。父親もまた以前陸奥の守を勤めていたのだが、朝廷内での策略に敗れ、その役職を奪われ、息子である経清は一地方を預かるのみとなっていた。 生まれは都だが、小さいときから陸奥に暮らす藤原経清は蝦夷たちのことをよく理解していた。 藤原登任の汚いやり方に辟易としながらも立場上、従わなければならない経清・・・心は次第に蝦夷たちのほうを向いていく。 長い長い物語です。5巻とはいえ、そこには平泉に藤原三代が生まれるまでの話、そしてその藤原氏が滅びていくまでの話が語られている。 ここに紹介したのは1巻目のホンのさわりにしか過ぎない。 5巻目を読み終わってこれを書いている今、悠久の時を旅してまた最初に戻ってきたような気がしている。ああ、ここから始まったんだ。と書きながらまた感動している。 『火怨』も蝦夷と朝廷の戦いを描いていたが、それは高橋克彦流に言えば、一気に燃え上がる炎のようだった。が、『炎立つ』 はそこに流れている時が何代にもわたっているためか、常にくすぶり続ける埋み火のように心に残る物語だ。 5巻まで一気に読んでしまったが、高橋さんの文章は簡潔ですっと入ってくるからストレスがない。読んでいていやみがない。 北国の冷たい風が、そこに流れる熱い心が、感じられる一冊。
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今日読み終わった本、以前読んだ本、などの感想をつづっていきます
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以前、遠野の産直で買った本。産直でこういう本を売っているところが遠野のすばらしいところです。 内容は、東北の言葉を縄文から続いている言語と位置づけ、「東北弁」ではなく、『縄文語』と名づけることで、この言葉たちを見直しています。 振興の弥生文化が縄文文化を東に追いやると同時に言葉も侵攻していく。東北言葉というのは、中央の言葉がなまったのではなく、もとからある縄文の言葉が残っているのだという。それは同じ言葉を語源とする言葉が全国に散らばっていることからもわかるのだとか… 見開き一ページごとにひとつの言葉を取り上げて解説しているのがわかりやすかったです。 ただ、もうちょっと言語学的なことが書かれているのかと思ったら、作者のこうじゃないか、こう思う、ということが主だったので「あれ?」という感じはしました。 でも、言葉をめぐるひとつのエッセイとして読むと面白い一冊。 「陰陽師」ワールドに連なる妖艶な平安物語絵巻 という帯、そしてその表紙に惹かれてついつい買ってしまった。(忙しいって言ってる割には本屋に行く時間は惜しまないんだよね…) 「染殿の后 鬼のため 擾乱せらるる物語」 「紀長谷雄 朱雀門にて女を争い 鬼と双六をする語」 「篁物語」 の3つの短編からなる一冊。 まさしく妖艶。まぁエロスとバイオレンスの夢枕さんですから、3編ともとてもエッチなお話になっております。そこに天野さんのため息ものの美しい挿絵がまた、たまらない魅力。 文庫にしては厚めの本なんですが、絵巻というだけあって、絵も大目だし、何より話が面白いので、あっという間に読んでしまいました。 平安の妖たちが「わらわらと」でてきそうな一冊。 御宿かわせみシリーズも31冊目。おるいさんと東吾さんは夫婦でいるのもすっかり板について、落ち着いた雰囲気です。お話の主人公も徐々に子どもたちになることが多くなってきています。 世話物、人情話ももちろんいいのですが、ドキドキ感はない、いつもの仲間たちのいつもの活躍を安心して読める一冊。 2冊まとめて、ですが、岡本太郎の言葉、が一ページごとに心に飛び込んでくる。 芸術に対する気持ち、想いがストレートに伝わってくる『壁を破る言葉』 生きるということに対する真摯な気持ちを飾りのない言葉で伝えている『強く生きる言葉』 きっとこれからもすぐ手の届くところにおいて折に触れ、読み返すであろう2冊。
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最近、高校一年の長男が反韓国、反中国のサイトにはまっている。元は日本のアニメやマンガが韓国や中国でとんでもない扱いになっていたり、おかしなことになっているのを見て楽しんでいたようなのが、そこから韓国や中国を批判したりするサイトにとんで行って、すっかりこの2国が嫌いになっている様子… ちょっと待てよ、と「物事というのは一方からだけ見ていると見誤るぞ」と言ったのですが、どうも空返事。 そこで、なぜ、韓国や中国が日本を批判するのか、日本がどんなことをしてきたのか、と言う正しい知識が不足しているんじゃないかと思ったわけです。だって、学校の教科書には国の都合の悪いことは書いてないわけでしょ。それが教科書検定制度なわけでしょ? だんなや私が日本は戦争で近くの国々にひどいことをしてきたんだ、と言っても私たち自身戦争というものを知らないし、その辺の知識もしっかり持っているわけでもないので、いまいち説得力がない。 そんな時、いつも利用している共同購入の中に本を扱うものもあるのですが、そこで紹介されていたのがこの「日本という国」でした。 特集を組んで紹介していた記事を読んで、早速注文しました。 そこには 明治以後のこの「日本という国」のやってきたことがとてもわかりやすく、丁寧に、過不足なく、書かれていました。 なぜ、みんながみんな学校に行かなくてはいけないのか、戦争のとき日本がしてきたこと、そのときに受けた傷、そして何をしてこなかったか、そして、周辺の国々が日本をどう思っているのか…をきちんと筋道を立てて説明してくれています。 なので、学校で近代史、なんかまるで興味のなかった私のようなものでも理解できたし、なによりとても面白く納得しながら読めました。 いろいろな本やテレビ、新聞などからある程度の知識は得ているつもりでした。それでもまだまだ私の得ている知識は中途半端だったなぁ、って思うと同時に、こういうことって学校できちんと教えるべきことなんじゃないかなぁとも思ったのでした。 後はこの本を息子にどうやって薦めようか…薦め方を誤ると、読んでもらえないからね。 我が家では、そんな課題を持っている一冊。
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10月14日(土)読了。 泣いた。特に後半、ページをめくるごとに涙があふれて仕方がなかった。だから朝、仕事行く前にちょっと読んだ日なんか目がはれてどうしようかと思った。そんなときは読まなきゃいいのに、つい面白くて読んじゃうんだよね。 以前、時代物大好き企画が始まる前に月野さんが、「高橋克彦、陸奥三部作を読んだ」 という記事を書いていて、うちにも本があるのに読んでないなぁとおもって読み始めたんです。そしたら面白い。 こんな面白いのにこれまで読んでなかったなんて、なんてもったいないことをしていたんだろうと激しく後悔したのでした。 あらすじ 陸奥の地に平和を愛し、自然とともに住む民があった。その名を蝦夷という。 朝廷からは辺鄙な土地に住む卑しい民と蔑まれ、獣にも等しいもの、と打ち捨てられていた。 が、この地から出る黄金を欲した朝廷は蝦夷討伐に乗り出す。 蝦夷たちは自分たちの生活に必要のない黄金になど興味はなかったが、『人』としての扱いを求めて朝廷と戦うことを決意する。 蝦夷の民らはそれぞれの部族ごとに長がいて纏めていたが、朝廷という大きな敵を相手にするにはその力をひとつに纏めるものが必要となる。 戦を前に長たちが集まる合議の場で、胆沢の長 阿久斗(あくと)の息子 阿弖流為(あてるい)が皆を率いることになる。このとき若干18歳。 軍師にその天才的な頭脳で敵の裏の裏まで読みつくす、黒石の母礼(もれ)。 はじめ離反して朝廷につこうとしたが、阿弖流為の言葉に心を動かされ、その後右腕となる飛良手(ひらて)。 陽気で血の気は多いが常に阿弖流為の理解者である伊佐西古(いさしこ)。 力強い仲間を得、物部一族からはさまざまな物資、援助を受け、次々と朝廷から遣わされる討伐隊を退けていく。 何度も繰り返される戦いの中で、成長していく阿弖流為。どうすれば朝廷は蝦夷を『人』として扱うようになるのか、われらも都の人と同じ血の通う人間であるとわかってもらうにはどうすればよいのか、これからの蝦夷が平和に暮らしていくために阿弖流為が取った方法は…… あらすじを書きながらまた泣いてしまった… 権力を持たざるものの、誇りを貫くための戦い。その覚悟に泣けるんだろう。
高橋克彦さんは地元ということもあり、何度かお見かけしたことがある。あるイベントではサインをいただき、握手もしていただいた。(本も読んでなかったくせに…)ある耳鼻科に子どもを連れて行ったときに待合室にいるのを見て驚いたこともある。
地元で年一回「文士劇」という催し物があるが毎年高橋克彦さんも参加している。ニュースで報道されるが、本を読んでいなかった私はちょっと変わった格好をしているおじさん(失礼!!)という印象しかなかった… あぁ、申し訳ない。今後は常にこの本をバッグに入れて何時何処で 出会ってもいいように心構えをしておかなくては!(何の心構え?もちろんあらためてサインをいただくのよ) すっかり話がヨコミチにそれた。 が、こうでもしないとまた泣けてきてしまう。 なので、阿弖流為の最後の言葉をここに記し、この記事を終わらせよう。 「俺たちはなにも望んでおらぬ。ただそなたらと同じ心を持つ者だと示したかっただけだ。蝦夷は獣にあらず。鬼でもない。子や親を愛し、花や風に喜ぶ……」 |
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9月25日(月)読了 最初にこの本を読んだのはもう10年位前になるかもしれない。渋澤龍彦の本の中に書いてあって興味を持ったのがきっかけだから、本の存在について知ったのは20年ほど前になるだろうか。 その後、児童文学にはまり、物語についていろいろな著作がある河合隼雄の本を読みだし、ここにも「とりかえばや」が出てくる。そういえば読んだこと無かったなぁと、思って読んだのがそのくらいのころだと思う。 本屋で見つけてたまたま手に取ったのがこのちくま文庫の中村真一郎訳のものだったのですが、ほかにも、川端康成、桑原博史、永井龍男、田辺聖子 訳のものがあるらしい。川端訳、が面白そうです。 まずはあらすじ… 時代は平安。容貌、学問、評判、そしてその地位においても何一つ不満の無いほどの左大臣(この物語には名前は出ず、その官位でのみ呼ばれるので、官位が変わると呼び名も変わります。この時は左大臣ではなかったのですが、いちいち変えていると面倒なのでこれで通します。そのほかの人も同様に最初の官位で通します…)だが、ひとつだけ悩みがあった。それは子どものことだ。 二人の奥方があり、おのおの一人ずつ息子と娘があった。(どちらが兄か、姉かというのも諸説あるので、ここでは問わないことにする)この息子が女性的で、娘が男性的であることが左大臣の悩みだ。子どものうちは成長すれば普通になるだろうと思っていたが、一向にあらたまる様子は無い。 どちらも類まれな美しさと何事にも秀でた才を持っていたため、やがて天皇の耳にも評判が聞こえ、ぜひ出仕するようにとのお達しが出る。左大臣は悩むが、娘を男として、息子を女として仕えさせることにする。 娘は男として仕事を立派にこなし、官位も順調に上がっていき、やがて右大臣の末娘(四の君)と結婚までする。(以後、中納言) 息子は女として春宮(前帝、朱雀院の娘の女宮)に尚侍(ないしのかみ)としてつかえる。(以後、尚侍) さて、ここに宰相中将という男がいる。この男、上品で優美な人物だが女と見ると見境が無い。尚侍の美しさを聞けば中納言にぜひ逢わせろとせまり、四の君を手に入れたいと思えば、中納言の留守に押しかける… やがて四の君は宰相中将の子を身ごもる。中納言は嘆くが自分がこんな体だから、と仏門に入ることを考え始め、吉野の里に隠者を訪ねたりする。 一方、尚侍は春宮と近く接するうちに男として関係するようになる。 ある夏の日、尚侍に逢いたさに訪ねてきた宰相中将は、夏の暑さにあられもない格好で休んでいた中納言と話しているうち、気持ちが高ぶり、関係をもってしまう。 妊娠してしまった中納言は他にしようもなく女姿となり、宰相中将の世話になることにする。 行方をくらましてしまった中納言を案ずる尚侍は男姿となり、探しに出た際、出会ったのだが、二人とも姿を変えているので気づかずに行過ぎてしまう。その後吉野の隠者をたずね、男姿に慣れるために、しばらくそこに滞在する。 無事出産を終えた中納言は、ただ、男の帰りを待つばかりの生活にはなじむことができないでいた。そこで、信用できる人物に吉野の隠者への手紙を託した。そこで尚侍は中納言と文のやり取りができ、お互い男姿、女姿として対面を果たす。 尚侍はころあいを見て中納言を連れ出し二人でしばらく吉野の里に隠れお互いの情報交換をした後、それぞれ尚侍は中納言として、中納言は尚侍として生きることになり、ここに『とりかえ』が成就する。 長くなりましたが、ものすごい駆け足です。その後もまだ物語は続きますが、まぁめでたしめでたしで終わりとなります。 なにぶん平安時代にかかれたものなので、何をするにもたっぷりと時間がかかります。登場人物たちは何か事あるごとに涙を流し、嘆き、寝込みます。そこらへんはちょっとうっとおしいなぁと思うところなのですが、それが雅というものなのでしょう。 この物語の面白いところはなんといっても「とりかえ」です。男である、女である、ということは、今でこそ手術やなんかで途中で変えることができますが、古来そう生まれたからには変えられないものでした。 こうであるとみんなが思い込んでいることを軽々とくつがえしてしまう、ここが面白い。 優れた芸術というのは感情をかき混ぜる(あるいは、かき乱す)効果を持つという。 この物語にもそんな効果がありはしないだろうか。 一方、私は女として生まれてきたので、どうしてもこの物語では中納言に感情移入して読んでしまう。 自分が女であるということをなかなか受け入れられない時期がある女の子は多い。私もまたそうだった。 自分のことを『僕』と呼ぶ女の子は少なくありませんし、自分のことを男の子に置き換えて『ヤオイ』にはまっちゃったりするのもそういった感情と無関係では無いように思います。 けれど、それは中学、高校の一時期、一過性のもののようです。中にはそのままおなべになっちゃったりする人もいるでしょうけど… ここにはそんな女の子たちが自分を女として受け入れる過程が描かれているように思うのです。 「性同一性障害」なんて言葉を聞くと最近のことのように感じますが、言葉としてなくても昔っからそういったことってあったんだろうし、人間ってそうそう変わったりはしないものなのかもしれない、なんてことを思ったりする一冊。
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