■菊池事件の国賠訴訟を熊本地裁に提起予定2017年8月29日
■【えん罪死刑執行】≪「Fさんが殺されました!!不当な死刑執行です!」≫
■今後に報道があるでしょう。
菊池事件
私はハンセン病国賠訴訟を担当しました。
菊池事件は司法関係者にまでも蔓延ったハンセン病差別がなければ、
存在しなかった死刑えん罪事件です。
ハンセン病ゆえに彼は追い詰められ、拳銃で撃たれ、自白調書を作られ、非公開で審理され、有効な弁護をうけられず、粗雑な証拠評価と事実認定によって死刑を強いられました。
刑事訴訟法は再審請求人として当の本人を挙げています。
しかし死刑執行後再審にあっては、当の本人は存在しません。
生前どれほど雪冤を叫び、再審を求めていたとしても、刑の執行によってその口は閉ざされてしまいます。
誰かが死刑執行後再審を当の本人に代わって請求できるのでなければ法の趣旨は生かされません。
この点では死刑執行後再審である福岡事件や飯塚事件も同じです。
このたび検察官にこの菊池事件の再審請求をするように要請しました。
検察官は被疑者を取調べ起訴し有罪とし刑の執行指揮を行うとともに、あらゆる事件について再審請求をなすべき職責を担っています。
検察官は国の刑事司法における正義を、捜査、起訴、裁判、刑の執行、誤判是正の全般にわたって、監督し維持する権限と義務を負託されています。
検察官には菊池事件に全力を傾注しその任を果たすべき時がめぐって来ました。
その職責の重大さに相応しい、事件検証がなされるように注目して行きたいと思います。
それでは事件を見てみましょう。
この事件は1952年7月6日熊本県菊池で発生した殺人事件にかかわる冤罪事件です。
この事件の冤罪被害者Fさんは、1951年ハンセン病であるとされてハンセン病療養所への入所を強いられます。
第2次無らい県運動の真っ只中で当時のハンセン病療養所は終生絶対隔離の収容所でした。
町中からハンセン病者を炙りだし狩り込んでは一生閉じ込めておく場でした。
Fさんは母と幼い兄弟の生活を守るため家族の柱として働いていました。
ハンセン病を否定しハンセン病療養所への入所を拒み続けました。
その8月いわゆるダイナマイト事件が発生します。
この事件で逮捕されたFさんは否認しますが、翌52年6月療養所内の特別法廷で懲役10年の有罪判決を受けます。
控訴後にFさんは、受け入れられない刑事裁判とハンセン病療養所への隔離に絶望して死を思い逃走します。
その逃走中に殺人事件が発生し犯人にされてしまいました。
1953年9月29日第1審で死刑判決、1954年12月13日控訴棄却、1957年8月23日上告は棄却され、死刑判決が確定しました。
逮捕・取調時における被疑者の権利を剥奪し、隔離施設内での特設法廷によって裁判公開の原則を踏みにじりました。
刑事裁判における実質的な当事者権・弁護権の保障はなく、
刑事裁判の鉄則である厳格な証拠主義にも違反しました。
一貫して罪を争ったにもかかわらず第1審死刑判決書はたったの6枚。
有罪証拠の標目を並べるだけで判断過程を示していません。
その控訴審判決はたったの2枚。
死刑判断の理由はわずか3行です。
死刑判決を確定させた上告審判決は3枚で上告理由に対して「原判決が所論のごとく偏見と予断により事実を認定したと認むべき資料も存しない」としました。
しかし明らかにこの刑事裁判は、手続きにおいても証拠評価においても、
ハンセン病への「偏見と予断」を「健全な社会常識」であると誤解してなされたものです。
当時の司法関係者はそれに気づかなかったのです。
この事件の問題点が世に知られるところとなり、裁判のやり直しと死刑執行を阻止するための運動が大きくなります。
数多くの人々の支援によって第1次再審請求から第3次再審請求までの手続きがとられます。
1962年9月13日に第3次再審請求は棄却されます。
この棄却2日前11日に死刑執行命令は許諾されていました。
そのうえで棄却翌日14日13時7分死刑は執行されてしまいました。
再審請求を棄却するところは裁判所。
死刑執行命令の許諾は法務省・法務大臣。
その段取りの良さにあらぬ疑いまでかけてしまいそうです。
いわゆるハンセン病国賠訴訟判決は、私たちの国には法律と政策に主導されたハンセン病差別が蔓延し、関連する法律や法的手続きがことごとく差別と偏見に満ち満ちていことを確認しました。この菊池事件の冤罪被害者もハンセン病に罹患しているとして捜査及び公判さらには死刑執行まで差別的な刑事司法を強いられました。
ハンセン病国賠訴訟判決はハンセン病に対する差別偏見を「誤った社会認識」と表現します。
それは個々人の偏見差別観をこえて、社会常識であり、社会通念であり、社会道徳であり、さらに言えば、宗教観であり、良心であり、美意識もまた誤らせていた。
そのうえでハンセン病に関する法律も政策もその根本が間違っていたというのです。
裁判において判断のものさしとなるのは「健全な社会常識」です。
社会常識には「健全」なものと「不健全」なものとが存在するということを前提としています。
そのこと自体は正しいのですが、はたして裁判のものさしとして使われた当時の「社会常識」が健全であったかというとどうでしょう。
確かに当時は「健全」であると信じられていました。
しかし信じられていたことが正しいとはいえません。
私たちはハンセン病をめぐる法制度を明らかに誤っていました。
それは「社会常識」をも包摂して間違っていたことを示しています。
ハンセン病差別に由来する「不健全な社会常識」によって死刑執行されたえん罪について、私たちがどのようにして雪冤し、これを刑事司法改革にどう結び付けるのか。
これがこの事件の本質だと思います。
死刑制度の適否は刑事裁判の実際と相関して考える必要があります。
誰もえん罪死刑を良しとする人はいないでしょう。
しかし冷静に考えてみると、刑事判決がどこまで行っても仮説である以上、死刑制度はえん罪死刑を容認する制度と考えるしかありません。
私たちの社会はえん罪死刑を維持しなければ社会治安をほんとうに保てないのでしょうか。
人口比での殺人の数は世界有数に少ない国です。
ところが私たちの社会より人口比で多くの殺人件数率をもつ国々。
その3分の2を超える国が法律上・事実上死刑をすでに廃止しています。
死刑を廃止したからといって、犯罪率が増加したという統計はありません。
逆に減少したという報告は少なくありません。
私たちの社会で死刑制度を継続する正当性はあるのでしょうか。
被害感情を優先するということかもしれませんが、はたしてこの被害感情というものは社会制度を設計するうえでどのような正当性をもたせることができるのでしょうか。
被害者が死刑を望まなければ死刑にしないなどという制度設計が困難なように、刑罰の枠組みを形造る直接的な要因として位置づけることは困難です。
死刑を求刑し、宣告し、執行を命令するのは、検察官であり、裁判官であり、法務省・法務大臣です。
でもそれをさせているのは私たちです。
私たちは施行された死刑に責任をもたなければなりませんし、えん罪死刑であればなおさらです。
犯罪被害者の悲しみと叫びを聞けば、死刑もやむなしと思われるかもしれません。
他面あなたやあなたの家族がえん罪で死刑を宣告されたときでも、あなたはその死刑を受け入れることができますか。
藤本事件
藤本事件(ふじもとじけん)とは1951年(昭和26年)に熊本県菊池郡で発生した爆破事件および殺人事件である。地名を取って菊池事件と呼称する場合もある。
事件の概要
第一の事件
ダイナマイト自体は完全には爆発しなかった。
衛生課職員とその子供が軽傷を負った。
警察は、同村の住民・藤本松夫(当時29歳)を容疑者と断定した。
この入所勧告を被害者職員の通報によるものと逆恨みしての犯行とされた。
藤本はこのダイナマイト事件で逮捕された後、恵楓園内の熊本刑務所代用留置所(外監房)に勾留[1]され、裁判は熊本地裁菊池恵楓園出張法廷で行われた[1]。
裁判ではダイナマイトの入手先が解明されなかった。
第二の事件
藤本はダイナマイト事件一審判決直後の1952年6月16日に恵楓園内の菊池拘置所から脱獄した。ところが、3週間後の7月7日午前7時ごろ、村の山道でダイナマイト事件の被害者職員が全身20数箇所を刺され惨殺されているのが登校中の小学生に発見された。
その6日後、山狩りをしていた警官や村人らによって発見された藤本は、誰何されて崖の上の小屋から飛び降り、畑を通って逃げようとした際に拳銃で4発撃たれ、右前腕に貫通射創を受けて逮捕された[1]。
検察はこの犯行を「執拗に殺害を計画し、一回目は失敗し、二回目に達しており、復讐に燃えた計画的犯行」であるとした[1]。
懲役刑および死刑の確定後も藤本は通常の刑務所や拘置所に移送されることなく、恵楓園内の菊池医療刑務支所に収容されたまま3度の再審請求を行った。
3度目の再審請求が棄却となった翌日のことであった。
支援団体
全国ハンセン氏病患者協議会は、岩波書店の雑誌課長らを中心に結成された「藤本松夫さんを死刑から救う会」とともに早くから藤本を支援していた。
1960年には支持者は政党人、作家、文化人、宗教家ら1000名に達し、
公正裁判を求める署名は50000筆を超えた[1]。
捜査および裁判に対する疑問
捜査および裁判では次のような疑問点が指摘されている。
捜査段階
(爆破事件について)爆破に使われた導火線や布片が被告人の家から発見されたとする。だが、当時は衣料切符による配給制度がとられていたため、同じ生地はどの家にもあった[1]。
取調べは、銃弾が貫通した腕の痛みを無視して行われた[1]。
被疑者の逮捕時に着ていた上着に血痕がなかった。
タオル1本からA型の血液が検出された。藤本も被害者もA型である[1]。
凶器とされた短刀が、現場付近からではなく歩いて10分も離れた農具小屋から発見された[1]
当時の技術では短刀から血痕が検出されなかった。
それは農具小屋の傍らの池で被告人が洗ったためだとされた[1]。
最初の調書では凶器は鎌とされていた。
しかし、検死の結果、短刀に切り替えられた[1]。
藤本の逃走中に、藤本に罪を着せれば逃げられると考えて窃盗事件を起こした者がいた。
衛生課職員は村では恨まれていたので動機のある者は他にもいる[1]。
裁判
第一の事件と同様、第二の事件も、最高裁判所の決定に基づき、審理は裁判所ではなく療養所内に設置された特設法廷で行われた[3]。
そのうえ裁判官、検察官、弁護人らは感染を恐れ、白い予防服とゴム長靴を着用し、ゴム手袋をはめた手で証拠物を扱い、調書をめくるのには火箸を使っていたという[4]。
藤本事件は、到底、憲法的な要求を満たした裁判であったとはいえないだろう」と指摘した[3]。
題材にした作品
この事件に取材して、冬敏之が『藤本事件』という小説を書いている。(『民主文学』掲載)
この事件を基にして、中山節夫が『新・あつい壁』という映画をつくっている。
この事件をモデルにして、木々高太郎が「熊笹にかくれて」という小説を書いている。(桃源社)
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m 全国ハンセン氏病患者協議会編 『全患協運動史 ハンセン氏病患者のたたかいの記録』 一光社、2002年。ISBN 4-75289531-5。 65〜68頁
- ^ 死刑の[昭和]史、池田浩士、149頁
- ^ a b ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書 3.藤本事件の真相 日弁連法務研究財団ハンセン病事業検証会議 (PDF)
- ^ 1955年3月12日付け上告趣意書より
- ^ 日弁連法務研究財団ハンセン病事業検証会議 第1回ハンセン病問題検討会議事録 (PDF)
参考文献
事件・犯罪研究会、村野薫 編 『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』 東京法経学院出版、2002年、713頁。
池田浩士 『死刑の昭和史』 インパクト出版会、1992年、126〜154頁。
関連項目
外部リンク
www5b.biglobe.ne.jp/~naoko-k/whatkkch.html -
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www.pref.kumamoto.jp/.../UploadFileOutput.ashx?...
4 歳)が負傷するという事件が発生した。同年 8 月 3 日、同村在住の F 氏が、殺人未遂 、. 火薬類取締法違反の疑いで逮捕された。 F 氏はハンセン病患者であるということで、 菊池恵楓園内の施設へ勾留され、同園内で裁. 判を受け、翌 1952(昭和 27)年 6 月 9 ...
yabusaka.moo.jp/fujimoto.htm -
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blog.goo.ne.jp/.../e/3c20f119c49439f02ab8954fd9c40573 -
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mainichi.jp/articles/20170401/ddn/012/040/025000c
2017年4月1日 - ハンセン病患者の裁判が隔離施設などに設置した「特別法廷」で開かれた問題で、最高 検と熊本地検は31日、検察が関与した責任を認めて謝罪する一方、患者とされた男性 が殺人罪などに問われて特別法廷で死刑となった「菊池事件」 ...
kotobank.jp/word/菊池事件-1497704 -
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朝日新聞掲載「キーワード」 - 菊池事件の用語解説 - 1951年に熊本県水源村(現菊池 市)衛生課の元職員宅でダイナマイトが爆発し、ハンセン病患者とされた男性(当時29) が殺人未遂容疑などで逮捕された。国立療養所菊池恵楓園への入所を勧告されたこと ...
www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/.../4a16.pdf
第四 1953 年の「らい予防法」. 第 3 藤本事件の真相. 一 はじめに. 藤本事件とは、 1951 年に熊本県菊池郡水源村(現菊池市)で起きた 2 つの事件(ダイナマイト事. 件、 殺人事件)を呼ぶ。1951 年 8 月 1 日午前 2 時頃、ダイナマイトによる「殺人未遂」事件 が ...