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大日本帝国憲法 全文



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憲法発布略図 明治22年 楊洲周延画




大日本帝国憲法

目次


告文

皇朕レ謹ミ畏ミ
皇祖
皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク
皇祖
皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト為シ外ハ以テ臣民翼賛ノ道ヲ広メ永遠ニ遵行セシメ益々国家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス惟フニ此レ皆
皇祖
皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス而シテ朕カ躬ニ逮テ時ト倶ニ挙行スルコトヲ得ルハ洵ニ
皇祖
皇宗及我カ
皇考ノ威霊ニ倚藉スルニ由ラサルハ無シ皇朕レ仰テ
皇祖
皇宗及
皇考ノ神祐ヲ祷リ併セテ朕カ現在及将来ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラムコトヲ誓フ庶幾クハ
神霊此レヲ鑒ミタマヘ

憲法発布勅語

朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス
惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ朕我カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ其ノ朕カ意ヲ奉体シ朕カ事ヲ奨順シ相与ニ和衷協同シ益々我カ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚シ祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシムルノ希望ヲ同クシ此ノ負担ヲ分ツニ堪フルコトヲ疑ハサルナリ

大日本帝国憲法

朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ万世一系ノ帝位ヲ践ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ発達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼賛ニ依リ与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履践シ茲ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム
国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ
朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス
帝国議会ハ明治二十三年ヲ以テ之ヲ召集シ議会開会ノ時ヲ以テ此ノ憲法ヲシテ有効ナラシムルノ期トスヘシ
将来若此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ之ヲ議会ニ付シ議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ
朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ為ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及将来ノ臣民ハ此ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フヘシ
御名御璽
明治二十二年二月十一日
  • 内閣総理大臣 伯爵 黒田清隆
  • 枢密院議長 伯爵 伊藤博文
  • 外務大臣 伯爵 大隈重信
  • 海軍大臣 伯爵 西郷従道
  • 農商務大臣 伯爵 井上 馨
  • 司法大臣 伯爵 山田顕義
  • 大蔵大臣兼内務大臣 伯爵 松方正義
  • 陸軍大臣 伯爵 大山 巌
  • 文部大臣 子爵 森 有礼
  • 逓信大臣 子爵 榎本武揚

大日本帝国憲法

第1章 天皇

  • 第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
  • 第2条皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
  • 第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
  • 第4条天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
  • 第5条天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
  • 第6条天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
  • 第7条天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス
  • 第8条天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
    2 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
  • 第9条天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス
  • 第10条天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル
  • 第11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
  • 第12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
  • 第13条天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
  • 第14条天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
    2 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
  • 第15条天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス
  • 第16条天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス
  • 第17条摂政ヲ置クハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル
    2 摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ

第2章 臣民権利義務

  • 第18条日本臣民タル要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル
  • 第19条日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得
  • 第20条日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス
  • 第21条日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ納税ノ義務ヲ有ス
  • 第22条日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ居住及移転ノ自由ヲ有ス
  • 第23条日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ
  • 第24条日本臣民ハ法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権ヲ奪ハルヽコトナシ
  • 第25条日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外其ノ許諾ナクシテ住所ニ侵入セラレ及捜索セラルヽコトナシ
  • 第26条日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルヽコトナシ
  • 第27条日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルヽコトナシ
    2 公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル
  • 第28条日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
  • 第29条日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス
  • 第30条日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得
  • 第31条本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ
  • 第32条本章ニ掲ケタル条規ハ陸海軍ノ法令又ハ紀律ニ牴触セサルモノニ限リ軍人ニ準行ス

第3章 帝国議会

  • 第33条帝国議会ハ貴族院衆議院ノ両院ヲ以テ成立ス
  • 第34条貴族院ハ貴族院令ノ定ムル所ニ依リ皇族華族及勅任セラレタル議員ヲ以テ組織ス
  • 第35条衆議院ハ選挙法ノ定ムル所ニ依リ公選セラレタル議員ヲ以テ組織ス
  • 第36条何人モ同時ニ両議院ノ議員タルコトヲ得ス
  • 第37条凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス
  • 第38条両議院ハ政府ノ提出スル法律案ヲ議決シ及各々法律案ヲ提出スルコトヲ得
  • 第39条両議院ノ一ニ於テ否決シタル法律案ハ同会期中ニ於テ再ヒ提出スルコトヲ得ス
  • 第40条両議院ハ法律又ハ其ノ他ノ事件ニ付キ各々其ノ意見ヲ政府ニ建議スルコトヲ得但シ其ノ採納ヲ得サルモノハ同会期中ニ於テ再ヒ建議スルコトヲ得ス
  • 第41条帝国議会ハ毎年之ヲ召集ス
  • 第42条帝国議会ハ三箇月ヲ以テ会期トス必要アル場合ニ於テハ勅命ヲ以テ之ヲ延長スルコトアルヘシ
  • 第43条臨時緊急ノ必要アル場合ニ於テ常会ノ外臨時会ヲ召集スヘシ
    2 臨時会ノ会期ヲ定ムルハ勅命ニ依ル
  • 第44条帝国議会ノ開会閉会会期ノ延長及停会ハ両院同時ニ之ヲ行フヘシ
    2 衆議院解散ヲ命セラレタルトキハ貴族院ハ同時ニ停会セラルヘシ
  • 第45条衆議院解散ヲ命セラレタルトキハ勅令ヲ以テ新ニ議員ヲ選挙セシメ解散ノ日ヨリ五箇月以内ニ之ヲ召集スヘシ
  • 第46条両議院ハ各々其ノ総議員三分ノ一以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開キ議決ヲ為ス事ヲ得ス
  • 第47条両議院ノ議事ハ過半数ヲ以テ決ス可否同数ナルトキハ議長ノ決スル所ニ依ル
  • 第48条両議院ノ会議ハ公開ス但シ政府ノ要求又ハ其ノ院ノ決議ニ依リ秘密会ト為スコトヲ得
  • 第49条両議院ハ各々天皇ニ上奏スルコトヲ得
  • 第50条両議院ハ臣民ヨリ呈出スル請願書ヲ受クルコトヲ得
  • 第51条両議院ハ此ノ憲法及議院法ニ掲クルモノヽ外内部ノ整理ニ必要ナル諸規則ヲ定ムルコトヲ得
  • 第52条両議院ノ議員ハ議院ニ於テ発言シタル意見及表決ニ付院外ニ於テ責ヲ負フコトナシ但シ議員自ラ其ノ言論ヲ演説刊行筆記又ハ其ノ他ノ方法ヲ以テ公布シタルトキハ一般ノ法律ニ依リ処分セラルヘシ
  • 第53条両議院ノ議員ハ現行犯罪又ハ内乱外患ニ関ル罪ヲ除ク外会期中其ノ院ノ許諾ナクシテ逮捕セラルヽコトナシ
  • 第54条国務大臣及政府委員ハ何時タリトモ各議院ニ出席シ及発言スルコトヲ得

第4章 国務大臣及枢密顧問

  • 第55条国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
    2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
  • 第56条枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス

第5章 司法

  • 第57条司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ
    2 裁判所ノ構成ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
  • 第58条裁判官ハ法律ニ定メタル資格ヲ具フル者ヲ以テ之ニ任ス
    2 裁判官ハ刑法ノ宣告又ハ懲戒ノ処分ニ由ルノ外其ノ職ヲ免セラルヽコトナシ
    3 懲戒ノ条規ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
  • 第59条裁判ノ対審判決ハ之ヲ公開ス但シ安寧秩序又ハ風俗ヲ害スルノ虞アルトキハ法律ニ依リ又ハ裁判所ノ決議ヲ以テ対審ノ公開ヲ停ムルコトヲ得
  • 第60条特別裁判所ノ管轄ニ属スヘキモノハ別ニ法律ヲ以テ之ヲ定ム
  • 第61条行政官庁ノ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟ニシテ別ニ法律ヲ以テ定メタル行政裁判所ノ裁判ニ属スヘキモノハ司法裁判所ニ於テ受理スルノ限ニ在ラス

第6章 会計

  • 第62条新ニ租税ヲ課シ及税率ヲ変更スルハ法律ヲ以テ之ヲ定ムヘシ
    2 但シ報償ニ属スル行政上ノ手数料及其ノ他ノ収納金ハ前項ノ限ニ在ラス
    3 国債ヲ起シ及予算ニ定メタルモノヲ除ク外国庫ノ負担トナルヘキ契約ヲ為スハ帝国議会ノ協賛ヲ経ヘシ
  • 第63条現行ノ租税ハ更ニ法律ヲ以テ之ヲ改メサル限ハ旧ニ依リ之ヲ徴収ス
  • 第64条国家ノ歳出歳入ハ毎年予算ヲ以テ帝国議会ノ協賛ヲ経ヘシ
    2 予算ノ款項ニ超過シ又ハ予算ノ外ニ生シタル支出アルトキハ後日帝国議会ノ承諾ヲ求ムルヲ要ス
  • 第65条予算ハ前ニ衆議院ニ提出スヘシ
  • 第66条皇室経費ハ現在ノ定額ニ依リ毎年国庫ヨリ之ヲ支出シ将来増額ヲ要スル場合ヲ除ク外帝国議会ノ協賛ヲ要セス
  • 第67条憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出及法律ノ結果ニ由リ又ハ法律上政府ノ義務ニ属スル歳出ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス
  • 第68条特別ノ須要ニ因リ政府ハ予メ年限ヲ定メ継続費トシテ帝国議会ノ協賛ヲ求ムルコトヲ得
  • 第69条避クヘカラサル予算ノ不足ヲ補フ為ニ又ハ予算ノ外ニ生シタル必要ノ費用ニ充ツル為ニ予備費ヲ設クヘシ
  • 第70条公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ需要アル場合ニ於テ内外ノ情形ニ因リ政府ハ帝国議会ヲ召集スルコト能ハサルトキハ勅令ニ依リ財政上必要ノ処分ヲ為スコトヲ得
    2 前項ノ場合ニ於テハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出シ其ノ承諾ヲ求ムルヲ要ス
  • 第71条帝国議会ニ於イテ予算ヲ議定セス又ハ予算成立ニ至ラサルトキハ政府ハ前年度ノ予算ヲ施行スヘシ
  • 第72条国家ノ歳出歳入ノ決算ハ会計検査院之ヲ検査確定シ政府ハ其ノ検査報告ト倶ニ之ヲ帝国議会ニ提出スヘシ
    2 会計検査院ノ組織及職権ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム

第7章 補則

  • 第73条将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
    2 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノニ以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス
  • 第74条皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス
    2 皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ条規ヲ変更スルコトヲ得ス
  • 第75条憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス
  • 第76条法律規則命令又ハ何等ノ名称ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ総テ遵由ノ効力ヲ有ス
    2 歳出上政府ノ義務ニ係ル現在ノ契約又ハ命令ハ総テ第六十七条ノ例ニ依ル



大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、旧字体:大日本帝國憲法)は、1889年明治22年)2月11日公布1890年(明治23年)11月29日に施行された、近代立憲主義に基づく日本憲法[1]明治憲法、あるいは単に帝国憲法と呼ばれることも多い。現行の日本国憲法との対比で旧憲法とも呼ばれる。


大日本帝国憲法下の統治機構図。カッコで括った機関は、憲法に規定がない。
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明治2年6月17日1869年7月25日)、版籍奉還がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還した。これは、幕府や藩などの媒介なしに、天皇の下にある中央政府が直接に土地と人民を支配し、統治権(立法権・行政権・司法権)を行使することを意味する。さらに、明治4年7月14日1871年8月29日)には廃藩置県が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力が中央政府に集中された。大日本帝国憲法第1条および同第4条は、国家の統治権は天皇が総攬すると規定している。


大日本帝国憲法の問題点

大日本帝国憲法には、「内閣」「内閣総理大臣(首相)」の規定がない。これは、伊藤博文がグナイストの指導を受け入れ、プロイセン憲法を下敷きにして新憲法を作ったからに他ならない。グナイストは伊藤に対して、「イギリスのような責任内閣制度を採用すべきではない。なぜなら、いつでも大臣の首を切れるような首相を作ると国王の権力が低下するからである。あくまでも行政権は国王や皇帝の権利であって、それを首相に譲ってはいけない」とアドバイスした。この意見を採用した結果、戦前の日本は憲法上「内閣も首相も存在しない国」になった。これが後に日本に大変な災いをもたらすことになった。この欠陥に気づいた軍部が政府を無視して暴走しはじめたのである。「陸海軍は天皇に直属する」という規定をたてに政府の言うことを聞かなくなった。これが「統帥権干犯問題」の本質でもある。昭和に入るまでは明治維新の功労者である元勲がいたためそのような問題が起きなかったが、元勲が相次いで死去するとこの問題が起きてきた。そしてさらに悪いことに、大日本帝国憲法を「不磨の大典」として条文の改正を不可能にする考え方があったことである。これによって昭和の悲劇が決定的になったと言える[9]


転載元転載元: 脳脊髄液減少症


何が平等だ・くそったれ・・・

歪な天秤、裁判の不均衡の不平等

訴えた弱者だけに、完全な立証義務だけが発生する。

訴えられた強者は、立証義務は発生しない。

これだけの強い不平等は、弱者人権無視でしかない。

★★相互に立証責任は平等に負担するものである★★

憲法の平等人権に完全に違反している。





弱者よ、少しは、考えて、みようよね・・・・・

・・・・・・・
・・・・・・・・・・
・・
・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・

・・・・・・

・・

・・・・・



天の父さま

どんな不幸を吸っても

はく息は
感謝でありますように

すべては 恵みの
呼吸ですから


NHK 2016.2.20.放送より


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「天の父さま、どんな不幸を吸っても、はく息は、感謝でありますように、すべては、恵みの呼吸ですから」(河野 進)

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ノートルダム清心女子大学
ノートルダム清心学園理事長 渡 辺  和 子
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置かれた場所で咲きなさい

面倒だから、しよう

 
「ひと」として大切なこと


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渡辺和子



渡辺和子
1936年成蹊小学校3年生で9歳の時に二・二六事件に遭遇。父の居間で1mのところで、当時教育総監だった父が青年将校に襲撃され、43発の銃弾で命を落としたのを目のあたりにした[2]


渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年4月16日 - 1936年2月26日)は、日本の昭和初期の陸軍軍人で、二・二六事件の犠牲者である。

殺されるであろう事を感じた渡辺は、傍にいた次女の渡辺和子を近くの物陰に隠し、拳銃を構えたが、直後にその場で殺害された。父の死を目の前で見た和子の記憶によると、機銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。布団を楯にして応戦したという記録もあるが、和子によるとそれは事実に反し、銃撃を避けるため畳の上に体を横たえて拳銃を構えていたという。渡辺邸には警護のため牛込憲兵分隊から派遣された憲兵伍長と憲兵上等兵が常駐していたが襲撃前に電話を受けて2階に上がったままで、渡辺に警告することも護衛することもなく、不審な行動だったとして和子に疑問を抱かせている[3]。結局渡辺は一人で応戦し、命を落としたのも渡辺だけであった。

渡辺は事件後に位階を一等追陞されるとともに勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。





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渡辺和子


著書

心に愛がなければ」(1992年PHP研究所ISBN 4569564453

愛をこめて生きる」(1999年、PHP研究所、ISBN 4569572596

愛することは許されること」(1999年、PHP研究所、ISBN 4569573495

「ひと」として大切なこと」(2005年、PHP研究所、ISBN 4569664288)※2003年刊行『人間としてどう生きるか』の改題版。

美しい人に」(2008年、PHP研究所、ISBN 978-4569698526

置かれた場所で咲きなさい」(2012年、幻冬舎ISBN 978-4344021747

面倒だから、しよう」(2013年、幻冬舎、ISBN 978-4344025066


出典
 a b 渡辺和子「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」『文藝春秋2012年9月号、pp.320-323

 来歴
1927年、北海道旭川市で出生。父親は当時、日本陸軍中将で旭川第7師団長だった渡辺錠太郎で、53歳のときの子だった。4人兄姉の末っ子で次女[2]
1936年成蹊小学校3年生で9歳の時に二・二六事件に遭遇。父の居間で1mのところで、当時教育総監だった父が青年将校に襲撃され、43発の銃弾で命を落としたのを目のあたりにした[2]
成蹊小学校、雙葉高等女学校(現 雙葉中学校・高等学校)卒業。
1945年、18歳でキリスト教洗礼を受ける。1951年聖心女子大学に通いながら上智大学で文書作成のアルバイトをし、1954年上智大学大学院(西洋文化研究科)修士課程修了。
アメリカへ留学し、1962年6月にボストンカレッジ大学院で博士号(哲学)を取得したのち、同年9月にノートルダム清心女子大学教授に就任。
1963年に36歳という異例の若さで岡山県ノートルダム清心女子大学学長に就任(1990年に退任)。長年にわたり教壇に立ち、学生の心を支え指導する。
1977年にはうつ病を患う。
1984年マザー・テレサが来日した際には通訳を務めるなど多方面で活躍。著書も多数。
1990年にはノートルダム清心女子大学の名誉学長、及びノートルダム清心学園の理事長に就任。1992年2001年には日本カトリック学校連合会理事長に就任した。
1996年、69歳の時にカルカッタの修道会本部を訪れる。

2012年に発売した著書『置かれた場所で咲きなさい』が、195万部を超えるベストセラーとなった[3][4][5]


「置かれた場所で咲きなさい」
渡辺和子
文芸春秋
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渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年4月16日 - 1936年2月26日)は、日本の昭和初期の陸軍軍人で、二・二六事件の犠牲者である。

来歴
家庭が貧しかったために、小学校を中退している。その後、看護卒を志願して陸軍に入営(当時は、陸軍上等看護長になると医師開業免状を与えられたので、医師を目指して入営している)。中隊長から優秀であることを評価され、陸軍士官学校 (日本)受験を勧められ、師団内1位の成績で合格。その後陸軍大学校に入学し明治36年に首席で卒業。


教育総監就任と二・二六事件

1930年代前半、陸軍内部では皇道派の勢力が伸張していたが、中心人物である荒木貞夫陸相は強権的人事により評判が低下した。荒木が1934年に病気を理由に陸相を辞任したことで、皇道派の勢いは衰え、陸相の後任には荒木の要望に反して林銑十郎が就任した。

翌年7月、荒木の腹心の部下である真崎甚三郎教育総監の後任として皇道派と距離を置いていた渡辺が選ばれた。

渡辺は、乱れきった陸軍の統制を締め直すために、あえて火中の栗を拾った。渡辺は、ヨーロッパ流のリベラル派の教養人であり、給料の大半を丸善書店の支払いに充てていた[1]。名古屋で第3師団の将校たちを集め、真崎が教育総監のときに陸軍三長官打ち合わせの上で出した国体明徴に関する訓示を批判し、天皇機関説を擁護したといわれているが定かでない。しかし、この就任劇がいわゆる皇道派青年将校を刺激したことは確かである。

1936年2月26日に渡辺は二・二六事件で陸軍将校に殺害された。61歳没。渡辺は元々は襲撃目標リストに入っていなかったが、先述の通り天皇機関説を支持するような訓示をしていたとして直前になって目標に加えられた。渡辺邸への襲撃は斎藤実内大臣を襲撃した高橋太郎少尉及び安田優少尉が指揮する部隊が実行し、時刻は遅く、午前6時過ぎのことだった。ここで注意すべきなのは、斎藤や高橋是清といった重臣が殺害されたという情報が、渡辺の自宅には入っていなかったということである。殺された重臣と同様、渡辺が青年将校から極めて憎まれていたことは当時から周知の事実であり、斎藤や高橋が襲撃されてから1時間経過してもなお事件発生を知らせる情報が彼の元に入らず、結果殺害されるに至ったことに対し、彼の身辺に「敵側」への内通者がいたという説もある[2]

殺されるであろう事を感じた渡辺は、傍にいた次女の渡辺和子を近くの物陰に隠し、拳銃を構えたが、直後にその場で殺害された。父の死を目の前で見た和子の記憶によると、機銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。布団を楯にして応戦したという記録もあるが、和子によるとそれは事実に反し、銃撃を避けるため畳の上に体を横たえて拳銃を構えていたという。渡辺邸には警護のため牛込憲兵分隊から派遣された憲兵伍長と憲兵上等兵が常駐していたが襲撃前に電話を受けて2階に上がったままで、渡辺に警告することも護衛することもなく、不審な行動だったとして和子に疑問を抱かせている[3]。結局渡辺は一人で応戦し、命を落としたのも渡辺だけであった。

渡辺は事件後に位階を一等追陞されるとともに勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。

渡辺は天皇機関説を徹底的に弾圧した前任の真崎とはまったく人物の度量が異なっており、渡辺の自由主義的な発想や意見は、そもそも人文社会科学的な教養に乏しい過激青年将校の憎悪を招いた。

家族
愛知県の出身(東春日井郡小牧町)。煙草製造販売店・和田武右衛門の長男。母は愛知県丹羽郡岩倉町渡辺庄二郎の次女きの。19歳のときに母の実家の縁戚である農家の渡辺庄兵衛の養子となる。実弟の和田庫吉も陸士20期卒で陸軍少佐になっている。子息の恭二は陸士57期の陸軍中尉。次女にノートルダム清心学園理事長で修道女の渡辺和子がいる。



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「置かれた場所で咲きなさい」(2012年、幻冬舎、ISBN 978-4344021747)

美しい人
ノートルダム清心学園理事長 渡 辺  和 子
平成七年六月四日に、NHK教育テレビの「こころの時代」で放映
「三つの心の化粧品」ほほえみ 思いやり 主体性
「もし、あなたが誰かに期待したほほえみが得られなかったら、不愉快になる代わりに、あなたの方からほほえみかけてごらんなさい、実際ほほえみを忘れたその人ほど、あなたからのそれを必要としている人はいないのだから」
渡辺:   優しさとは強いこと」でございます。「強くなければ本当に優しい人にはなれない」と思います。

2016/2/11(木) 午前 4:01  http://blogs.yahoo.co.jp/kikitata3/34517993.html


置かれた場所で咲きなさい


面倒だから、しよう

「ひと」として大切なこと


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渡辺和子


渡辺和子
1936年成蹊小学校3年生で9歳の時に二・二六事件に遭遇。父の居間で1mのところで、当時教育総監だった父が青年将校に襲撃され、43発の銃弾で命を落としたのを目のあたりにした[2]



■渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年4月16日 - 1936年2月26日)は、日本の昭和初期の陸軍軍人で、二・二六事件の犠牲者である。

殺されるであろう事を感じた渡辺は、傍にいた次女の渡辺和子を近くの物陰に隠し、拳銃を構えたが、直後にその場で殺害された。父の死を目の前で見た和子の記憶によると、機銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。布団を楯にして応戦したという記録もあるが、和子によるとそれは事実に反し、銃撃を避けるため畳の上に体を横たえて拳銃を構えていたという。渡辺邸には警護のため牛込憲兵分隊から派遣された憲兵伍長と憲兵上等兵が常駐していたが襲撃前に電話を受けて2階に上がったままで、渡辺に警告することも護衛することもなく、不審な行動だったとして和子に疑問を抱かせている[3]。結局渡辺は一人で応戦し、命を落としたのも渡辺だけであった。

渡辺は事件後に位階を一等追陞されるとともに勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。





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渡辺和子


著書

心に愛がなければ」(1992年PHP研究所ISBN 4569564453
愛をこめて生きる」(1999年、PHP研究所、ISBN 4569572596
愛することは許されること」(1999年、PHP研究所、ISBN 4569573495
「ひと」として大切なこと」(2005年、PHP研究所、ISBN 4569664288)※2003年刊行『人間としてどう生きるか』の改題版。
美しい人に」(2008年、PHP研究所、ISBN 978-4569698526
置かれた場所で咲きなさい」(2012年、幻冬舎ISBN 978-4344021747
面倒だから、しよう」(2013年、幻冬舎、ISBN 978-4344025066


出典

 a b 渡辺和子「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」『文藝春秋2012年9月号、pp.320-323


 来歴

1927年、北海道旭川市で出生。父親は当時、日本陸軍中将で旭川第7師団長だった渡辺錠太郎で、53歳のときの子だった。4人兄姉の末っ子で次女[2]

1936年成蹊小学校3年生で9歳の時に二・二六事件に遭遇。父の居間で1mのところで、当時教育総監だった父が青年将校に襲撃され、43発の銃弾で命を落としたのを目のあたりにした[2]

成蹊小学校、雙葉高等女学校(現 雙葉中学校・高等学校)卒業。

1945年、18歳でキリスト教洗礼を受ける。1951年聖心女子大学に通いながら上智大学で文書作成のアルバイトをし、1954年上智大学大学院(西洋文化研究科)修士課程修了。


アメリカへ留学し、1962年6月にボストンカレッジ大学院で博士号(哲学)を取得したのち、同年9月にノートルダム清心女子大学教授に就任。

1963年に36歳という異例の若さで岡山県ノートルダム清心女子大学学長に就任(1990年に退任)。長年にわたり教壇に立ち、学生の心を支え指導する。

1977年にはうつ病を患う。1984年マザー・テレサが来日した際には通訳を務めるなど多方面で活躍。著書も多数。

1990年にはノートルダム清心女子大学の名誉学長、及びノートルダム清心学園の理事長に就任。1992年2001年には日本カトリック学校連合会理事長に就任した。

1996年、69歳の時にカルカッタの修道会本部を訪れる。

2012年に発売した著書『置かれた場所で咲きなさい』が、195万部を超えるベストセラーとなった[3][4][5]




「置かれた場所で咲きなさい」
渡辺和子
文芸春秋
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渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年4月16日 - 1936年2月26日)は、日本の昭和初期の陸軍軍人で、二・二六事件の犠牲者である。

来歴
家庭が貧しかったために、小学校を中退している。その後、看護卒を志願して陸軍に入営(当時は、陸軍上等看護長になると医師開業免状を与えられたので、医師を目指して入営している)。中隊長から優秀であることを評価され、陸軍士官学校 (日本)受験を勧められ、師団内1位の成績で合格。その後陸軍大学校に入学し明治36年に首席で卒業。

教育総監就任と二・二六事件
1930年代前半、陸軍内部では皇道派の勢力が伸張していたが、中心人物である荒木貞夫陸相は強権的人事により評判が低下した。荒木が1934年に病気を理由に陸相を辞任したことで、皇道派の勢いは衰え、陸相の後任には荒木の要望に反して林銑十郎が就任した。

翌年7月、荒木の腹心の部下である真崎甚三郎教育総監の後任として皇道派と距離を置いていた渡辺が選ばれた。

渡辺は、乱れきった陸軍の統制を締め直すために、あえて火中の栗を拾った。渡辺は、ヨーロッパ流のリベラル派の教養人であり、給料の大半を丸善書店の支払いに充てていた[1]。名古屋で第3師団の将校たちを集め、真崎が教育総監のときに陸軍三長官打ち合わせの上で出した国体明徴に関する訓示を批判し、天皇機関説を擁護したといわれているが定かでない。しかし、この就任劇がいわゆる皇道派青年将校を刺激したことは確かである。

1936年2月26日に渡辺は二・二六事件で陸軍将校に殺害された。61歳没。渡辺は元々は襲撃目標リストに入っていなかったが、先述の通り天皇機関説を支持するような訓示をしていたとして直前になって目標に加えられた。渡辺邸への襲撃は斎藤実内大臣を襲撃した高橋太郎少尉及び安田優少尉が指揮する部隊が実行し、時刻は遅く、午前6時過ぎのことだった。ここで注意すべきなのは、斎藤や高橋是清といった重臣が殺害されたという情報が、渡辺の自宅には入っていなかったということである。殺された重臣と同様、渡辺が青年将校から極めて憎まれていたことは当時から周知の事実であり、斎藤や高橋が襲撃されてから1時間経過してもなお事件発生を知らせる情報が彼の元に入らず、結果殺害されるに至ったことに対し、彼の身辺に「敵側」への内通者がいたという説もある[2]

殺されるであろう事を感じた渡辺は、傍にいた次女の渡辺和子を近くの物陰に隠し、拳銃を構えたが、直後にその場で殺害された。父の死を目の前で見た和子の記憶によると、機銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。布団を楯にして応戦したという記録もあるが、和子によるとそれは事実に反し、銃撃を避けるため畳の上に体を横たえて拳銃を構えていたという。渡辺邸には警護のため牛込憲兵分隊から派遣された憲兵伍長と憲兵上等兵が常駐していたが襲撃前に電話を受けて2階に上がったままで、渡辺に警告することも護衛することもなく、不審な行動だったとして和子に疑問を抱かせている[3]。結局渡辺は一人で応戦し、命を落としたのも渡辺だけであった。

渡辺は事件後に位階を一等追陞されるとともに勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。

渡辺は天皇機関説を徹底的に弾圧した前任の真崎とはまったく人物の度量が異なっており、渡辺の自由主義的な発想や意見は、そもそも人文社会科学的な教養に乏しい過激青年将校の憎悪を招いた。

家族
愛知県の出身(東春日井郡小牧町)。煙草製造販売店・和田武右衛門の長男。母は愛知県丹羽郡岩倉町渡辺庄二郎の次女きの。19歳のときに母の実家の縁戚である農家の渡辺庄兵衛の養子となる。実弟の和田庫吉も陸士20期卒で陸軍少佐になっている。子息の恭二は陸士57期の陸軍中尉。次女にノートルダム清心学園理事長で修道女の渡辺和子がいる。



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「置かれた場所で咲きなさい」(2012年、幻冬舎、ISBN 978-4344021747)





それぞれの思いと恣意性

まず、本当の現実と真実を知ることが、最も大切です。



■概略、日本史

■人物画像で見る

◆日本において最後の幕府、「江戸幕府」

■そして、明治



子供に教えることのまとめ

江戸時代1603年〜1868年 約260年間



日本において最後の幕府、「江戸幕府」。
徳川家康が征夷大将軍になるところから始まる。


徳川家康

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まず、家康がやったのは戦争。
大阪の陣で豊臣家を滅ぼした。
これは、徳川家が存続するための不安を残さないため。


そのあと徳川家が支配者であり続けるための法律を作った。
武家諸法度(ぶけしょはっと)と禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)である。


武家諸法度は武士(御家人)に対する法律。
これは今までにも存在した。
禁中並公家諸法度は、天皇や公家に対する法律。
朝廷がまた権力を握ろうとしないように、学問と祭り事だけをしていなさいと示した法律。
この法律により、朝廷が政治を行う能力を失った。


徳川家は、禁教令をだす。
これは、キリスト教を禁止する法律。
キリスト教の教えは「神の下にみな平等」というもの。
徳川家はこれを嫌った。
キリスト教徒を発見するために「踏み絵(ふみえ)」を用いた。
紙にイエス・キリストや聖母マリアが描かれたものを踏ませて、踏めなかったものをキリスト教徒とした。
発見されたキリスト教徒は火あぶりの刑などで処刑された。

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さらに徳川家の横暴は続く。
大名に「参勤交代(さんきんこうたい)」を義務付ける。

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参勤交代とは、大名の経済力を削ぐ政策。
大名の妻子を人質として江戸幕府に置く。
大名は定期的(約1年)に本拠地と江戸を行ったり来たりする。
大名の移動には多額の費用がかかり、徳川家に対抗する力がなくなった。


キリスト教徒の弾圧と農民に対する圧政を怠らない徳川幕府。
それらの恨みが3年の不作をきっかけに爆発する。
「島原の乱(長崎県)」である。
徳川幕府は農民に対し、過度な年貢を強要していた。
実際の収穫高より倍の年貢を強要していたことと長引く不作が重なり、餓死する農民が後をたたなかった。
そんな中、キリスト教徒の天草四郎(あまくさしろう)が登場。


天草四郎

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天草四郎は徳川幕府に不満を抱く農民にキリスト教を布教し、一揆の団結をはかった。
4万人の農民たちは一揆を起こしたが、徳川幕府は12万もの大軍を送る。
農民たちは、皆処刑されてしまった。
これが日本で初めての大規模な自由と平等を求めた運動(島原の乱)である。


これに対し幕府は、キリスト教が国内でこれ以上広まらないようポルトガル船の来航を禁止した。
これにより、鎖国が完成。
また五人組の制を厳しくし、同じような一揆が起こらないように国民を厳しく監視した。


五人組の制とは
五人組を組ませて犯罪の防止や年貢の納入に連帯責任を負わせたこと。
五人組の中に犯罪を犯した者がいたら組の者が幕府に密告する。
五人以外の者が密告したらその者に褒美が与えられる。


この時期から徳川幕府は、密告・監視体制が特に発達していった。


徳川家は農民に対する弾圧の手を緩めない。
慶安の御触書(けいあんのおふれがき)という法令を出し、農民を厳しく取り締まった。


この頃、慶安の変(けいあんのへん)という幕府反乱未遂事件がおこる。
何故未遂に終わったかというと、やはり密告である。


徳川綱吉が5代目将軍になる。
綱吉は「生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)」という悪法を出す。


徳川綱吉

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生類憐れみの令は当初生き物全てに対する法令であったが、その後何故か犬に特化し、犬への虐待が取り締まられ、犬虐待への密告者に賞金が支払われた。
密告・監視社会としての機能を発展させた悪法である。
この法令は綱吉死亡後に廃止。


杉田玄白(すぎたげんぱく)がオランダの医学書を翻訳して「解体新書(かいたいしんしょ)」という医学書を著す。


杉田玄白

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解体新書

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平賀源内(ひらがげんない)がエレキテル(発電機)をつくる。


平賀源内

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エレキテル

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伊能 忠敬(いのう ただたか)が「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」という日本全土の実測地図を作成する。
56歳の時に16年かけて全国を測量して回りすべて手書きで完成させた。
この地図は当時世界的に見てもとても正確で国家機密となった。


伊能忠敬

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大日本沿海輿地全図

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シーボルトというドイツ人が長崎に来て医師として活動する。


シーボルト

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シーボルトは鳴滝塾(なるたきじゅく)という私塾を開き、西洋医学や自然科学など科学の幅広い分野を教授した。
来日の目的は日本の内情探索。要するにスパイ。
日本滞在中、日本人女性との間に子供ができる。
名前は楠本イネ(くすもと いね)。
楠本イネは差別を受けながらも、産婦人科医として活躍する。


楠本イネ

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シーボルトは日本に5年滞在し、帰国することになった。
帰国する際、伊能忠敬の大日本沿海輿地全図を国外に持ち出そうとしたが見つかる。
シーボルトは日本国追放になるが、30年後に罪が許され再来日をはたしている。
これを「シーボルト事件」という。


江戸幕府が開かれてから230年がたった。
圧倒的武力で支配を続ける徳川家。
しかしこの間、3度に渡る飢餓騒動がおき、多くの日本国民が命を失った。
数は曖昧だが、100万人近い国民が飢餓により亡くなったとされる。


多くの国民が貧困にあえいでいる中、重税をとりつづけ、私腹を肥やす徳川家とその取り巻き達。
苦しむ国民のために立ち上がった一人の役人がいる。
大塩平八郎(おおしおへいはちろう)である。


大塩平八郎

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大塩平八郎は役人の肩書きをすてて、国民のために立ち上がった。
大砲を撃ちながら大阪を練り歩き、金銭を奪い飢餓に苦しむ農民に配って歩いたが、1日で幕府に鎮圧されてしまった。
役人がこのような反乱を起こしたことに幕府はちょっとだけ驚いた。
これを「大塩平八郎の乱」という。


このように、徳川幕府に対する不満は徐々に広がりつつある。
これから江戸幕府滅亡までの30年間を幕末という。


大塩平八郎の乱から10年がたったが、幕府が行う経済政策はことごとく失敗に終わっていた。
そんな中、ついに黒船が浦賀(神奈川県)にやってきた。


黒船来航
アメリカの使節ペリーが浦賀に来航(軍艦4隻)して開国を要求した。



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この軍艦には大砲がついており、ペリーはその火力で幕府を脅し開港を要求した。
幕府は即答できなかった(朝廷から勅許[ちょっきょ]を貰わなければならないため)。


翌年ペリーは再び来航し、幕府は圧力に負けて日米和親条約を結んだ。
当時朝廷は、外国(当時、外夷[がいい]と呼んでいた。外夷は外国をいやしめた言葉)を嫌っており、「外夷は打ち払え」などと言っていた。
幕府は外国の圧力と朝廷との間で板挟みになった。


日米和親条約
下田(静岡県 伊豆)・函館の2港を開いて、アメリカ船に食料や燃料を与えることを約束。
その後ロシア・イギリス・オランダも和親条約を結んだ。
これにより日本の鎖国は終了する。


この時から、尊王攘夷(そんのうじょうい)という言葉が武士の間で流行する。
尊王とは、天皇を尊ぶこと。攘夷は外夷を打ち払うということ。
天皇を尊び外夷を打ち払うという意味。


黒船が来航したことにより、武士は幕府側(佐幕派 さばくは)と尊皇攘夷派(朝廷側)の2つに意見が別れた。
これが後の討幕、明治維新につながっていく。


その2年後、吉田松陰が松下村塾(しょうかそんじゅく 山口県 萩市)を開く。
松下村塾は約2年間の短い期間であったが、後の明治維新に関わる重要な人物を多数出した。
長州藩士はほとんどが吉田松陰の影響を受けているといってもよい。


吉田松陰

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吉田松陰は長州藩士(山口県)で、佐久間象山(さくま しょうざん)から西洋兵法を学んでいる。


佐久間象山

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佐久間象山は、西洋兵法、洋学の第一人者。
勝海舟(かつかいしゅう)の妹と結婚している。
後に吉田松陰がペリーの艦隊(黒船)に密航を企てた際、入獄させられる。
謹慎処分中に開国論者だということで暗殺される。


勝海舟

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勝海舟は幕臣でありながら開国論者で明治維新まで大きな影響を与える。
坂本龍馬(さかもとりょうま)の師匠。
35歳で福沢諭吉(ふくざわゆきち)、ジョン万次郎(じょんまんじろう)と一緒に渡米する。
そこでアメリカの法律や世界観、現在日本の置かれている立場、日本の将来を理解する。
坂本龍馬が自分を殺害しにきた際、その場で論破し弟子にしてしまう。


福沢諭吉

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福沢諭吉は、1万円札の肖像画の人。
佐久間象山の影響を受けている蘭学塾の講師をしていた際、英語を独学で学ぶ。
英語力を買われて、勝海舟、ジョン万次郎とともに渡米する。
アメリカで本を買い込み日本に持ち帰り、翻訳して「西洋事情」を出版した。


西洋事情

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西洋事情では、アメリカ独立宣言の全文を翻訳して幕府機構の改革を唱えた。
また、病院・銀行・郵便・徴兵の制度や設備について言及している。


明治維新後は、慶應義塾(現 慶応義塾大学)を開き、教育活動に専念した。
現在、すべての学問を日本語で学ぶことができるのは福沢諭吉のおかげだといっても過言ではない。


ジョン万次郎

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ジョン万次郎は、土佐藩(高知県)の漁師だった。
8歳の時、嵐で遭難して無人島に流れ着く。
アメリカの捕鯨船に救助され、アメリが本土に渡る。
船長の養子になって、人種差別を受けながらも英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。
学校を卒業した後、捕鯨船員として活躍するが日本が恋しくなり苦労して帰国。
軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導を行った。
後に勝海舟、福沢諭吉と一緒に渡米し、手助けをしている。


坂本龍馬

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土佐藩脱藩浪士(とさはんだっぱんろうし)、北辰一刀流免許皆伝を持つ剣の達人。
土佐藩の佐幕思想に愛想をつかし、脱藩(くにぬけ)する。
その後勝海舟の弟子になり、私設の海軍学校を作る。
幕府に疑われ、海軍学校が取り潰しになってしまってからは、亀山社中(かめやましゃちゅう)という会社を設立し、討幕活動を行う。
亀山社中はのちに海援隊と名前を変え、明治維新後その業務は三菱商事に引き継がれる。
のちに薩長同盟、大政奉還などの大仕事をやり遂げた後、恨みを買い暗殺される。
薩長同盟、大政奉還はあとでふれる。




さて、その吉田松陰、どうしてもアメリカに行って世界情勢を知りたくなった。
夜にこっそりと黒船乗り込み、密航をペリーにお願いした。
ペリーは幕府との関係がこじれるのを恐れ、吉田松陰を幕府に引き渡してしまう。
その後吉田松陰は、入獄させられ30歳で処刑された。


井伊直弼(いいなおすけ)が大老(たいろう 将軍の補佐役、最高職)になると、幕府に対抗する勢力を次々に捕らえ、処刑していった。
井伊直弼が朝廷の許可なく外国と通商条約を結んだことを批判する武士に対して行った虐殺で、これを安政の大獄(あんせいのたいごく)という。
安政の大獄で処刑されたのは2年間で100人以上である。
吉田松陰もこの時殺されている。


井伊直弼

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大虐殺を行った井伊直弼は尊王攘夷派の武士に恨みを買い、桜田門外で暗殺された。
大老が暗殺されるという大事件に幕府の威厳が失われ、いよいよ時代は討幕へと移っていく。
この事件を「桜田門外の変」という。


その2年後、イギリスと薩摩藩(鹿児島県)の間で事件が起きる。
生麦村(なまむぎむら 神奈川県横浜市)で薩摩藩の最高権力者、島津久光の大名行列に乗馬散歩中のイギリス人4人が列に乗り込んできた。
下馬しなさいという命令を無視したイギリス人たちは薩摩藩士に切りつけられ、1人死亡、2人重傷を負った。
当時、大名行列に出くわした外国人は下馬して道脇で行列がすぎるのを待つことを通達されていたが、イギリス人たちはこれをしなかった。
これを生麦事件といい、このあと薩英戦争を招くこととなる。


島津久光

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生麦事件の損害賠償を迫るイギリスは、鹿児島湾に軍艦を7隻送り込む。
これに対し薩摩藩は陸上砲台で軍艦3隻を中・大破させる。
イギリス本土はこの結果に驚き、薩摩藩との対応を軟化させた。
この戦争をきっかけに薩摩藩とイギリスの関係は親密になった。


尊皇攘夷活動で最も過激だったのは長州藩(山口県)であった。
京都で朝廷を抱えこみ、討幕を狙っていた。
薩摩藩はこの活動を危険視し、会津藩と組んで長州藩を京都から追い出すことに成功した。
この時、長州藩と親密だった公家7人が京都から追放された。
これを七卿落ち(しちきょうおち)といい、のちの明治政府で活躍する三条 実美(さんじょうさねとみ)もこの中に含まれる。


三条 実美

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この仕打を不服とした長州藩は武力で京都を奪還しようとしたが、幕府とその味方についた薩摩藩により長州藩は敗北した。
これを蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)という。


幕府は長州藩を完全に取り潰してしまおうと考え、2度にわたって長州征伐を行ったが2度目は失敗に終わった。
これには、松下村塾出身の高杉晋作(長州藩)、坂本龍馬(土佐脱藩浪士)の活躍や、薩長同盟、幕府の威厳低下などが理由にあげられる。


高杉晋作

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薩長同盟
坂本龍馬が仲介をし、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)、長州藩の桂小五郎(かつらこごろう)がに軍事同盟を結び、倒幕の計画を進めた。


西郷隆盛

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大久保利通

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桂小五郎 別名:木戸 孝允(きど たかよし)

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徳川家茂(とくがわいえもち)が病死し徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が第15代将軍となるが、倒幕派の勢いは止まらない。


徳川家茂

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徳川慶喜

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薩摩藩、長州藩に味方し、討幕を画策する公家の岩倉具視(いわくらともみ)は、まだ幼い明治天皇から倒幕の勅許(ちっきょ)を得るために工作を行った。


岩倉具視

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倒幕のために日本人同士が殺し合い疲弊することが日本のためにならないと思った坂本龍馬は、土佐藩の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)に大政奉還(たいせいほうかん)の案を託す。


後藤象二郎

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大政奉還とは、徳川家が握っている政治の権限を朝廷に返してしまい、倒幕派に戦争の理由を失わせ、徳川家を存続させるというもの。
200年以上政権を握っていた徳川家が権力を手放すわけがないと思われたが、徳川慶喜の英断により鎌倉幕府から700年近く続いた武家政治が終わった。
徳川慶喜が大政奉還を受け入れ、王政復古の大号令により明治天皇が政治をとることが示された。
徳川慶喜が大政奉還を受け入れた日は、岩倉具視が倒幕の密勅を手に入れた日と同日であった。


徳川慶喜が大政奉還を受け入れた1ヶ月後、坂本龍馬が見廻組(会津藩)に暗殺される。


新政府の政治の方針として五箇条の御誓文が示された。
この内容は、坂本龍馬が後藤象二郎に大政奉還案を託した時に船の中で言った船中八策(せんちゅうはっさく)の内容が多く含まれている。


その後、西郷隆盛と幕府の勝海舟との話し合いによって、江戸城が新政府に引き渡された。(江戸城無血開城)


しかし不満を持った会津藩(福島県)・桑名藩(三重県)は新政府と対立した。
鳥羽・伏見の戦いや、函館五稜郭の戦いなどで抵抗したが、新政府軍に敗れた。
この一連の戦いを戊辰戦争(ぼしんせんそう)という。
徳川慶喜は、最後まで逃げまわり明治維新後も生き延びた。
明治維新後は趣味に没頭する生活を送り、77歳で風邪により死亡した。


戊辰戦争の終結により、江戸時代は幕を閉じる。




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